alt-artsです、よろしく

ロシア版ホームズの連作をDVD化しましたAlt-artsです。
映画やDVDについて徒然なるままに書いていきます。

確定申告の季節に思う

2010-02-19 00:25:57 | 日記
国民の血税はどれほど、国民自身の「健康で文化的な」生活のために使われているのだろうか?

「文化」の定義はほとんど不可能だが、それは少なくとも価値の体系と、それを更新する伝統や規範との創造的な格闘を前提とするだろう。変化しない文化的規範とは単なる因習や迷信に過ぎず、価値の序列のない文化とは単なる退廃である。それは健康ではないし、「文化的」ではない。

いわゆる「文化」のうちで、単に金儲けに直接結びつくことのない、最近は否定的に語られることの多くなった部分―芸術を中心とする部分―が人間の尊厳の維持や心の安定に必要であることは、よほど粗暴で無教養な人でもない限り、認めざるを得ないだろう。
音楽がアニメ番組の主題歌のようなものだけでもよいとか、映画には儲かるアクションものと「世界に認められた」「巨匠」の古典的作品以外は必要ないとか、そのような主張をする者はいないだろう。だが、現在の日本の映画政策の現実は、あたかもそのような方針に基づいているかのようなのだ。

これで、この国の文化に―いや、国そのものに―将来があるだろうか?

世界的に有名な科学者の中には、偏執狂的に戦略核兵器や「SDI(わゆるスターウォーズ計画)」構想の必要性を主張し続けた者がいる一方で、文学や音楽に造詣の深い理性的かつ人道的な人々も少なくない。
アメリカにおける宇宙人による誘拐話やオカルトの流行を危惧し、青少年が科学への関心を失いつつあることに警鐘を鳴らしたカール・セーガンもその一人だ。
高度な芸術作品は、それを感性と感情だけでなく理性を通しても受容することができるような人々を引き付けるものだ。それとは対照的に、「ポップ・カルチャー」とされるもの(娯楽映画の多くがそうだ)は、感性や感情にのみ働きかけ、人々の理性を鈍らせることが多い。後になって「何故あのような浅薄な作品に熱中したのだろう」という印象を与えることの多いのは、そのようなポップ・カルチャー―儲かる作品―の方である。

先に触れたカール・セーガンは、80年代初めにロナルド・レーガン米大統領がSDI構想に熱中していた頃、彼が国民への演説の中で、映画スターであった頃の俳優として思い出を現実の戦争体験と混同していたことを指摘している。歴史的に見て、レーガンのSDI構想が核戦争の危機を高めていたこと、「核の冬」を警告した科学者達の方がSDI構想を提言した科学者よりも人類に貢献したことは明らかだ。
してみると、ポップ・カルチャーよりも、芸術を中心とする文化のある部分(理性を働かせることを要求するような「ハイ・カルチャー」に属する部分)の方が、人類や国が道を踏み誤らないために重要な可能性が高いのである。

それゆえに、私は伝統的な(1980年代終わりまでは自明だった)意味における芸術の振興や普及のために税金が使われることには反対しないし、映画もそこに含めるべきだと考えるが、ポップ・カルチャーの「振興」や「普及」のためにそれ以上の税金を使おうとしている文化庁の方針には、絶対的に反対なのである。