「メメント・モリ」(藤原新也)

2014年12月29日 12時55分54秒 | NEW!
何人か「師」と呼びたい人がいる。
「酒の師匠」「仕事の師匠」「本の師匠」等々・・・人生の師匠たちである。

定期的に宿題を出してくれる本のお師匠さんから戴いた今回の宿題。
フォト・エッセイという括りでいいのかな?

「死というマテリアル」から始まる。
インドの、野垂れ死にした、流れ着いた、諸々の死体たち。
放置され、犬に食われ、火に焼かれる、諸々の死体たち。
日本では特に慎重に隠蔽され続ける、物体的結果としての死を淡々と晒す。

そして風景、人物、人工物、昆虫等々を切り取り、短い文が添えられている。

「死人と女には花が似合います。」
「眠りは、成仏の日のための錬磨のようなもの。」
「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ。」

この人の写真には、温度がない。
インドだろうがチベットだろうが日本の寒村だろうが都会だろうが、温度がない。
正確に言うと、暑くもなく寒くもなく、でもちょっと肌寒いかな程度の温度に保たれている。
「生」の躍動感はなく「死」の臭いを帯びているが、強くしつこく漂うのでもない。

生から死に至るまでの時間において、「意識の連続性」を意識することで見えてくるものがあるよと言っている。
この「意識の連続性」というヤツが曲者でね、相当に疲れる。
肉体という容れ物は、意識を休ませても生き続けさせてくれる便利な装置である。
なんにも考えなくたって、生命の維持にはあまり影響がない。
意識の連続性を常に保つには、肉体から離れた純粋な意識を抽出しない限りは不可能だろう。
肉体は「疲れる」のだから。

なんてことを考えてました。愚考というヤツだな。

「歩みつづけると、女の人は子供を孕むことがあります。
 歩みつづけると、男の人は自分の名前を忘れることがあります。」

確かに、忘れた。




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