先の記事でこのブログを久々に更新したのは、今朝友人から「家にアリがいた!」というメールをもらったのと、関西のアリ仲間から「地震大丈夫?」という連絡をいただいたこと、それに昼間に偶然つけたEテレ(旧NHK教育ね)の「視点・論点」という10分間のアバンギャルド番組で「へんないきもの」シリーズの早川いくを氏が「『へんないきもの』への認識の変遷」を語るのを見てしまって、「こっ、これは、アリのせかいが私を呼んでいる・・・!」と感じたからなのであった。
早川氏の「視点・論点」はNHKオンデマンドの見逃し番組に登録されていて、108円払えばたぶん5月18日まで視聴可であることから、本ブログ読者の皆さまには氏の語り口と番組演出(政見放送を想像されたい)のギャップをぜひとも味わっていただきたいが、その内容を要約すれば以下のようになる。
・・・要約というより抜粋ですんません。(録画してメモとりながら見ました)
昨今、ダイオウイカ・ダイオウグソクムシといった深海生物やハダカデバネズミ等、かつては嫌悪の対象ともなっていた生物が人気となっている。
自著「へんないきもの」はベストセラーとなったが、その読者の多くは女性であり、寄せられた感想には「癒された」というものが多い。かつて研究者とマニアの興味しか惹かなかった「へんないきもの」が一般社会への広がりを見せている。
これは価値観の多様化――「キモかわいい」やら、「オタク」の市民権獲得など――を示していると考えられる。
しかし、「癒される」という感想の裏には、「他とまったく違う奇妙な生き物が実際に存在し、生きているという事実」に対するシンパシーがあるのではないか。
むしろ社会の中での同調圧力の高まりに対抗するための、自己肯定の根拠として「へんないきもの」に人気が集まっているのではないか。
生物は人間がどう思うかにはお構いなく、それぞれの環境の中でしのぎを削って生きているだけである。人間の側の一方的な思いは、生物に投影した自己を見ているに過ぎない。
まったく同感。
その気持ちの表れが「少年少女漂流記」の感想文に出てしまっているくらいである(パクりって言わないで!)。
自己肯定の根拠としての生物(の形態や生態)、というのは、一見、逃避行動のようにも思えるが、そんなことはない。・・・ないのよっ!
不肖ワタクシが何かやらかした場合の自己肯定作業:(答えがNoの場合、次へ)
1.それはその場の行動として許されるか?
2.それは社会人として許されるか?
3.それは人として許されるか?
4.それはイキモノとして許されるか?
まあ、「人に迷惑をかけてない」のが大前提だが、たいがい、4番目にはYesになるので、オールオッケーなのである。おほほほほ。
そしてそれは、そんなに間違ってないと思う。
社会人としてNGというのは(場合によっては「人として」でも)、文化的・社会的環境によって変化する。
より普遍的な観点からモノゴトを見るのが、肝要なのである(自己肯定作業には)。
たとえば、「何をやってもうまくいかないワタクシ」→何回でもやり直せばいいのだ!または、あきらめてもいいのだ!
たとえば、「誰の役にも立っていないワタクシ」→ニッチがあれば、そこで生息すればいいのだ!
(ニッチ:生息できるような環境の”隙間”)
たとえば、「生活の先行きが見えないワタクシ」→とりあえず今日を粛々と生きればいいのだ!
たとえば、「いつか死んでしまうワタクシ」→そのときはあっけらかんと死ねばいいのだ!
・・・早川氏が天才・赤塚不二夫氏のウナギイヌの話をしていたためにバカボンパパ口調になってしまったが、世のしんどそうな顔して歩いている人たちに、声を大にして、あるいはせめてテレパシーで伝えたい。
動物園でサルやペンギンやクマが人気なことからも分かるとおり、あるいは、先端科学のあれやこれやでも言われているとおり、ヒトは何を見ても結局「ヒトとは何か」という問いを考えたがるものらしい。
情報化社会で地球が小さくなってしまったとかで、居場所のない人たちが夢想すべき「ここではないどこか」を夢想する余地が減ってしまった。
社会の健全化も「アウトローとして生きる」という道をより険しいものにしている。
「へんないきもの」(とかアリとか)の生き方に自己を仮託するだけでなく、彼らの生態をより深く見つめることで、「ヘンなものはどうやったら生き延びられるか」とか、あるいはもう一歩進めて「ヘンなものを内包したシステム(社会)をいかに構築すべきか」というところへ、早くたどり着けるといいんだけどなぁ。
ということで、行き場のない人たちはみんな「アリのせかい」にやってきて、そのうちの何人かが生態の解明なんかに成功してくれるといいと思う。 ←結局自分の興味のためだっ。(イキモノとして正当な行動)
早川氏の「視点・論点」はNHKオンデマンドの見逃し番組に登録されていて、108円払えばたぶん5月18日まで視聴可であることから、本ブログ読者の皆さまには氏の語り口と番組演出(政見放送を想像されたい)のギャップをぜひとも味わっていただきたいが、その内容を要約すれば以下のようになる。
・・・要約というより抜粋ですんません。(録画してメモとりながら見ました)
昨今、ダイオウイカ・ダイオウグソクムシといった深海生物やハダカデバネズミ等、かつては嫌悪の対象ともなっていた生物が人気となっている。
自著「へんないきもの」はベストセラーとなったが、その読者の多くは女性であり、寄せられた感想には「癒された」というものが多い。かつて研究者とマニアの興味しか惹かなかった「へんないきもの」が一般社会への広がりを見せている。
これは価値観の多様化――「キモかわいい」やら、「オタク」の市民権獲得など――を示していると考えられる。
しかし、「癒される」という感想の裏には、「他とまったく違う奇妙な生き物が実際に存在し、生きているという事実」に対するシンパシーがあるのではないか。
むしろ社会の中での同調圧力の高まりに対抗するための、自己肯定の根拠として「へんないきもの」に人気が集まっているのではないか。
生物は人間がどう思うかにはお構いなく、それぞれの環境の中でしのぎを削って生きているだけである。人間の側の一方的な思いは、生物に投影した自己を見ているに過ぎない。
まったく同感。
その気持ちの表れが「少年少女漂流記」の感想文に出てしまっているくらいである(パクりって言わないで!)。
自己肯定の根拠としての生物(の形態や生態)、というのは、一見、逃避行動のようにも思えるが、そんなことはない。・・・ないのよっ!
不肖ワタクシが何かやらかした場合の自己肯定作業:(答えがNoの場合、次へ)
1.それはその場の行動として許されるか?
2.それは社会人として許されるか?
3.それは人として許されるか?
4.それはイキモノとして許されるか?
まあ、「人に迷惑をかけてない」のが大前提だが、たいがい、4番目にはYesになるので、オールオッケーなのである。おほほほほ。
そしてそれは、そんなに間違ってないと思う。
社会人としてNGというのは(場合によっては「人として」でも)、文化的・社会的環境によって変化する。
より普遍的な観点からモノゴトを見るのが、肝要なのである(自己肯定作業には)。
たとえば、「何をやってもうまくいかないワタクシ」→何回でもやり直せばいいのだ!または、あきらめてもいいのだ!
たとえば、「誰の役にも立っていないワタクシ」→ニッチがあれば、そこで生息すればいいのだ!
(ニッチ:生息できるような環境の”隙間”)
たとえば、「生活の先行きが見えないワタクシ」→とりあえず今日を粛々と生きればいいのだ!
たとえば、「いつか死んでしまうワタクシ」→そのときはあっけらかんと死ねばいいのだ!
・・・早川氏が天才・赤塚不二夫氏のウナギイヌの話をしていたためにバカボンパパ口調になってしまったが、世のしんどそうな顔して歩いている人たちに、声を大にして、あるいはせめてテレパシーで伝えたい。
動物園でサルやペンギンやクマが人気なことからも分かるとおり、あるいは、先端科学のあれやこれやでも言われているとおり、ヒトは何を見ても結局「ヒトとは何か」という問いを考えたがるものらしい。
情報化社会で地球が小さくなってしまったとかで、居場所のない人たちが夢想すべき「ここではないどこか」を夢想する余地が減ってしまった。
社会の健全化も「アウトローとして生きる」という道をより険しいものにしている。
「へんないきもの」(とかアリとか)の生き方に自己を仮託するだけでなく、彼らの生態をより深く見つめることで、「ヘンなものはどうやったら生き延びられるか」とか、あるいはもう一歩進めて「ヘンなものを内包したシステム(社会)をいかに構築すべきか」というところへ、早くたどり着けるといいんだけどなぁ。
ということで、行き場のない人たちはみんな「アリのせかい」にやってきて、そのうちの何人かが生態の解明なんかに成功してくれるといいと思う。 ←結局自分の興味のためだっ。(イキモノとして正当な行動)