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ワンダーランドの日記帳goo

話題は何でもアリスです。ブログ人のワンダーランドの日記帳そっくり
引越しました。記事は検索機能で見つけて下さい。

トト姉ちゃん154感想

2016-09-29 21:22:41 | テレビ番組
花山。常子に礼を言う4
戦争特集の32号は
多くの読者の支持を得て100万部
を超える売り上げとなった。

編集長室では常子と美子、
花山が話をしていた。
花山は、読者の戦争体験の手紙を
よみながら、「共感してもらえて
よかった、」といった。

「これでほっとしましたね。」
「ゆっくりできますね」と
常子と美子がいうと
花山は、「次号があるだろう?」

といった。

常子と美子が顔を見合わせると
「心配するな。決して無理はしないから」と
いたずらっぽく言ったので
常子たちは笑った。

昭和51年1月・・・
その花山もあまり会社にでてくる
ことがなくなり、社員たちは
会社と花山家の往復をしながら
仕事をやっていた。

久しぶりに怒鳴られたという社員。
「やり直せ」と言われた。
「止めちまえ」と言われた・・
「何回怒鳴られたかわからない」と
いう社員たち。
「でもこうでなくては
あなたの暮らし出版では
ないと思う」という。

怒られても、それがなぜか
懐かしいような、うれしいような
気分である。

「今頃たまきさんも
怒鳴られているのかな」
とわいわいと言っていると
たまきが帰ってきた。

花山さんに怒鳴られたのかと
みんなが聞くと
たまきは
暗い顔をして
「怒鳴られるぐらいならまだ
ましです。
いつもの口述筆記をしましたが
それも、つらそうなご様子でした・・」
常子と美子は不安に思った。

雪が降るある日、常子がゲラ刷りをもって
花山宅へいった。
花山はそのゲラを見て
「これでいいだろう」と、常子に
渡した。

そして常子はそれを受け取り
会社へ帰るはずだったが、花山は
常子をじっとみて、
「口述筆記を頼みたい」と
いった。

「あとがきをね」
常子はテープレコーダーに
スイッチを入れた。
「今まであなたの暮らしをご愛読
下さった皆様へ。
私が死んだらその時の号のあとがきに
載せてほしい」という。

常子は、「なんてことを」というが
花山は「人間いつ死ぬかわからない。
このあと、君が帰るときに交通事故で
先に行くかもしれないよ。」といった。


「わかりました」と言って常子は
口述筆記の用意をした。

「読者の皆様へ。
今まであなたの暮らしをご愛読くださり
ありがとうございます。
昭和22年、創刊以来27年たtって部数が
100万部になりました。
これは皆様が、一冊一冊
買ってくれたからです。
創刊当初から本当に良い暮らしを作るために
私たちが掲げてきたのは庶民の旗です。
わたしたちの暮らしを大事にするひとつ
ひとつは力が弱いかもしれません。
そんな布の端切れをつなぎ合わせた旗です。

・・はぁ・・・・・」
花山は息を吐いて力をいったん抜いた。

そしてまたつづけた。
「世界で初めての庶民の旗、それはどんな
力にも負けません。
戦争にだって負けません。
そんな旗を上げ続けられたのも
一冊一冊を買って下さった
読者の皆様のおかげです。
広告がないので、買ってくださら
なかったら、とても今日まで
続けることはできませんでした。
そして、私たちの理想の雑誌を
作れなかったと思います。
力いっぱい雑誌を作らせてくださって
ありがとうございました。」

花山は同時に頭を下げた。
「それに甘えてお願いがあります。
今まであなたの暮らしを読んだこと
のない人にあなたが
あなたの暮らしをご紹介してください。
一人だけ新しい読者を増やして
いただきたい。それが私の最後の
お願いです。」
花山はテープを止めた。
そして、椅子の背にもたれて
ため息をついた。
そして
小さな声で

常子に言った。

「さぁ、もう帰りなさい・・・・」

常子は、凍りついたように花山を見た。

「もし・・・花山さんがいなくなったら
わたしは
どうしたらいいのですか?」

「常子さん、大丈夫だよ。君はね、28年
一緒にやってきて
たいてい僕の考えと一緒
です。君の考えでやっていけれる
だろう。悩んだ時は君の肩に
語りかけろ。
君に宿ってやるから・・・

おい、花山・・・
どうしたもんじゃろのーーーー?
と・・」

常子は、泣きながら笑った。


常子は玄関先で三枝子に
「お邪魔しました」と言って
挨拶をした。

そこへ花山がゆっくりと歩き
ながらやってきた。

そして、「これを忘れていた。」
といって、イラストを渡した。

次号の表紙だという。

あかい服の女性だった。

常子は、「すてきな絵ですね」といった。

花山は
「初めて私の絵を見たときも
君はそんな目をした・・」という。

赤い三角屋根の家の絵だった。
「すてきな家ですね・・・」といった。

「常子さん・・
どうも、ありがとう・・・・」

花山は頭を下げた。

常子は
「やだわ、花山さん。」と明るく
笑った。
「またきますね。」
といって
原稿を大事に封筒に入れて
玄関の扉を開けた。
常子が花山夫婦におじきをした。
花山は手を振っていた。
常子が玄関の扉を閉めるまで
手を振っていた。

三枝子は、花山を支えて
「さあ、あなた・・・・」といって
部屋に戻って行った。

外は相変わらず雪が降っていた。
屋根にも
道にも・・・
常子は、花山家を見上げて
そして、帰り道についた。
********************
唐沢さん、渾身の演技です・・・
もう次に常子に会うことはできないと
思ったのでしょう。
あとがきを死んだら載せてくれと
いったことで、常子は
花山を失う予感を覚えたこと
でしょう。
常子は覚悟を決めなくては
成りませんでした。
「読者の皆様へ・・・・」
感謝と
お礼と
お願いを
あわせて、残されました。

大変感動的でした。
常子がやっと作った会社であり
自分が持てるだけの力を
注いできた会社です。
もし、自分がいなくなれば・・・
そのことを思って
読者の皆様、まだ読んでいない人へ
一人でいいです、ご紹介ください。

常子の見開いた両眼から
涙があふれてきました。

もし、花山さんがいなくなったら・・
どうしたらいいのですか?

花山は「悩んだら肩に語り掛けろ。
宿ってやるから・・・」

常子と自分は
考えは同じだともいいました。

常子にとってこの言葉は
頼もしいものだったのでは
と思います。

いつか、人は死ぬ。

常子は、玄関を出るとき
花山が手を振ったことに
今世永遠のさようならを
感じたのかもしれません。


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トト姉ちゃん153感想

2016-09-28 11:15:12 | テレビ番組
花山、常子に礼を言う3
『その戦争は昭和16年から20年
まで続きました。それは言語を絶する
暮らしでした。・・・・・・・・
あの忌まわしく空しかった
戦争のころの記憶を
私たちは残したいのです。
あのころまだ生まれていなかった人
たちに戦争を知ってもらいたくて
まず、一冊に残したいのです。
・・・・・・・・
どんな短い文章でもかまいません。
ぺんをとり
私たちのもとへお届けください。』
花山は雑誌に戦争体験募集の
文章を書いてのせた。
その二か月後・・・
朝、常子たちが出社すると
島倉が大変ですと言って
常子に二階に来るように言った。
そこには、花山がでてきていた。

まだ、悪いと聞いていたので
常子はご自宅に帰ってくださいという。

花山は仕事をしなくてはいけないと
いいきるが、常子は「ご家族の思いも
さっしてお帰り下さい。部下にまかせる
事もしてください」といった。

花山は、納得した様子だったが、
美子たちが読者の戦争体験の
手紙が入った箱をもってきた。
かなりの量である。
花山はそのうちの一通を
手にとり文章を読んだ。

死にゆくわが子の様子が
書かれたものだった。
骨と皮になった幼いわが子
に、お手玉をもたせると
よわよわしく笑ったことが
書かれている。
何もしてやれない親の悲しみが
伝わってくる。

美子は「どれも胸が締め付けられる
ような内容です」といった。
常子は
「全部持って帰ってよんでください・
編集会議を開いて、その内容もお知らせしま
すのでご安心ください」という。

会社と花山宅の往復は大変だが
やると常子は言った。

花山は手紙を読みながら
「できれば、全部雑誌に載せたいな・・」
とつぶやいた。

常子は、「だったらそうしましょう」という。
「雑誌まるまる戦争の暮らしをテーマに
しましょう。」
花山は反発があるのではというが
常子はやるという。
新しい試みに社員は笑顔になった。

こうして、戦争特集の雑誌を作り
はじめた。
写真も集めた。
戦争を伝えられるように工夫をした。

そうこうしているうちに
花山は体調を崩して入院することに
なった。
美子が
病室へ原稿を届けにいった。
「誰かこの原稿を私より先に
みたのか?」と花山が聞くと
美子は常子が、読んで
チェックを入れたという。

花山は「なるほど」と
納得したが、「まだまだだな」と
赤鉛筆を
もって、校正をはじめた。

その夜、常子は仏間で
仕事の資料を読んでいた。

鞠子がお茶をもって入って
きた。
鞠子は
家で常子が仕事をするのは
花山と喧嘩して花山が出ていった
時以来だという。
「手伝えるところは手伝いますよ」と
いった。
美子が帰ってきて花山の様子を伝えた。
そして原稿を常子に渡すと
赤ペンだらけの原稿に
常子は苦笑いをした。
さっそく、鞠子に手伝ってもらい
ながら、三人はそれぞれ同じちゃぶ台
で仕事をした。

やがて戦争特集のあなたの暮らし
32号が
発売された。
写真がふんだんにあり
わかりやすい文章だった。
会社には注文の問い合わせの
電話がなり、増刷がかかった。
たまきは
「常子さん==」と
常子に、読者からの感想の電話を
伝えた。
「後世に残せる一冊だ」といったという。
反発があるかと思ったら
大評判だった。
常子は
うれしいというよりほっとした。
この時のあなたの暮らしは
100万部を超えた。
********************
終戦の8月15日のことを
花山は常子に語ったことが
あった。
病気にかかり
戦地で戦えなくなった花山は
帰国後なにか戦争のお手伝いが
できる仕事はないかとさがした。
そんな時内務省の仕事が
きまった。
国民に進め火の玉・・とか
欲しがりません、勝つまではと
いう標語を発表したり
鬼畜米英といってののしることを
教えたりの仕事が内務省だった。
花山は言葉で国民を戦争にかりたて
悲惨な思いをさせてしまったと
後悔した。
焼夷弾は怖くない。
バケツリレーで火を消せばいい
と教えたので
逃げ遅れて焼け死んだ人が
たくさんいた。

この戦争がいいのか
悪いのかを議論するような
社会でもなく
国が決めたことを
ちゃくちゃくと
進めていくために言葉を
つかって国民を戦い
の場に送り込んだことを
花山は悔しく思った。
そして、言葉の恐ろしさを
しり、二度と編集の仕事は
しないと決めたといった。
それから、20年以上たって
花山は戦争は反対だという
自分の気持ちを伝えられる
あなたの暮らしという雑誌に
自分が考えていた
企画を乗せることができた。
花山はある意味
罪滅ぼしをしたと
おもえただろうか。
100万部も売って
買った人は
みんな戦争の残酷さを感じて、
戦争はしてはいけないと
心に刻んだに違いないと
おもう。
内務省では、戦争に勝つため
に国民をたきつけるような
言葉の仕事をしたが
戦後、花山があなたの暮らしで
かかわった仕事は
日本の暮らしが豊かになる
ようにという目標と
二度と戦争はおこしては
ならないというメッセージを
残すことができた。
32号は後世に伝わる一冊だと
思った。

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トト姉ちゃん152感想

2016-09-27 18:25:37 | テレビ番組
花山、常子に礼を言う2
突然花山が広島へ取材に出かけて
しまい、四日後に帰って来ると
いったため、花山の仕事が
たまっていた。
常子は今日は来てもらえるだろう
という。
そのとき、花山の妻三枝子から
電話があった。
東京駅で花山が倒れたという。
驚く常子はさっそく、病院へ
美子とともにかけつけた。
すると、花山はベッドの上で
原稿を書いていた。
どういうことなのかと
驚く常子に、三枝子は説明した。
「倒れたと聞いたときは気が動転
して、大げさに言ってしまった。」

花山は妻の心配も無視して
仕事をしている。
茜は常子に「急ぎの仕事が
あるのですか」ときく。

常子は「ないです」と答えた。
美子は花山が広島へ取材へ行く
話は聞いてなかったという。
なぜ広島へ行ったのかと
みんなが思ったのを察したのか
花山は「あの戦争の日々の暮らしを
残したいからだ」という。
「記録として、人々の暮らしがどれほど
悲惨なものだったのか、また工夫
されていたのかということを
企画したい」といった。
人々が普段の暮らしをだいじに
思うようになればもう二度と
戦争は起こらないだろうと
いう。
戦争は暮らしをめちゃめちゃにした。
当時は
何を食べ
何を着て
どんな暮らしをしていたのか・・・
其れを残したい。
忘れないように・・・
戦争を知らない世代にも伝えたいという。
しかし、広島へ行って取材をしていると
みんな話をしてくれなかったという。
もう忘れたい、とか
思い出したくないとか、
話したくないとか・・

しかし、花山は諦めないという。
美子が代わりに取材に行くというと
「実際戦地へ行った自分しかできない」
と断られた。
三枝子は「お体に障ります」と
いうが、花山は「死んでもいい、私は
死ぬ瞬間まで編集者でいたい」といった。
「取材をし
記事を書き
写真を撮り
校正で指を赤くした
現役の編集者でありたい、
わかるだろう。常子さん。」

常子は、三枝子や茜の気持ちを
思って、「認めるわけには
いかない」といった。
重い空気になった。

その夜、小橋家では
水田や姉妹たちたまきが
花山の話をしていた。
たとえ一週間で退院できても
大事を取らなければいけない。
広島などとんでもないと
医者は言ったという。
たまきは、それでも花山は
取材をしたいだろうと
いった。
常子は、どうすればいいのか、
あの時あの場所では
反対したけど・・・と
考えた。

私は現役の編集者でありたいという
言葉が引っ掛かった。

次の日、常子は花山に会いに行った。

そして、取材ではなく
読者のかたに戦争の体験を
募集しましょうと言った。
商品試験の騒動の中でも
雑誌を買ってくれた頼もしい読者を
信じましょうと
いった。
花山はそれで、質が高い記事になるのか
という。
常子は、自信をもって
「読者を信じましょう」と言った。
取材は必要なくなった。
だが、花山は「募集の文章は
私がかく」といった。

『その戦争は昭和16年から20年
まで続きました。それは言語を絶する
暮らしでした。
その言語に絶するあけくれの中で
人々はやっと生きてきました。
親、兄弟、夫や子供、大事な人を
失い、そして青春をうしない
それでも、生きてきました。

そして昭和20年8月15日
戦争はすみました。
うそみたいで
バカみたいで
それから
28年たってあの苦しかった
思い出は一辺の灰のように
人々の心の底に沈んでしまって
どこにもありません。

いつでも、戦争の記憶という
ものは、そういうものなのです。
あの忌まわしいく空しかった
戦争のころの記憶を
私たちは残したいのです。
あのころまだ生まれていなかった人
たちに戦争を知ってもらいたくて
まず、一冊に残したいのです。
もう二度と戦争をしない世の中
にしていくために、もう二度と
だまされないように
どんな短い文章でもかまいません。
ぺんをとり
私たちのもとへお届けください。』


二か月後
常子が出社した。
「おはよう」と
明るく、挨拶を交わした。
そこへ島倉という男性社員が
「大変だ~~~」と
いって
常子のもとにやってきた。
「どうしたの?島倉さん??」
なにがあったのだろうかと
常子は思った。
******************
常子のアイディアはすごいです。
読者に募集をするのは
もっともっと読者が
あなたの暮らしを身近に感じて
くれるし、一緒に
考えてもくれるという
読者がいてこその雑誌に成長すると
思いました。

なにしろ、読者はあなたの暮らしを
信用しています。

花山が編集者として
戦争の話を聞きたいと
取材をかけても
なかなか口を開かなかった
のは、口下手ではなく
何から話したらいいのか
そのまえに、この人は信用
できるのかと
思ったことでしょう。

でも、顔が見えないからこそ
匿名でも
ペンネームでも
本名でも

自分の原稿が役に立つ
のであればと
書いてくれるのではと
そこに気が付いた常子。

彼女の発想は
どんな人も必要な人に
かわります。
大塚が家事と育児と仕事に
悩んでいるのを知れば
大塚が必要なので
働く女性の気持ちや
職場での実態を
企画すれば
大塚の当事者としての能力が
行かされると思ったことでしょう。
たまきもそう思ったからこそ
大塚に取材を一緒にしてほしいと
頼んだと思います。

今度は花山があたらしいあなたの暮らし
の企画を考えています。
人々の戦争中の暮らしを
残して伝えたいとは
この雑誌ならではのことです。

働く女性の応援もさることながら
戦争の悲惨さを伝えることも
あなたの暮らしのありかたと
思ったことでしょう。
今日の放送で
「暮らしを考えることは
身近な平和運動である」と
・・・
花山からのメッセージでした。

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トト姉ちゃん151感想

2016-09-26 16:06:19 | テレビ番組
花山、常子に礼を言う1
あなたの暮らしは右肩上がりに
売り上げを上げて行った。
そんなとき、家庭と仕事の両立に
なやむ大塚スミ子が
退職を希望した。
仕事はしたいが、家事育児が
大変でそのため、会社も休んだり
早退や遅刻がありみんなに迷惑を
かけるからという。

常子はこれからの女性の社会進出
と、家族の核家族化の時代をうけて
自分たちの会社はどう対応するべきか
と考えた。

そして、昭和49年4月社内会議と
なった。

あなたの暮らしの読者は
どんな人が多いのかと常子は
問いかけた。
「女性です。」
「女性でもどんな女性ですか?」
「主婦です。」
「主婦とはどういう生活環境の
かたですか?」
「結婚して家庭に入った人です。」
「では、結婚して働いている人は
主婦ではないのですか。」
社員たちは常子が何をいいだすのかと
耳を傾けた。

「いままでの女性は結婚して
家庭に入るのがあたりまえと
されてきたが、これからは
核家族で自分で家庭を守りながら
仕事もするという女性が増えてくる
から、それに対応するため
職場環境を整えたいといった。
つまり、仕事の内容によっては
わざわざ出社しなくても自宅で
仕事をしてくれたらいい」という
のだ。
あまりの画期的な意見に社員たちは
わいわいといった。
「また、働く女性の現状を
取材して、働く女性たちの
役に立つ雑誌でもありたい」と
常子は言った。

会議がおわり、それぞれが退社して
いった。
常子は大塚に声をかけた。

「充分すみこさんの気持ちに
こたえられるような考えにならなくて
ごめんなさい」と
あやまった。
「でも、職場環境を整えるので
退職を考え直してほしい。
スミ子さんのような人が
うちには必要なのだ」と
いった。
大塚は、「もう一度主人と話し合い
ます」といった。

そこへたまきがやってきた。
会社では、たまきは
常子がおばであっても
常子さんと呼んだ。
働く女性の参考になる企画とは
について考えたという。
「女性が多く働く会社に取材したて
悩みややりがちなどを聞き出したい」
といった。
そして、たまきは
「スミ子さんにも手伝ってほしい」と
いう。
スミ子は嬉しく思った。

花山はあなたの暮らし出版は
100人いれば100の暮らしがある。
よって、これからは
それぞれの暮らしを尊重する
企画を作るという常子の考え
をほめた。

花山も、また新しいあなたの暮らしの
在り方を考えていた。

花山が心筋梗塞で倒れて以来
嫁に出た茜が実家に様子を見に
帰って来ることが多くなった。
森井あかねにはみのりという
小さな娘がいた。
花山の孫である。
花山が家に帰ると
「じいじ===」と
いってまとわりついてくる
みのりがかわいい。

そのたびに花山家に笑いが
広がった。


常子は仏壇に手を合わせた。
トトとカカの写真がある。
鞠子は、職場環境改善の話を
美子から聞いたという。
「トトねえは、社員にとっても
トトなのね。
トトも、喜んでいるに違いない」と
いった。

会社ではさっそくたまきと
大塚スミ子が
働く女性の取材にいって帰って
きた。
「いい話がたくさん聞けた。
スミ子さんのおかげで
たくさん話をしてくれた」と
たまきがスミ子に感謝して
お互いが喜ぶ。

「今後の取材方針を花山に聞きたい」
とたまきがいう。
ところが花山はお昼近くに
なっても出社していなかった。

そこへ花山から電話が来る。

いま広島で取材をしているという。
4日後に帰るからと言って
電話が切れた。

常子は広島で何の取材かしらと
不思議に思った。
******************
商品試験は主婦の立場からの
発送がありました。
使いやすい、安全な商品を
安く買いたいという消費者への
情報提供です。
これが、家電業界を大きく発展させて
いく原因にもなりました。
いいものを作ると
よく売れて
経済もよくなるという発展に
とってかわったのでしたが。

常子が目を付けたのは
働く女性であり
働く奥様であり
働く、お母さんでした。

彼女たちはどういう職場環境
にいて、どういう悩みと戦い
どういう幸せを見出しているのか。
また、社会に自分の力を還元して
いっているのかという
女性の労働について取り上げようと
していました。
昭和49年です。

日本はどんどん経済発展を
していきます。

メイドインジャパンは
世界中
どんなところへでも人が
いるところなら
商品を売りに行きます。
そして、いいものを手にしたと
いう消費者の笑顔を
エネルギー源として
休むこともやめて
仕事をするので
ワークホリックとも
エコノミックアニマルとも
呼ばれるようになります。
さて
いまの日本にこんなパワーが
あるでしょうか?
ありません。
なぜ?
少子高齢化社会だからです。
其れも世界一です。
であるならば
常子が提案した
出社しない働き方という
のが、いまの高齢化社会では
必要になって来るのではと思います。
常子の発想は
いつも前向き未来志向ですね。




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トト姉ちゃん150感想

2016-09-25 15:36:25 | テレビ番組
常子、大きな家を建てる6

たまきは就職試験の結果を
ドキドキしながら待っていた。
弟の水田潤14歳も
従妹の南真由美13歳も
その様子をはらはらしながら
みていた。

やがて郵便配達員が「郵便です」と
声をかけた。
たまきあての封書をたまきが
ひらくと
採用とあった。
たまきはホッとして喜んだ。

花山は試験の結果を常子に話した。
「あの、青椒肉絲の作り方の
記事も人の話を聞く力も才能を
感じさせる結果だった。
縁故採用ではない」といった。
常子は嬉しく思った。

昭和49年4月、いよいよたまきは
あなたの暮らし出版に入社した。
社内の活気は一段とアップして
新入社員も先輩社員も
まけじと働いていた。

花山は相変わらずいい加減な記事には
きびしく、新入社員だろうが
先輩社員だろうが
しかりつけていた。
そんな時、常子は、自分の記事の原稿を
かいて花山の部屋に入っていった。
するとベッドの上に横になっている。
びっくりして「失礼しました」と
いうと花山は「いいから」といって
原稿を受け取り読み始めた。
このところ花山は心筋梗塞の発作
をおこしてから
仕事の部屋にベッドを置いている。

「たったあれだけ怒鳴っただけで
気分が悪くなるとは・・・」と
愚痴った。
「今年は女性陣が優秀なので
楽しみだと」いう。
こうした女性の能力を眠らせて
いたら社会の損になると
いって、女性社員の
活躍に期待をした。

そういえば、と常子は
会社のルーツを思い出していた。
「私は女の人の役に立つ雑誌を作りたい
のです。」といった。
女の人の役に立つ雑誌とは、情報
だけではなく、それを作ろうする
女性の能力を引っ張り出すことができ
る雑誌になった。女性の社会進出を
促したことは大きな功績となった。

しかし・・・
そこへ大塚すみこが、常子に声を
かけた。
古くから働いている優秀な人材である。
彼女は会社を辞めたいという。
仕事が嫌なわけではない。
できれば続けたいが
小さな子供を育てながら
働いていると
自分だけ、早く帰ったり
遅く、会社に来たりして
みんなの迷惑になっているの
ではという。

そういいながらさっそく、幼稚園の
お迎えに行きますと言って
先に帰って行った。

その夜、お茶の間で
常子は

「どーしたもんじゃろのーーーーー」

と考えた。
お茶の間では家族が集まって
わいわい言っていた。

新人たまきは社員のみんなが素晴らしい
ので、ついていくのが大変だという。
しかし、これほどまでに女性の力を
買ってくれる会社はないといった。
友人たちが入った会社では
お茶くみとか
コピー取りとか
雑用ばかりで
何か失敗でもすると
女は駄目だとか
意見を言うと
女のくせにとか
差別されるという。
その点、あなたの暮らし出版は
男女差がなくて働くのに
励みになるという。
女性には働きやすい会社だと
いった。
水田正平は
大塚の退職の話は
大塚が核家族で
子育てが大変だから仕方がない
ことだという。
南美子は、真由美を育てながら
仕事を続けられたのは
鞠子が手伝ってくれたから
という。
また、学生だったたまきや
亡くなった君子も子育てと
仕事の両立に協力して
くれたこともあった。

大家族とはこういう便利で
頼もしいものである。

大塚も女性が働きやすい
会社だったといっていた。

翌日
常子は大塚のこともあって
花山に
女性が家庭と仕事を
両立できる社内環境に
変えたいと申し出た。

「具体的にはどうしたい?」
と花山がきくと
常子は、「次の会議で皆さんと
話し合いたい」といった。

花山は「自信がありそうだな」と
笑った。

常子も笑って花山の部屋を出た。

花山は、立ち上がろうとして
急に苦しみだした。
発作が起こった。
********************
子育てと仕事の両立は大変です。
ちかくに親でもいれば
いいのですが、
核家族の気楽さは
妻が専業主婦である
ことが
条件でしょう。
女性が
家庭をもって
社会で
活躍をするというと
それなりに
大変なことがあります。
妊娠中、つわりをおしながら
満員電車で通勤するのも
過酷なことですし・・
出産したら一年は子供のそばに
いてあげてほしいのですが
そうもいかないとなると
母乳育児をやめなければ
なりません。
そして、安心できる保育園を
さがさないといけません。
この時代、そこまでして
母親が働くということは
ありえないので
よほどお金に困っているのか
よほど、外へ出ていくのが好きなの
かと
思われます。
大塚の退職は
おおげさではなく
幼稚園に送り出した後
熱を出しているのでお迎えを
頼みますと
幼稚園から連絡が来ることもあり
ます。
これでは仕事になりません。

また、子供はよく風邪をひいたり
おなかを壊したり
感染症にかかったりと
母親の手を
煩わせます・・

と、ここまで書いて、ふと
おもいだしたのが
星野君です。
イクめんです。
彼も、会社に必死で
かよい、子供が帰って
来る時間にはお手伝いさんが
来るようになっていました。
もちろんそうでなければ
星野は仕事ができません。
それが、子供にも負担を
かけているのではと
思って両親をあてにできる
名古屋支店の転勤願いを
だしたのですね。
でも、常子とであって
このままいくと・・・・・
結婚か???
となりましたが、
大樹のやけどの話と
いじめの話から
これ以上、子供につらい
思いをさせたくないと思って
名古屋支店の転勤の話
を受け入れました。
時間を作って子供の話を
じっくり聞く親になりたいと
思ったのでしょう。
仕事も大事ですが
子育ても大事で
親子の絆を作るのは
こうした努力の積み重ね
だろうと思います。

こうして常子のもとを
子供ためにといって
去って行く人が
二人いたことで
常子は深く両立の話を
考えたことと
思います。
結論はいかに???
楽しみです。
******************
私のことですが
私は専業主婦です。
でも、いつでも働ける環境でした。

主人の両親と同居していた
からです。
爺婆抜きといいますが
じいさんばあさんも
いてくれたら
ありがたいものです。

え?介護はどうしたって?
おじいさんは
病気で亡くなり
おばあさんは
気が強いので
まだ独りで頑張っています。
其れも楽しいそうです。
子供たちは成人しましたので
一緒に暮らしても
特にどうということもありませんが
まだ、大丈夫だからと
のことです。

わたしだったら
寂しかもしれません。

核家族がいいのか
大家族がいいのか
それは
考え次第です。






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