常子、大きな家を建てる5
たまきは常子の会社の様子を見て
その活気に魅力を感じた。
丁度スチームアイロンの商品試験
をしていて、どうしても
アメリカ製の製品に追いつかない
国産だったが、
やっと、国産が勝ったとの
結果にみんな湧いていた。
「メイドインジャパンは
安かろう悪かろうと
いわれていたが、これで職人の
面目躍如となった、いよいよ
世界へ誇れるメイドインジャパンの時代
になる」と喜んでいた。
その夜、たまきは
常子の部屋を訪問して
常子の会社に就職したいと
いう。
「銀行に行くといっていたのに
なぜ」と常子が聞くと
たまきは、「世の中の役に立つ
仕事をしたい」と
いった。
常子の会社の方針のひとつである。
自信に満ちたやりがいのある
仕事をしたい。テレビで
電気会社のひとが、ここまで
商品がよくなったのはあなたの暮らしの
商品試験の影響もあるといっていたこと
や、今日垣間見た会社の様子
とかで、ここで自分を試したいと
思ったという。
でも、今まで言い出せなかったのは
縁故採用と思われたくないからと
いうと常子は
たまきの気持ちを理解して
やってみたらと
いう。
たまきは、正平と鞠子の
了解を得て
あなたの暮らし出版を
うけるべく、履歴書をかいて
いた。
正平と鞠子のほうがどきどき
していた。
たまきは最終試験まで
残った。
その試験は一風変わっていた。
受験生は二階の部屋に集まり
花山の話を聞いた。
「本日は御苦労!」といって
「いまから最終試験を行う。
試験という形で人を選ぶ
ことになるのも、おかしな話
だ」と挨拶をした。
そして、
最終試験は、場所を厨房に
うつしておこなわ
れた。
銀座の中華料理のコック長の
やんさんが青椒肉絲をつくるので
それをみて
質問なりメモなりしていいと
常子は言った。
いったい何の試験なのかと
みんな不思議に思った。
やんさんは、見事な手際で
説明を加えながら
青椒肉絲を作った。
あっという間に出来上がり
やんさんは、「ではこれで」と言って
帰って行った。
常子は、「いまの作り方を
伝える記事を書いてください」
といった。
「だったら最初から言って下さい」と
受験生から苦情が出た。
「質問するなりメモを取るなり
自由にしてくださいと言いましたよ」と
いう。
たまきは
「どこで記事をかくのですか」と聞く。
何しろ厨房なので机も何もない。
「ここです。」と常子が答えた
たまきは、いきなり床に原稿用紙を
おいて、うずくまる姿勢で
書き始めた。
それをみて、ほかの受験生も
書き始めた。
20分という制限時間である。
書いている途中で花山は
ベートーベンの運命のレコードを
大音量でかけた。
みんなびっくりして
集中できないという。
花山は音を止めた。
「記者たる者、どこでも記事が
書けなくてはいけない」と
いった。
そして、工事現場の音や
地下鉄の電車の音などを
うるさいぐらいに
テープで流した。
制限時間がきて原稿は
回収となった。
花山は拍手をした。
受験生も
ぱらぱらと拍手をした。
「次は最後の問題です。
ここへくる前に私がいったことを
書きなさい」といった。
前の部屋からこの部屋に来るとき
に最後に花山がいったことばとは
・・・・
「本日は御苦労」といって話し始めた
内容だった。
「記者たる者、いつだって
人の話を集中して
聞かなければいけない」という。
「では、はじめ!!!」
たまきはまた床の上に原稿を置いて
うずくまって書き始めた。
******************
そうなのです、
うっかりしていました。
厨房へ移る前に
花山が採用試験を受けに来て
落とされるのもおかしな話だ
と、何かしら哲学的なことを
いいました。
選ぶほうも選ばれるほうも
大変な思いをするが
この方法しかなくてとか
いっていました。
あの話についての
感想ではないかと思います。
せっかく受けに来ても
落とされるとは・・・と
思う人もいるだろうねと
いうことでした。
選ぶ側にも、苦労はあるというのだ。
選ばれなかったら
それはそれで、残念な思いをするものだが。
この話にどんな記事を書くか。
花山らしい試験方法である。
少しでも、気持ちが
ゆるんでいると、大事なことを見逃す
とか聞き逃すとか
するものである。
それは、記者として
致命傷になると
花山は思っている。
だから小さなことでも見落としたり
聞き逃したりするとこっぴどく
おこったことがある。
おそらくそういうことだろうと
思った。
この場所に集まった受験生の
ファッションは
大きな立ち上がった襟とか
明るい色や細かい模様の
服装をしていた。
この当時、サイケデリックである
ことがお洒落だった。
なんとも、なつかしい。
先週の公開の商品試験の話が
緊迫感満載だったので
それが終わったら
おとなしめのストーリー展開
となっている。
ああ、もう終わるんだなと
思う。
昭和48年
あなたは何をしていましたか。
わたしは、
大学に入って
先のわからない人生を
なんだろうなぁ?と
思っていました。
なにが大事なことなのか
なにが、大したことでは
ないものなのかと
その選択がつかずに
ああだこうだと
人の意見に振り回されたり
がんとして、人の話を
聞かなかったりしていました。
ただ、卒業するときには
中堅の某企業に就職が決まり
そして母をがんで亡くしました。
私にとってそれは
毎日がつらいという時代の
はじまりでした。
学生と社会人とのギャップになか
されました。
日本は世界一の経済大国に
なって行きました。
バブルの時期を迎えます。
会社の窓からは
あちこちのビルの屋上に
不動産屋の看板が
たくさん立っていました。
それほど、日本は
潤っていた時代でした。
たまきは常子の会社の様子を見て
その活気に魅力を感じた。
丁度スチームアイロンの商品試験
をしていて、どうしても
アメリカ製の製品に追いつかない
国産だったが、
やっと、国産が勝ったとの
結果にみんな湧いていた。
「メイドインジャパンは
安かろう悪かろうと
いわれていたが、これで職人の
面目躍如となった、いよいよ
世界へ誇れるメイドインジャパンの時代
になる」と喜んでいた。
その夜、たまきは
常子の部屋を訪問して
常子の会社に就職したいと
いう。
「銀行に行くといっていたのに
なぜ」と常子が聞くと
たまきは、「世の中の役に立つ
仕事をしたい」と
いった。
常子の会社の方針のひとつである。
自信に満ちたやりがいのある
仕事をしたい。テレビで
電気会社のひとが、ここまで
商品がよくなったのはあなたの暮らしの
商品試験の影響もあるといっていたこと
や、今日垣間見た会社の様子
とかで、ここで自分を試したいと
思ったという。
でも、今まで言い出せなかったのは
縁故採用と思われたくないからと
いうと常子は
たまきの気持ちを理解して
やってみたらと
いう。
たまきは、正平と鞠子の
了解を得て
あなたの暮らし出版を
うけるべく、履歴書をかいて
いた。
正平と鞠子のほうがどきどき
していた。
たまきは最終試験まで
残った。
その試験は一風変わっていた。
受験生は二階の部屋に集まり
花山の話を聞いた。
「本日は御苦労!」といって
「いまから最終試験を行う。
試験という形で人を選ぶ
ことになるのも、おかしな話
だ」と挨拶をした。
そして、
最終試験は、場所を厨房に
うつしておこなわ
れた。
銀座の中華料理のコック長の
やんさんが青椒肉絲をつくるので
それをみて
質問なりメモなりしていいと
常子は言った。
いったい何の試験なのかと
みんな不思議に思った。
やんさんは、見事な手際で
説明を加えながら
青椒肉絲を作った。
あっという間に出来上がり
やんさんは、「ではこれで」と言って
帰って行った。
常子は、「いまの作り方を
伝える記事を書いてください」
といった。
「だったら最初から言って下さい」と
受験生から苦情が出た。
「質問するなりメモを取るなり
自由にしてくださいと言いましたよ」と
いう。
たまきは
「どこで記事をかくのですか」と聞く。
何しろ厨房なので机も何もない。
「ここです。」と常子が答えた
たまきは、いきなり床に原稿用紙を
おいて、うずくまる姿勢で
書き始めた。
それをみて、ほかの受験生も
書き始めた。
20分という制限時間である。
書いている途中で花山は
ベートーベンの運命のレコードを
大音量でかけた。
みんなびっくりして
集中できないという。
花山は音を止めた。
「記者たる者、どこでも記事が
書けなくてはいけない」と
いった。
そして、工事現場の音や
地下鉄の電車の音などを
うるさいぐらいに
テープで流した。
制限時間がきて原稿は
回収となった。
花山は拍手をした。
受験生も
ぱらぱらと拍手をした。
「次は最後の問題です。
ここへくる前に私がいったことを
書きなさい」といった。
前の部屋からこの部屋に来るとき
に最後に花山がいったことばとは
・・・・
「本日は御苦労」といって話し始めた
内容だった。
「記者たる者、いつだって
人の話を集中して
聞かなければいけない」という。
「では、はじめ!!!」
たまきはまた床の上に原稿を置いて
うずくまって書き始めた。
******************
そうなのです、
うっかりしていました。
厨房へ移る前に
花山が採用試験を受けに来て
落とされるのもおかしな話だ
と、何かしら哲学的なことを
いいました。
選ぶほうも選ばれるほうも
大変な思いをするが
この方法しかなくてとか
いっていました。
あの話についての
感想ではないかと思います。
せっかく受けに来ても
落とされるとは・・・と
思う人もいるだろうねと
いうことでした。
選ぶ側にも、苦労はあるというのだ。
選ばれなかったら
それはそれで、残念な思いをするものだが。
この話にどんな記事を書くか。
花山らしい試験方法である。
少しでも、気持ちが
ゆるんでいると、大事なことを見逃す
とか聞き逃すとか
するものである。
それは、記者として
致命傷になると
花山は思っている。
だから小さなことでも見落としたり
聞き逃したりするとこっぴどく
おこったことがある。
おそらくそういうことだろうと
思った。
この場所に集まった受験生の
ファッションは
大きな立ち上がった襟とか
明るい色や細かい模様の
服装をしていた。
この当時、サイケデリックである
ことがお洒落だった。
なんとも、なつかしい。
先週の公開の商品試験の話が
緊迫感満載だったので
それが終わったら
おとなしめのストーリー展開
となっている。
ああ、もう終わるんだなと
思う。
昭和48年
あなたは何をしていましたか。
わたしは、
大学に入って
先のわからない人生を
なんだろうなぁ?と
思っていました。
なにが大事なことなのか
なにが、大したことでは
ないものなのかと
その選択がつかずに
ああだこうだと
人の意見に振り回されたり
がんとして、人の話を
聞かなかったりしていました。
ただ、卒業するときには
中堅の某企業に就職が決まり
そして母をがんで亡くしました。
私にとってそれは
毎日がつらいという時代の
はじまりでした。
学生と社会人とのギャップになか
されました。
日本は世界一の経済大国に
なって行きました。
バブルの時期を迎えます。
会社の窓からは
あちこちのビルの屋上に
不動産屋の看板が
たくさん立っていました。
それほど、日本は
潤っていた時代でした。