6月8日の日曜日、歩行者天国でにぎわう秋葉原で恐ろしい事件が起こった。
加藤智大容疑者は、この日朝早く静岡県の自宅をでて東京へむかった。
2トントラックを借りて秋葉原で人をはねて、そのごナイフで殺そうと言う計画である。「人生がいやになった。誰でもよかった」という理由で7人の通行人を殺し、10人に怪我を負わせた。
秋葉原の交差点をトラックでジグザグ運転をした。跳ね飛ばされた人が、道に倒れた。トラックを降りた加藤容疑者は、ナイフを振りかざして倒れた人の上に馬乗りになって刺した。あたりは血の海だったという。
理由は、「誰でもよかった」であり「人生がいやになった」というが、理由になるのだろうか?
しかも、実況中継よろしく自分のやることを携帯の掲示板に事細かく書き込んでいたという。事件の予告もしている。
テレビの画面で見たけど、私は携帯の掲示板は知らないのだけど、殺人の予告を書き込んだとき誰もレスをいれてないのだろうか?やめろという書き込みはなかったのだろうか?
実況がどんどん書き進んでも、止めようとするレスがなかったのだろうか???この辺がよくわからない。
もし誰も訪問者が居ない掲示板としたら・・・加藤容疑者は、誰かに止めてもらいたかったのではないかと・・・思うのである。
こんなことを仕様と思っているのだけど、と友人と話をしたかったのではないかと思うのである。そして反対をして欲しかったのではないだろうか。
でも、反応はなかったようである。
福井県のミリタリーショップでサバイバルナイフを購入している様子が、ビデオに写っていた。にこやかに、店員さんと話をしている様子である。
そのことも掲示板に書き込んでいたという。「人と話すということはひさしぶりで、楽しかった。(趣意)」「話をしてみないとどんな人か、わからないものだ」の書き込みはまさしく、バーチャルな相手と話すより、現実の人と話すことは、手ごたえがあって、嬉しかった様子が伺える。そのとおりである。なのになぜ・・・秋葉原でやろうとしていることについて、もっと深く考えれなかったのか?相談相手をネットに求めてもダメである。
両親との不仲説も報道されていたが、どこまでも自分という名詞しか存在しない考え方から成長できなかったことが、悲劇の始まりだと思う。挨拶をするだけの友人でもいいではないか。
「おもいっきり人を殺したら、殺人罪で死刑かな」ぐらいの冗談をいってみる相手がいなかったのだろうか?
感情が硬直しているというイメージがある。自分を表現できないのである。
だから、自分を相手に伝えることが出来なくて、他人は自分に危害を加える対象みたいにしか見えなかったりするのである。
「私達」、「あなた達」という、二人称が存在しない・・・
殺した人、怪我を負わせた人に、これから償っていかなければいけない重い罪を考えたことがなかったのだろうか?
殺した人には家族がいて、友人がいて悲しむ人がたくさんいて、どんなに小さくてもすばらしい未来があるにもかかわらず、それを無差別に殺してしまったことの重大さを感じることが出来ないとは???
自分の両親が誰かに殺されてなくなったという悲劇を悲劇と感じることが出来ないとは、どう解釈したらいいのだろうか?
この硬直した感情をどう表現したらいいのか?おそらく加藤容疑者だけではなく、このような感情を持った人はたくさんいると思われる。
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そろそろ選びにかかりましょうか?今年のゆかた・・・夏の一枚