兵庫県の私立高校3年男子生徒が、今年7月飛び降り自殺した事件。
ポケットに、同級生に金を要求されていたとし、その名前がメモに書かれていた。「うそをつくたびに全員に一万円払え」などといわれたり、メールで請求されたり、「払えない場合はどうなるか、何をされるかわからないぞ」と脅されたりしていたという。
この恐喝する同級生は仲のいい友人というが、暴力を受けていたのではないか、また精神的嫌がらせも受けていたのではないかと、思われる。
それを見て、見ぬふりと、また見ても、ふざけているだけとしか取れなかった周囲や、学校はいったいなんなのかと思う。
恐喝というのはいじめを通り越して犯罪である。その犯罪が学校で行われていたことについて、学校はもっと真剣に取り組むべきである。たんに、弱い精神力だったからだとか、いじめを受けているのなら、受けているといえばなんとかするのに、というのであれば無責任である。
それでは学校という教育現場ではない。いじめはあってはならない、とか、犯罪は悪であるから、許してはならないとか、先生の説教やら常識のひけらかしの場では、とうとうと正義を主張するくせに、実際そのような場面にあえば、あれはふざけているだけだと現場から逃げている。
「ふざけているだけ」とは長年、いじめで苦しんできた子供たちを救うべき場面から逃げるための、便利な言葉である。それは知っているけど、かかわりたくないという、傍観者という共犯者である。その傍観者にされたくなくて、「ふざけているだけ」と勘違いしました~~~と、言い訳をしているのだ。
よく学校は、いじめがあったことを認めないというが、教師の原点はなにかを、教師である方々はご自身の心に聞くがいい。
教育とは、理想的な文化の底辺をつくることであり、何をさておいても、子供たちの心に、命の重大性と個人の尊重の精神を植えつけることである。
日々感謝と、日々精進であるはずの青少年達がそんな聖域である学校で、犯罪に苦しめられ命をおとし、誰も助けてくれない現実に、絶望を感じている。
その苦しみを知ってて知らない顔をするのは、犯罪者ではないだろうか。
「もしかしたら、よけいなお世話かもしれないが、君はいじめを受けているのか」と、聞くことも大事ではないだろうか。
その場で聞けなかったら、呼び出してでも(周囲に解らぬように)聞くのが教師の大切な仕事ではないのだろうか。
正義がなくなった学校に、なにを求めることが出来るだろうか。
悪の存在を認める勇気をもたない学校にはより良い教育の期待もできない。
この学校は、神戸市須磨区にある私立の滝川高校と報道されている。
甲子園にもでてくる学校である。
私立は、学校の教育の質が売り物のはずである。
自殺者を出して、それを「ふざけているだけ」との逃げ口上しかいえないのは、なにか恐れていることでもあるのだろうか。
認めると事態がますます悪くなるという不安があるのだろうか。
悲しく、憤りと絶望を死ぬ事で抗議した男子生徒の亡くなった大切な命をどう思っているのだろうか。
学校の危機管理が問われているこの時に、悪いことは悪いと認めなけば、事態の改善もないし、学校は信用をなくして、次年度からの受験生も減っていくだろう。
生徒の成績だけをみていては、改善されない。先生方の意識の問題である。
この恐喝にかかわった生徒は、逮捕された。
加害者になった生徒の人生を、学校はどのようにとらえているのだろうか。
いじめをふざけているだけとしかとらえられないのなら、逮捕された少年を迷惑な犯罪者としか見れないのではないだろうか。
いづれにしても、何度も何度も繰り返されるいじめという犯罪を、まず傍観者をなくすことを第一にしなければ、これからも繰り返されるだろうと、思う。