道徳経よりご紹介します
昔の立派に 「道」を修めきった人は、 微妙なすぐれたはたらきで奥深いところに通じていて、その深いありさまはとてもはかり知ることができない。 そもそもはかり知ることのできないものだから、ここで強いてそのありさまを描くことにしてみよう。
おずおずとためらって、冬の冷たい川を渡るように慎重であり、
ぐずぐずと足踏みをして、四方から敵の起こるのを恐れているように注意深く、
きりっといかめしくて、 威儀を正した 客のように厳粛であり、
さらりとこだわりがなくて、氷が溶けるときのように素直であり、
しっかりと篤実であって、まだ削ってない僕のように純朴であり、
からりと虚しくて、深い谷間のように無心であり、
混沌と混じりあって、濁り水のようにあいまいである。
あいまいに濁ったままでいて、それをそのまま静かにしてだんだん清らかに澄んでいくということが誰にできようか。
安定して落ち着いたままでいて、それを動かしておもむろに物を生み出していくということが、誰にできようか。
ほかならぬ「道」こそが、それを可能とするのだ。この「道」をわがものとして守っている人は、何ごとについてもいっぱいまで満ちることを望まない。
そもそもいっぱいにまでなろうとはしないからこそ、だめになっててもまた新たになることができるのだ。
(『老子』 金谷治訳)
これを読んだ時、道の奥深さを感じました。
色んな道はあるとは思いますが、簡単に道を歩んでます!なんて言えない程の奥深さが道なんですね。
日本には、伝統としての茶道、花道、剣道、柔道、と道と呼ばれるものはあります。それらを通して精神が行き着く先の極みは同じところなのかもしれません。
濁ったものを綺麗にし、(→静の極み)また、清らかな、イメージとしては魚も住めないような純粋無垢な状態からまた生み出す(→動へ)
ということです。
道徳経の16章には
静かであることの大切さがさらりと説かれています。
曖昧で濁ったままでいて
虚極静篤
篤いというのは、コツコツと慎み大切に信じる事を静かに繰り返し練るイメージです。
静を篤くして、極まると虚へ。虚は、実の反対です。
詰まっていないからこそ、なんでもおおらかに受け入れる形のない器のような区別ない空間のイメージがあります。
まずは、自分の中の濁を清めることが出来ればなぁと思います。しかし、その思いはもはや、無心ではないのかも。。。😅