前回の続きです。
土佐の大津でお亡くなりになりました、菅原道真公の忠臣、白太夫について書いています。
色々調べると、渡會春彦(白太夫)を始祖とします白江家の話がありました。
白江家が代々神主をしています、綱敷天満宮のご由緒より。
道眞公左遷の折り、綱織天神社にお立ち寄りになり、道眞公自らお側近くに渡會春彦以下一族を召され、これ以上の追従は大変苦しいものであるから、汝ら一族は此処に留まるべしと言われたようです。
また、渡会春彦の一族の春茂に、御自身の御影を書き与えられ、「今より渡會の姓を改め白江と名乗るべし」と申され、この春茂をはじめとする一族六名、主との別れはつらい事ではありましたが、菅公の遺命に従ってこの当地に留まることとなった。
とありました。
そして残った白江の一族は綱敷天神社の神主として今につづきます。
その中で、白太夫だけは、やはり、菅原道真公についていくと太宰府までいき、そして主なき後は、遺品を土佐のご長子まで運ばれて、土佐の長岡の大津船戸でお亡くなりになりました。
京都を追放され、壮絶な長旅、命の危険と隣合わせ、道真公が、そのように言われた胸の内、辛かったことでしょう。
しかし、その苦境にあって、まわりを気遣う優しさ、、。菅原道真様のお人柄がこの逸話からも垣間見ることができます。
この白江姓についてですが、
綱敷天社の後由緒の中に、更にこんな逸話がありました。
この名は当神社(綱敷天社)の周辺、特に大川周辺の古い地名であった新羅江(しらぎえ)がその名の由来ではないかともいわれています。
対馬に残る地名にも白江とあり、この地名は古代に交流のあった新羅から来ていることが確かな事から、新羅江→シンラエ→シラエ→白江となったとも考えられ、同じような理由で当神社周辺を古代では白江と呼び、菅原道眞公はそこから白江の名をお付けになられたとも考えられなくはありません。
ここまで
白江ときくと、歴史好きは、白村江の戦いなんかを思い出すかもしれません。
新羅、唐vs百済、日本の戦いだと習いましたが、役小角を紹介する本を読んでから、新羅という国、また、新羅からの渡来人は、日本の存亡の危機を救い多大な影響を与え、白村江の戦いのあと、弱体化した日本の国が唐からの侵略を阻止したのにも貢献した話が記されます。
一方、時の権力と対立したりしてその形跡は隠されたのではないかとも思います。
スサノオは、須佐の王、新羅からの渡来、という説もありますし、神武天皇の兄(次男)は新羅の王になった、という逸話があります。
また(シラヤマ)のある福井あたりにも、新羅に縁がある人物の逸話があり、渡来伝説がのこります。
白山のあります福井県の氣比神宮(敦賀市)の別名は「笥飯(ケヒ)宮」で、祭神イザサワケは新羅の王子・天日槍とされますが、境内東側にはツヌガアラシトを祀る角鹿神社も建ちます。天日槍はツヌガアラシトが来てから5、6年後に新羅から渡来し若狭国(福井県南部)にも住んだようです。
太古は国という概念がなく、大陸も近かったでしょうし、同胞が海を渡り散らばり、また後に帰還した、などはしばしばあったのかもですね。
伊勢の地に、雄略天皇が豊受大神を歓請する前、元々外宮の地には、渡会家の氏神を祀っていた話がありました。
あの聖地の元の御祭神は、渡会家の一族が白江(シラエ)家を名乗ることから、白山(シラヤマ)信仰だったのかもです。
外宮には、多賀宮が小高い所にあります。
全国各地にあります多賀神社は、白山多賀神社と呼ばれることもあり、白山系の神社です。
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