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大善人へ身魂磨き

閻魔庁の天秤

思いにはプラス、マイナスあります。行動は思いが形になったもので、継続はそれを掛けた(×)ものかなぁと思っています。マイナス、プラス、それを掛け合わせ、天秤ではかられる話がありますので紹介しますね!


中国の役人の衛仲達という者の魂が閻魔庁に引き連れてこられました。


冥土の役人は、彼がこの世で為した所の善事と悪事の2冊の帳面を提出しました。


悪事を記録した帳面が庭一杯に広げられた一方、善事を記録した帳面は僅か一巻だけで、それも小さく僅かでした。


冥土の役人はそれらを天秤にかけました。すると、悪事を記録した帳面は軽く、善事を記録した僅かな巻物の方が重いのでした。


その理由を衛仲達はたずねました。


冥土の役人がいうには、


それはただお前の一念が不正であれば、それが罪悪となり、必ずしも実際に過失を犯すまで待つ必要はない、例えば、女性を見て悪念を起こしただけで記載される。と。


また、小さな巻物の中身についても教えてくれました。


朝廷で大工事をする事が決まった際、一般人が労役に酷使され非常に苦しんでいるのを知り、停止を奏上したことが書かれていました。その奏上は却下されて、民が苦しんだ事実は変わらなかったようです。


何故、それが善事であり、沢山の庭一杯の悪事よりも重いのかときくと、


君のこの一念は一般人民の苦しみを少しでも取り除こうとするもので、素晴らしいことだ。もし朝廷がこの意見を受け入れていたら、その善の功徳は現在よりさらにずっと大きかっただろう。と。


善事はたとえ小さい事であっても、その志願が天下国家や一般人民の為になることなら、功徳は大きい。


善事はたとえ大きくても、自分の一身の為になるというだけの善行は非常に小さい。と。



ここまで。


悪事も、善事にも、思いがあり、それから派生した行動があり、その行動が良い事も悪い事も実る実らないがあり、それらが全て閻魔庁の帳面に記載され、軽重も含めて天秤にのせられる話しは興味深いです。


善事は、結果としては実らなかったのに、奏上して、民を救いたいとした行為は、庭一杯の悪事より重い善事とみなされます。


結果は、周りの協力や状況含め時の運もあります。頑張っても駄目なこともありますが、その無駄と思われた報われなかった努力をキチンと天は記しています。


この話にはありませんでしたが、善案の奏上に却下をきめた朝廷の役人は、民のためになる事を阻害したから、悪事として記されているのかなぁとも思います。


善いことしようと思う心も善。行動すれば更に善。そして、その善事が、自分のため、私(名誉欲なんかな?)が入ればそこからマイナスされ、純粋な心で公に向けて為されたら至善。


思いも行動も全てこうして記され測られながら生きている。なら、善行はマストだなぁと思いますね!



自分の思いは、選択肢を良くも悪くもするし、改心すれば、親鸞聖人の悪人正機で、その深く反省した心はきちんと善事の帳面に明記されるとも思います。


生きている間に悪に気づけなかったら、閻魔様の前で1ミクロン、1mgの差もなく天秤で見せつけられるとするなら、この天秤は目に見えない思いや、エネルギーまでも量る天秤でもあり、



生きているうちに、悪と思えることの感覚を麻痺させることなく、


悪い所は改心反省して、


善いと思える事はどんどんと広がるようにプラスを広げていきたいなぁと思いました。


よっし、善行をしよう!


キャッチフレーズにして、チリも積もればですから、できる事をして善の天秤⚖️を重くしていきたいですね( ^ω^ )




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