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大善人へ身魂磨き

七支刀

剣について調べていると何度も目にする不思議な形の剣があります。今日はその剣に書いて勝手に検証してみようと思います。


その名前は七支刀。


鬼滅の刃でヒノカミ神楽ででてくるみたい。鬼滅の刃は娘は全部みたみたいですが、私はまだ途中。。。









また、阿知女(アチメ)の動画がこちら。この音楽は、宮中神楽であり、神功皇后に珠を授ける時のもので、阿知女は阿曇磯良、信濃の安曇族と関係あるみたいですね。この、動画でも、七支刀がでてきました。




今、七支刀は、石上神宮にあるようです。しかし、九州の筑後国山門郡の地に「こうやの宮」と呼ばれる場所があり、日本で唯一、七支刀を持った御神体がおられるようです。








高野宮の正式名称は、久留米の高良大社にある高良記天慶神名帳によると、その御神体は「礒上物部神(いそのかみもののべしん)」(※)と書かれているようです。つまり、物部氏の像のようです。


「こうやの宮(高野宮)」正式名称は「磯上物部神社」は福岡県山門(夜万止・やまと)郡(現みやま市)瀬高町太神(おおが)字鬼木長島(おさじま)にある。


石上(イシガミ)神社は、もしかして、イソガミ?磯神?なのかも。七支刀は、こうやの宮のものが先で、後に石上神社に持ってこられたのではと言っている方もおられました。


石上神社によると、

七支刀は古代の鉄剣であり、その由来は早くに忘れられ、神宮ではこれを「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼び、神田にその年はじめて苗を植える儀式に神を降ろす祭具として用いていたといわれています。


早くに忘れられ、、とありますが、これは、七支刀の鉄剣の錆をおとしたら、金象嵌銘文が施されていることがわかり、その銘文の解読から、百済から、倭国の神功皇后へ渡されたものだとわかっています。




日本書紀神功皇后摂政52年条に、神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があるみたいです。


それがこちら↓


七支刀の銘文夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。



女性である神功皇后は、女でありながら闘う武神のようですね。




七支刀は炎の剣みたいに見えます。


ヒノカグチ様というイザナミ様が亡くなる原因となった火の神様がいます。また、刀は武器ともなり、戦火など、燃え盛るイメージがあります。


天孫のタケミカヅチ様(雷神)が国譲りを依頼してきた時、尖った剣の上に座ります。尖った剣の上に雷の神様が座る。




この神話の剣は、田畑に剣をさして、わざと雷を田畑におとさせ、焼くのに使われたのではないかと次の話から思いました。


それは、全ての賀茂神社の総本宮の高鴨神社の宮司のお話にありました。一部抜粋します。


鴨族は争いを好まない一族であり、優れた製鉄技術から農耕器具を作って人々に与えることはしましたが、武器を作られるのを恐れて製造方法は明かしませんでした。


すでに弥生時代の末期には、鉄を田んぼに刺して雷を落とし、土壌を電気分解して、収穫量を上げることもしていたようです。


しかしどのように高い技術を誇ろうとも、武器を作ろうとはしませんでした。このことから一説では、戦から逃れて大和から移住したのではとされています。


そして鴨族が移住した先は、実り豊かな村となりました。お米も野菜もたくさん穫れて、病気になれば薬がある。移動手段の馬の扱いにも長けている。平和を愛し、高い技能を持った鴨族は、行く先々で人々に受け入れられ、各地に一族の社、鴨社を建てることができたのです。


神楽のアチメに出てくる

かみわかも。。。

鴨族は八咫烏に象徴され、役小角の本でも戦いを好まない一族だったとありました。古代から天皇家を陰から支えてきた一族です。




つづく


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