冬の花を沢山植えました。

いつもは秋に植えますが、今年は真冬になりました。
シクラメンは昨年からまた咲きました。蕾はつけてまだ咲かないものもあります。
おーい、季節を逃してしまうよー。😆
沢山花をつけるピンクのシクラメンは夫が仕事の忘年会の景品で当たったものです。

夏の花は、少し温室でお休みです。

小さいですが、ハイビスカスに蕾がつきました。ハウスの中は温かいということですね。
良かった。
今年はもうひとつ温室ハウスを買いました。
小さいベランダがさらに小さくなりました。趣味を楽しむためには致し方ない。


きっと、地植えが植物達もいいだろうけれど、ないものはない。
こちらも仕方ない。
ラティス、かなり古くなりました。
夏にペンキ塗りしようかな。


















いじめは犯罪です。
寒い日が続いています。
雪景色に似合う鳥に丹頂鶴がいます。白黒赤のコントラストは自然と調和した造形美を魅せてくれます。
ところで、その丹頂鶴ですが片足で眠るようなんです。なぜ、丹頂鶴は片足で眠るのか?と調べてみると、↓↓の解答がありました。
浅瀬や、泥沼、氷上などではうずくまるわけにいかないので、1本足で立ち、片足を羽毛にしまいこむことによって体温の無駄な発散をふせいでおり、
ツルが氷上で立って眠れる秘密は身体を支えている足のつけねにあるのです。
つけねに一種の熱交換装置があり、
足先から冷やされて帰った静脈血が、体内から送られてきた熱い動脈血の熱を奪い、温められて体内に戻っていくのです。
その上すごいのが、
熱を放出した動脈血は冷たくなって
足の先に向かうので、
氷に穴があいたり、
逆に指に霜焼け(しもやけ)ができたり、氷が足に張りついたりしないのです。
それで氷上を1本足で立って眠れるのです。
ここまで。
自然との大調和です。静脈と動脈の絶妙な働き。静と動。先ずは静から。
一本脚で立つ高貴な姿。

こちらは、フラミンゴ🦩かな?

こちらも美しい。
特に日が出ていない夜は気温が下がります。
寒い場所や氷の上でさえ片足で眠るのです。地面への接着点を最小限に抑えながら、氷に穴🧊🕳を開けないように身体の中で調節する循環の仕組みが備わります。
氷を割らないように立つことにより穴の下にいる生き物へ脅威を与えないことにもなるのかなと思います。
同時に、自身の脚を霜焼けから守り、氷に張り付いてしまうことも避けて、朝一番冷たい時でさえ飛ぶことを可能にしていたわけです。
なかなか、布団から飛び出しにくい季節です。朝一番、可憐に布団から飛び出していけない私は、布団との接着面が大きいからでしょうか。😅🛌
何はともあれ、、
自然と共に生きながら、
自然の形を自ずから変えることなく、
自然と共存する。
静と動のバランス。先ずは静から。
鶴の可憐な姿の内に潜む、自然との共存を織りなす姿から、滲み出る美から、学ぶことは、沢山ありそうですね。
自然はいいですね。
必要以上に貪らず、
周りを不要に害せずです。
自然に生きて、
自然と調和して
自然に還りたいです。😌
【画像は全ておかりしました】
本当に怖い経験をしたり、悲しい経験をした場合、その瞬間はまるで🔨でめちゃくちゃに自分を破壊されたように感じます。
心が締め付けられるだけでなく、最初はただ茫然と自分の目の前に起きたことを理解出来ず、また、猛烈な嵐がおき、土砂をゆっくり崩しながら自分を襲うような、土砂降りの雨がすぎると、次は強烈な寒波に早変わりしつつ、心は冷たく冷たく固くなり、その固くなった氷の心が、日の光をまってとけ心がキャパオーバーになる期間を経ると涙が出てきます。
その苦しい経験を自分の試練として受けいれてもなお、その経験が自分以外の近しいものからなされたものなら、
それが懼れ(おそれ)として自分に残っていないのか?
身から出た錆ならば、リピートしなければいいだけだけど
他者からされたことなら、それをリピート再生させないように、他者を信じ抜けるのか、他者がするしないは他者=自分
でない限り不可能です。
懼れやトラウマというのは、なかなか厄介です。
また、〇〇されるのではないか、また、××がおきるのではないか、その経験が恐ろしければ恐ろしいほど、ふと、過去と現在が一緒に同時に存在します。
例えば、性被害にあった女性が、その後も男性を受け入れる事が出来なかったり、
いじめをされた人が、その後も人を信じる事が出来なかったり、社会に出ることが出来なくなったり、
悲惨なアウシュビッツのような環境、戦争という過酷な世界から、幸い助かり帰還しても、頭がおかしくなって自分を取り戻せなくなったりした話を聞いた事があります。
懼れは厄介です。
たまに、貴方は昔、〇〇を私にした、と事あるごとに何年も相手を責め続ける人もいます。
トラウマはどうしたらよいのか。
時間薬で確かに良くなることもあるけれど、記憶の中の強烈な悲しみや苦しみ、凄まじい懼れが残る以上、記憶は同時に今も存在して、顔をだす気がします。
その記憶の残る場所に戻り、よく頑張ったね、もう大丈夫、と自分を抱きしめて、受け入れて、温めてあげること、すずめの戸締りなんかは、そのトラウマや押し込めた思いをテーマにして、片づけて鍵をかける感じです。
轟々とうごめく悲しみや苦しみ、喪失感を無理矢理閉じ込めて鍵を締めるのではなく、そこに今の大丈夫な自分がもどり、もう大丈夫と戸締りを優しくする感じです。
そして、もしかすると未来の輝く自分を想像して、その未来は今が苦しい場合、今の苦しみや悲しみの瞬間を戸締り出来るのかもとさえ感じました。
過去、現在、未来というトキはこの世だけに存在するものですから。今の自分次第です。
トラウマは、誰の心にも、多かれ少なかれある気がします。
自分以外の何かによってトラウマや懼れや悲しみが引き起こされても、また他者がその原因の一旦を担っていたとしても、
それすらも、自分を守り信じて、もう大丈夫だからねと強く信じる心により、癒し、溶かす、化す、ことは出来る様に思いました。