本当に怖い経験をしたり、悲しい経験をした場合、その瞬間はまるで🔨でめちゃくちゃに自分を破壊されたように感じます。
心が締め付けられるだけでなく、最初はただ茫然と自分の目の前に起きたことを理解出来ず、また、猛烈な嵐がおき、土砂をゆっくり崩しながら自分を襲うような、土砂降りの雨がすぎると、次は強烈な寒波に早変わりしつつ、心は冷たく冷たく固くなり、その固くなった氷の心が、日の光をまってとけ心がキャパオーバーになる期間を経ると涙が出てきます。
その苦しい経験を自分の試練として受けいれてもなお、その経験が自分以外の近しいものからなされたものなら、
それが懼れ(おそれ)として自分に残っていないのか?
身から出た錆ならば、リピートしなければいいだけだけど
他者からされたことなら、それをリピート再生させないように、他者を信じ抜けるのか、他者がするしないは他者=自分
でない限り不可能です。
懼れやトラウマというのは、なかなか厄介です。
また、〇〇されるのではないか、また、××がおきるのではないか、その経験が恐ろしければ恐ろしいほど、ふと、過去と現在が一緒に同時に存在します。
例えば、性被害にあった女性が、その後も男性を受け入れる事が出来なかったり、
いじめをされた人が、その後も人を信じる事が出来なかったり、社会に出ることが出来なくなったり、
悲惨なアウシュビッツのような環境、戦争という過酷な世界から、幸い助かり帰還しても、頭がおかしくなって自分を取り戻せなくなったりした話を聞いた事があります。
懼れは厄介です。
たまに、貴方は昔、〇〇を私にした、と事あるごとに何年も相手を責め続ける人もいます。
トラウマはどうしたらよいのか。
時間薬で確かに良くなることもあるけれど、記憶の中の強烈な悲しみや苦しみ、凄まじい懼れが残る以上、記憶は同時に今も存在して、顔をだす気がします。
その記憶の残る場所に戻り、よく頑張ったね、もう大丈夫、と自分を抱きしめて、受け入れて、温めてあげること、すずめの戸締りなんかは、そのトラウマや押し込めた思いをテーマにして、片づけて鍵をかける感じです。
轟々とうごめく悲しみや苦しみ、喪失感を無理矢理閉じ込めて鍵を締めるのではなく、そこに今の大丈夫な自分がもどり、もう大丈夫と戸締りを優しくする感じです。
そして、もしかすると未来の輝く自分を想像して、その未来は今が苦しい場合、今の苦しみや悲しみの瞬間を戸締り出来るのかもとさえ感じました。
過去、現在、未来というトキはこの世だけに存在するものですから。今の自分次第です。
トラウマは、誰の心にも、多かれ少なかれある気がします。
自分以外の何かによってトラウマや懼れや悲しみが引き起こされても、また他者がその原因の一旦を担っていたとしても、
それすらも、自分を守り信じて、もう大丈夫だからねと強く信じる心により、癒し、溶かす、化す、ことは出来る様に思いました。