
本を読んでみると、益川さんは決して裕福な家庭で育ったのではなかったようです。お父さんは家具職人で小さな店を営んでいたが、そのうち戦争が激しくなり仕事が減って方向転換。飛行機燃料のスペアタンクをつくる工場を営んだが食っていけない。そこで砂糖問屋に転換。砂糖は甘いから成功するだろうと発想がなかなか面白いのですが、そうは簡単ではなかった。
司馬遼太郎のことを書きます。司馬遼太郎の本名は福田定一だそうです。
まず「福田」から。司馬遼太郎の父親はは神戸の奥のほう、三木村とのこと。そういえば、ジジがサラリーマンをしていた頃、三木という先輩がいました。背が高く穏やかな色男でした。
司馬遼太郎の祖父の母親は「お福」。明治維新、誰もが姓名を持つべきとなったから、母親が知人に相談したところ、お福なら「福田」にするべきと。それで姓を「福田」にしたそうです。
「遼太郎」の方はどうかというと、司馬遼太郎の大学時代はモンゴル語を学習。よっぽどモンゴル草原が大好きだったらしい。モンゴルは丘と草原ばかりだから、「遼々しい」+「太郎」としたということです。
司馬遼太郎は大学を卒業しても「モンゴル科」卒だから就職先が全然ない。仕方なしに京都の三文新聞社に就職したとのことです。
もう一つ書くと、司馬遼太郎の先祖は赤穂浪士の家紋と同じだったそうです。家紋がたまたま同じだったのかどうか。赤穂浪士の分身であれば大昔に死に絶えていたのでしょう。 am
幼少の頃、早朝にアサリ(浅利)売りがやって来ました。自転車の後ろの荷台に大きな籠をつけて「アサリ、アサリー」と声をからして売っていましたが、海からは数キロほど離れていて、自転車で海に行こうと思ってもちょっと無理。ジジが幼少の頃はクルマはなく自転車かリアカーだけでした。
画像はインターネットから借用しました。
あの頃は物資が欠乏時代だったからアサリはご馳走でした。しかも天然のアサリで、早朝、母がもうすぐアサリ売りがくるからと用意していました。
今や食品スーパーに行けば有明産のアサリを売っています。東京湾でも採れるのでしょうが油臭いかな。アサリは赤潮や青潮もあって瀕死を覚悟して生きているらしいから、工場排水が垂れ流しでは生きていけないのです。 am
「ひょっとこ」というお面があります。とぼけた表情で口が尖がっている仮面です。調べたところ、岩手県の昔話には次のように書いてありました(抜粋)。
画像はインターネットから借用しました。
「爺さんが芝刈りの最中に穴を見つけた。大量の芝が詰まっているが奥から呼び声が聞こえて来た。近づいてみると絶世の美女だったが、口が曲がっていた。爺さんは美女より子どもが欲しかったが、子どもは疫病で死んでしまった。爺さんはがっかりしたが、やがてゴールデンキャットが現れて大金持ちになった。」とか。
ひょっとこは貧乏神が多いが、わが家に近づいて欲しいわ。 am
ジジはアメリカに駐在していた時、賃貸アパートに住んでいました。部屋は広い居間、キッチン、洗面所、それに二つの寝室。寝室は固い壁で夫婦用とこどもたち用に完全に分離されていました。日本では夫婦の間に赤ん坊をおいて寝るのに、アメリカ人はその行動がドライなのか、夫婦と子どもたちの部屋は完全に分離されていたのです。
欧米人に独立心が強いのは子どもたちの部屋が別々だということに関係があるのか。子どもたちが鳴き叫ぶことがあってもほったらかして置くのです。そのことは独立心を養成しておくことを重要視しているということに思い至りました。
本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。
フランツ・リストに「前奏曲」と言うのがあります。「前奏曲」があることは「後奏曲」があるということ。「後奏曲」とは死後の世界へのことを想像しているようです。西洋人と東洋人とは根本的に思考方法がちがうのです。 am
たまには毛色の違った本を借りてみようと、図書館の美術品コーナーに行きました。そこに「茶碗」の本があったのですが、表紙には11個のすばらしい茶碗が載っていました。
副題は「平成の百人100茶碗」とあり、100人の名人たちの茶碗を選定したのが載っていたので借り出しました。
鑑賞眼がなくても素晴らしい作品は素晴らしい。選定がむつかしいため、ジジは本を閉じてパッと開いたページの作品を載せることにしました。ブログにたくさん掲載できないから2つだけを選択したのですが、それが下に示した作品です。
ジジに鑑賞眼がないといっても、いいものはいいのです。どうして選べばいいか苦心の結果が今回の方法を採ったのですが、適当だったかどうか悪しからず。 am