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「猫色」にふいと思いあぐねる詩の行など★馬込文士村のこともちょっと

2018-02-20 22:10:10 | エッセイ

「猫色」に行きつくまで回り道・・・・・・・・・。

遙か遙か遙かの昔、大正から昭和にかけての頃、大田区の現在の北馬込、南馬込、中央、山王辺りに馬込文士村と呼ばれるほどに著名な作家、芸術家等が移り住んでいた頃がありました。私は80年代に南馬込4丁目に8年ほど住んだことがあって、どこに誰が住んでいたかを示したその名前がその位置に入った地図を、多分資料館のようなところでもらったものだと思う。パンフレットで見たことがあって、歴史ある場所に住んでいることを実感したものだった。今HPで見ることができたこのマップ。これと同じものだった筈。30年前と変わらない、同じマップと思える。

このマップの V形の下方左サイド、そこの「臼田坂」。ある記事で、「この界隈にも多くの文士が居住した」というキャプションと共にこの画像を見つけた。

私の住んでいた古ぼけた家のあったのが、すぐそこに見える電柱そば。壊すことになって越したわけなので、後に行ってみた時には今そこに見る建物に変わっていた。ということなのだが、その近辺には川端康成、川端龍子(りゅうし)、石坂洋次郎、萩原朔太郎、山本有三、倉田百三等々。それから風刺画家として一世を風靡したという池部鈞一家なども、息子の後の俳優池部良と共に近くに住んでいたというわけで、坂はむかし無論土の道だっただろう。その坂を往来する彼らの通り過ぎる音など、聴こえるかのように感じていたものだった。案内図上で家の位置が同じに思えたのが文芸評論家だったという片山達吉。住んでいた家は彼の住んだ家ではないかとも思えた。近くにはその母で歌人、翻訳家の片山広子。この方は「赤毛のアン」などの翻訳で知られる村岡花子と東洋英和の同窓で彼女に強い影響を与えた人と言われる。この道を行って臼田坂上の先には尾崎士郎、宇野千代、稲垣足穂の名前なども見える。

この道を手前側に百メートル余り行ったところに古書店があった。Googleのストリートビューで通りを辿ってみたが、30年も過ぎれば様子も当然ながらすっかり変わって、当時でも戦前からのものと思えた古びた平屋の店はそこにあるはずもなく、過去の時間の中に消えていた。狭い小さな店の奥は住まいで、その境のこちら側に50代位のむっつりとした主人が腰を据えて番をしていたものだけれども、時たまガタピシするようなガラス戸を開いて中に入った。古びた文庫本を3冊100円で売っていたりしていたような気もする。そのずうっと先に行くと池上通りで、道路向かいには大田区役所の建物があるということになるのだが、その通りを通して一番記憶にあるのは、また足を入れたのはその古書店だったかもしれない。そこで買った文庫本の一冊を、今も愛読していてバッグなどに入れていることが多い。電車の中で開いたりする。

新潮社の初版1966年の1969年四刷目のもの。それを1980年代の半ば過ぎ頃買ったものか。いかにも中古という感じになっていたが、現在ではページも茶がかって、抜けてヒラヒラと落ちてしまう部分さえある。それを戻して挟まないといけない。そんな古さ。それをしっかりとしたブックカバーに入れて読んでいる。多分それほどに紙が古び劣化した本を電車で読んでいるのは私位のものだろう。 西脇順三郎詩集。1894年生まれ。1982年に亡くなった、オックスフォードにも留学し長らく慶應で教えていた詩人。私の故郷新潟県の、それも近隣の小千谷出身ということにも余計に親近感を覚えるせせいかもしれない。特別なものを感じる。いつも持っていて、その時々拾い読み程度にしているだけなのであるが、印象に残る部分、言葉などはさまざまにあり、ここでちよつと言ってみたくなった「猫色」のことなどは、特にとりあげるほどのものでもないのだが、ただ何となく探ってみたくなるようなことでもある、と感じたが故というところ。1962年発行の詩集「えてるにたす」、ラテン語で永遠、ということになるだろうか、英語ならeternity。なにせ慶應の卒論を全文ラテン語で書いたような人だから・・・。

詩行350行余りの長詩の終わりの方に、「ひとりの男が/猫色の帽子をかぶって」と出てくる。猫色?  それはどういう色? 色んな毛をした猫がいるけれども、順三郎さんの頭にあったのはどの色?  ちょっと止まって思って見たくなる部分。それだけのことです。回り道のここが終点。

 

              

 


サイモンとガーファンクル/アイ・アム・ア・ロック(ぼくは岩)

2018-01-13 22:28:21 | エッセイ

いつの間にやら随分と以前のことになってしまったけれども、2009年の早稲田大学エクステンションの秋講座で、「実践的心理学としての仏教」という10回の講座を受講した。担当は大学の春木豊教授ではあったものの、7回まで先生は最前の右サイド、私の前の席で聴講、講義は東大大学院を経て出家され曹洞宗の僧侶となられた藤田一照師(1954-)が受け持たれた。改めてwikipediaで見たところでは灘高出身というから、そちらの関係でもやはり異色の道を選ばれた人ということになるんだろうと思う。作務衣というような身なりでやられていたと記憶する。ともかく、その講義の4回目。3回目のテーマ、「自己Ⅰ 初期仏教のアプローチに学ぶ(無我)」につづいての、「自己Ⅱ 大乗仏教のアプローチに学ぶ(真実の自己)」というテーマでのレジュメにおいてだったのだが、そこに最初にあった言葉、「苦に満ちた現実 その根本的現実は無知 自己や世界を正しく認識しない→物事に対する誤った執着・煩悩→迷い・苦しみ 自己や世界を正しく認識すること=無知の克服」というのがあり、<牢獄としての自己>の例として「城砦としての自己 分離・孤立・内閉・疎外・拘束・麻痺・萎縮・不自由」の言葉が続き、そしてサイモンとガーファンクル(Paul Simon and Art Garfunkel,共に1941年生まれのユダヤ系アメリカ人)のI am a rockがとりあげられていたのである。

1965年のSound of silenceなどにつづいての1966年リリースのフォークロック曲で、私などはリアルタイムで聴いていた曲。今も彼らの曲のファンであるのはまちがいない。その曲が仏教に関わる講義のところにでてきたところにおどろいた。曲に懐かしさを感じた。その時に曲も流された。

                                                                                                           Paul Simon  左Art Garfunkel

 

I am a rock(1966)    https://www.youtube.com/watch?v=JKlSVNxLB-A

 

レジュメの中の「城砦としての自己 分離 内閉 孤立」などはまさにこの曲のもの。いわば「徹頭徹尾」内閉する自己を目指した曲の言葉、と思えるものである。 

A winter's day/In a deep and dark December/I  am alone/Gazing from my window/To the street below/On a freshly fallen,silent shroud of snow/I am a rock/I am an island

I've built walls/A fortress,steep and mighty/That no one may penetrate/Ihave no need of friendship/Friendship causes pain/It's laughter and it's loving I disdain/I am a rock/I am island

Don't talk of love/Well,I've heard the words before/It's sleeping in my memory/I won't disturb the slumber/Of feelin that have died/If never loved I never would have cried/I am a rock/I am an island

I have my books/And my poetry to protect me/I am shielded in my amor/Hiding in my room/Safe within my womb/I touch no one and no one touches me/I am a rock/I am an island

And rock feels no pain/And island never cries  

「ぼくは、岩、ぼくは島なんだ」という言葉の下に・・・・・。壁を造った。堅固な要塞。誰も入ってこれない。侵入できない。友情なんて要らない。痛みを引き起こすだけだもの。そんなのはお笑い。ぼくは、そんなものは見下げたものとする。愛のことなんて話すなよ。むかし聞いたことがあるけどね。今はもう記憶の中で眠っているだけのもの。死んだようなそれを目覚めさせたりなどしない。愛したりしなければ、泣くこともないんだしね。ぼくは、自分の本を持っている。ぼくの詩の言葉が、自分を護ってくれる。甲冑に護られてるいると同じ。そうして自分の部屋に潜み、胎内にいるように安全に感じている。誰にも接触しないし、誰も僕に接触することはない・・・・・・。ぼくは、岩。ぼくは、島。岩が痛みを感じることはないし、島が泣くことも決してない。

私はかつて1968年のアルバムBookendsを持っていて、当時から随分と聴いたもので歌詞も殆ど今でも覚えている。歌える。特にA Hazy Shade of Winter(冬の散歩道)などはよく歌ったと思う。映画「卒業」で使われたMrs Robinson(ミセス・ロビンソン)もこの集中。I am a rockは、このアルバム以前の曲ということになるけれども、 作詞・作曲はPaul Simonということで1966年リリースとして1941年生まれの彼が24、5歳の頃の作詞として良いのだろうか。この徹頭徹尾の内閉指向というのが、どのような彼の中から出てきたものかということを考えてしまう。それほどの心を抱いて生きてきた人であるの? 現実の彼のイメージと重ねて思わざるを得ない。だが、現に彼はこの詩の言葉を書き、And my poetry to protct me と言っている。詩の言葉が自分を護ってくれる。甲冑、兜のようなものにまで感じている、という言葉に託している非常に強い思い。彼にとってはそれは特別なもの、ということが伝わらずにはいないし、抽象的すぎ、捉え難すぎ、それこそ感覚的、言葉だけのものに過ぎないではない?  と思いつつも、でも訴えたいことは伝わるような部分に思える。全体をどのように受け止めたらよいのか。

彼はこの曲についてこのように言っているのだけれども。  "The loneliest people in the world are those that cannot share their lonliness,through fear,pride or anger.And the ache builds walls,fear populates their dreams and pride is then jailer of the soul "。心を他と分かち合えない最もさみしく孤独、孤立している人々に対して、彼らがどのようなことを願い求めるようになるか、Paulは見ている。 

これは、2000年10月のパリ、オランピア劇場のコンサートでの、"I am a rock"

https://www.youtube.com/watch?v=H9_jQ9HA1fc&list=WL&index=143

この時Paul Simon、59歳。歌われた中の一曲ということだけれども、こめられている思いが伝わるplayということになるでしょう。このとことん内閉しようとする歌詞の曲。この曲の言葉に慰められる人の存在、救いを得ようとする、人の世界で苦しむ人のあることが浮かぶ。例えば、ある種の差別により心的に自殺にまで追い込まれかねない人の孤立感、絶望。如何に自分の心を護るか。オリンピア劇場のPaulを見れば、歌うことを通してそうした苦しむ人に向けて語りかけようとしていることがうかがえる。祈りのような思いを感じさせる。最初に録音した当時の、フォークロックのリズミカルに進む音の流れの中に聴く言葉とは殆ど別な、経てきた人生時間を感じさせる重く、ずしりとくる喉から出る言葉の一つ一つがあるかのようである。眼に涙を滲ませているようにも映る。                                                                             

最初の方のvideoには1662ものコメントがある。共感を思わせるコメントを眼にする。a rock feels no pain,and an island never cries. 誰しもが心、傷つくことがある。岩は痛みなんか感じない、という言葉が耳に流れ込んでくれば、そうでありたい自身の心をイメージする。誰も侵入することのない確固と護られた独立した島は、涙のような脆さを見せることはない。というイメージも、傷つけられない自己を求める心に幻想を与えてくれる。曲に、言葉に、心に、思いに触れてくる何らかのものがあることを膨大な数のcommentsに見る。

                                    ************************************

講義のレジュメにI am a rockの曲が示されたのには、孤立する心の状態として示すに相応しいことからであったのだろうけれども、仏教としてはそうした自己の超克、無我へと至ることが救いとして説かれることが分るが、Paulたちの住むのは別の精神世界。I am a rockにおいては、絶対の壁に護られた苦渋の安らぎがその行き先。無我はそこにはなく、私はいなければならない。私あっての世界。現実。

 

 

 

                           

                                        

                            In  2004,with Dalai Lama

                          

 

 

 


記憶の中のトルコ、and Turkey.Homeで見る美しい画像世界の中の彼の国

2017-09-06 07:16:08 | エッセイ

TwitterのTurkey.Homeというトルコの文化、風景の発信ページで、掲載される画像のひとつひとつ、美しく撮られた風景、あるいは食生活まで入ったものなど、アート的に加工さえされた画像の数々なども見ていると、自身の中にあった記憶の中のトルコイメージとは百八十度ちがう印象を持つ。こんな国だったの? 私が知るのは1970年に近い頃のトルコだけれども、トルコという国はこんなふうにも見える国だったの? などという目を覚まされてしまうような画像による魔術とも思える別の国イメージに遭遇する。なんといっても美しい画像、撮られたものには、惹かれる。風景であれ何であれ、嘆息する魅力ある画像は、求めたい。そうした思いからTurkey.Homeの画像は追いたくなる。現実の世界はまた別、ということは分かりつつ、たのしみに見る。

 

 

1967年、1968年と2度、トルコ国内を通っている。最初の年はヨーロッパからインドへと陸伝いに向かう途中、ギリシャから入りイランへと抜ける途中。2度目の時はその逆にインドからヨーロッパに向かう途中。リュックサックを背の旅で、最初の時のイタリアからユーゴスラヴィア、ギリシャを経てのイスタンブールまでなども、列車やバスを全く使わないヒッチハイク。イタリアのトリエステを発ってユーゴスラヴィアのベオグラードに着いた時には夜。当時は社会主義の国で街にネオンなどの全くない市内の光も限られて異様なほどの暗さ。夜のベオグラードの街外れまで行く時に道を尋ねた屈強そうな30前後の男性は、道脇の店先だけ明かりが洩れているような暗がりの中の店に入って、箱入りの物(チョコレートだった)を買ってきてくれ手渡してくれた。言葉が通じないこともあってか、その先で握手をしてくれて別れるまで一言も言葉を洩らさなかった。暗がりの中で顔も良く見えなかった大柄な彼の、そうした知らぬ異国の者への優しさが甦る。その夜はそのまま歩き続けた先の道路わきの斜面下で野宿。辺りに家もない暗がりの中で野犬の鳴き声に不安を覚えたりしながら眠る。翌朝道路に上がってから、車を止めてくれたのが中年の社会学者で・・・・・。

ギリシャのテサロニキをヒッチハイクで発ち、国境を通って多分昼近くだったのだろう、トルコに入り少し先にあったガソリンスタンドのトイレに小用で寄ったのだが、その後歩いているうちにパスポートを失くしていることに気づいた。周辺は人家なく広がる平原。道路が通っているだけという中で一瞬呆然とする。再発行の手間、時間のことが頭をかすめる。トイレ辺りで失くした以外になさそう。ということで引き返したところで、向こうから小さな荷車を引いた人がやってくるのが見えた。何か手にしてそれを確かめ見るようにやってくる。それが私のパスポートだったというわけだけれども、ヒヤリとしたことのひとつ。その先を歩いている時、それは殆ど突如という位に、全く気配に気がつかない間のことだったのだが、犬が至近にやってきていて、それも何匹か。こちらに向かって吠える。どうしたものかも分らないままに、ただ何かをしてくることはないだろうと思っていたところが、そうもいかなかった。向ってくるのである。声を上げながら噛みつかんばかりにやってくる。避けるために走り出した。何匹もが追ってくる。コーデュロイのジーンズをはいていたのだが、ふくらはぎの上のズボンの部分に噛みつかれて破れる。一帯無人の平原のかなたに人が立っているのを眼にして、夢中でその方向に向かって走っていた。

そこにいたのは羊飼いの少年で、シープベルというのかそうしたもののついた杖を持ち、何事も投げに軽く振って低いカランカランといった音を響かせると、嘘のように追ってきていた犬は静まり、私も思わぬ逃走から解放された。羊を護る番犬だったことにその時気づいたのだが、思いもよらないそうした突発的なこともあった。                                                                   旅の途中での語りたくなることはさまざまにあるけれども、いずれにせよイスタンブールまではヒッチハイク。その先はバス移動で黒海に面した街トラブゾンからトルコ西部のエルズルムまで。トルコについての知識は殆ど無かったのではないかと思う。日本に対して好感を持つ国、というイメージは不凍港を求めてピョートル大帝(1672-1728)以来南に勢力拡大を目指したロシアとトルコの間の対立の歴史があり、その苦しめられた国ロシアを、1904年から5年にかけての日露戦争で日本が破ったことにより下げることのできた溜飲。そうしたことからの日本対する好感。そうしたことは分かっていたという記憶がある。イスタンブールに着いた夜、フェリーでヨーロッパ側からアジア側に渡るフェリーの中で隣になった白い髯の顔立ちの立派な60代とおぼしい老人が、降りた後バス停まで案内してくれアンカラまでのバスの切符を購入してくれたりなどした。それから果物だったか、いただいたような気がする。言葉は全く通じない者同士だった。

それからその黒海に面した街トラブゾンでは、その広い店には昼の時間的なものもあったのか客が一人もいない中で、食べ終えた後料金を払おうとすると、中年の主人が日本人かどうかと聞いてきてそうであることを伝えると、ジェスチュアで払わなくても良いよという仕草を見せたのである。それも、トルコ人の日本人に対して抱いている好感がストレートに伝わってくるような経験として残ることになったと思う。                                                                     そうした親日トルコイメージの他には、アンカラ、イズミル、そんな街の名を知る他にカッパドキア。ヨーロッパに労働力として出ているトルコ人イメージ。他には知識のないままにインドまでへの通過国としてやってきていたというところ。後になって残念に思ったのは、イタリアのヴェニスの両替で入った銀行で、そこを出てから気づいたカメラの紛失。盗難ということだったのだろうけれども、そのために後の旅の記録を写真として残せなかったこと。トラブゾンからクゼイ・アナドル(北アナトリア)山脈を抜けて南東のエルズルムまではバス。その間の記憶としてあるのは全く緑のない土だけの世界。小高いそうした山の間を昇るバス。土しか見えない山の風景という異様な様に、ヨーロッパとは別の地にやってきていることをいよいよ思わされたという感を覚えた。

                                                                                                                    左上黒海沿いのトラブゾン。東南下エルズルム。赤い点アララト山近くのドグバヤジト。右下イランのタブリーズ。

 

上のGoogle Earthの図でイランのタブリーズまで示したのは、エルズルムから旧約聖書にノアの方舟が漂着とある5137メートルのアララト山の南西15キロにある赤い点で示したドグバヤジト、そこから40キロのトルコ・イラン国境Bazargan、そして更に283キロのタブリーズまでがヒッチハイク行で記憶に残るものだったからによります。                                                              エルズルムで記憶にあるのは、夜の時間の広い茶店の中の模様などだろうか。歩きながら外から見た印象程度なのだけれども、込み合っている店内にいるのは当然のように男ばかりで、女の姿は全くなし。黒、茶、グレイ系統の殆ど均一的と言っていいような着衣の色傾向と髯の男のみの世界。そして十分な明るさとも思えない中、にぎわうさま。現代の街の様子をGoogleのストリートビューで見てみると、おそらくは昭和30年前後の日本と現在の日本の街の模様を比較しての違いが思われるほどに、変化しているのを感じる。全く異なる雰囲気になっているということ。翌朝ヒッチハイクのために街外れに向けて歩いている時に見た道路脇に並ぶ古びた茶店の様子、そこに腰を据えて話に興ずる年配の男たち、道は土。時間が止まっている世界の朝の光景、ということであったような地方的眺め。

 

現在のエルズルム/Googleストリートビューで民族的な姿を見る

 

エルズルムからイラン国境まで40キロの町ドグバヤジトまでは、直線距離では245キロだけれども、道路の距離は当然はるかにあったことと思う。平地の田舎道を歩き、人の住む地域を離れた山間の道を行き、感覚の中で地の上に深く沈むような存在感の訪れを覚えたりしていた。道路は山岳地に向かいむき出しの土や岩ばかりが目立つようになり気候も変化して、その日は日暮れも過ぎる頃になって、道沿いの茶店に入ることにする。ランプしかなかったのではないかと思う。中年の主人と10歳位だろうか、そこで働いている様子の子供らしい笑顔を見せる少年が迎えた。何人かの村人の客。店に入って左奥側に宿泊用の寝台の並んだ部屋があって、料金は100円程。下は土。文字通りの寝台。ただ四隅に支柱があるだけの何も置かれていない横になれるだけのもの。店の方から洩れる明かりがあるだけで、奥側は暗い。そのうちに店内の明かりも消え、中は真っ暗になった。疲れて眠りこみ、そしてけたたましい音と共に暗闇の中で眼が覚める。怒鳴る声と泣き叫ぶ声という、何も見えない中での異常状況。夜明け前のような早い時間に思われたが、後で事情が分かったのはそこの主人がその室内のいずこかの寝台で寝ていた、前の夜に笑顔を見せていた少年を叩き起こしたのだということ。終日奴隷のように使われているまだ10歳余の少年ということだったか。不快な思いと共に迎えた朝。

 

北西方向のエルズルムからドグバヤジトへと

 

グバヤジトに向けて発って、どの辺りでアメリカ人夫婦の小型のワゴンに拾われたのだったか。通るものといえばたまのトラック位の道路で、例えば前日のヒッチハイクで乗せてもらったトラックのことを今はもう全く思い出せないのだが、その日の記憶にあるのも彼らのことだけ。 おそらくは最初にやってきたのが彼らのワゴンで、そのままドグバヤジトまで辿り着くことができたのだと思う。丁度私のような年代の学生のいる親たちで、大学で教えるためにインドに向かうところなのだと言った。知的で申し分なく魅力的な夫婦。あたたかく接してくれたし、心地良かった。確か来日したこともあるように言われていたように思う。そうしたことからも近しさを感じるようなことがあってか、向う車内でさまざまなことをたのしく話したことを覚えている。ドクバヤジトでは夕刻、食事のできる店に入り、ご馳走になった。その時に私は、片方のレンズのない眼鏡をかけていたことを思い出す。翌朝イラン国境に向かうのは同じで、同乗させてもらえるということだったのだが、結局朝出合えず、その良く晴れた日、国境には一人で向かうことになった。その40キロ中の記憶にあるのは5キロほど国境の手前辺りからだろうか。無人の大地。左方向彼方にアララト山が見え、前方彼方の国境の丘肌にはトルコの国旗が描き出されていた。歩いている間に15、6の少年が現われ、あれこれトルコ語で言ってきて、通じない言葉のやりとりの中、私は石の塊を手に威嚇してくる相手を脇にすることになった。無視を決め込んで歩き続け、後方でこちらに向けて投げられた石が地面に落下する音を聞いた。                                                       国境のBazarganで、すでに乗れるトラック等を待っていたヒッピー、或いはビートニクと言って良い一緒に旅している二人のフランス人に会い、数時間待ったのちに同じトラックでタブリーズまで。

そうした最初の時のトルコ経験だったのだが、漠然とイラン寄りの東部のトルコ、例えばドグバイジト辺りなどもクルド人が多いのではないかと思っていた。現在で1140万人のクルド人がいて最も多いのがイスタンブールに住むクルド人ということなのだが、いずれにしてもイラン、イラクにも多数が住む民族、それに接するトルコの東側にも多数が住んでいるのだから、ドグハヤジトなどにも、と。この記事を書き始めてから確かめてみたくなって、このような分布図を見てみた。

                                          

これからするとクルド人もいるけれども、アルメニア人が非常に多いということになりそうだし、思いもしなかったことにトラブゾン辺りはギリシャ系が多いということになりそうである。                                                                          私は殆どただ通り過ぎただけで、二度目の時は街の中を歩いたイスタンブールも最初の時は通り過ぎただけだったし、ドクバヤジトにしてもこのような知られた宮殿の残されているところだなどとは思いもしなかった。本当に狭い範囲の町の中の一部を知ったのみだったということ。

Ishak pacha palace


N教授のその時の思わぬ動きは印象にのこる

2017-08-11 23:03:16 | エッセイ

3限になる午後13時からの授業の始まる5、6分前。                                                                        私はその教室のある5階の通路の、下に広場、右前方向こうに正門が見える処に立って外を眺めたりなどしていたんです。                      担当されている文学部教授のN先生はまだ来ていない。時間通りに来たことがあったかどうかという位に、開始時間にやってきていたという記憶がない。長い時で5分位遅れてきた記憶がよみがえる位に、ピタリということがなかったというような。実際には1、2分前に来たことはあるということだったとすると、先生の名誉のためにもそれは申し訳ないですと言うしかないかな。出席簿を開いて、出席をとる。名前を読み上げられて、返事をする。殆どの講座では、教室の前の席の端などに出席カードの回収箱が置いてあってそこに入れる。 

六十歳を幾つか過ぎた或る時、ふいと思い立って大学の講座受講を始めてみることにした。何年か週二日できていて、N教授の講座も4月から12月までの通年講座を3年つづけて受講してきている。居心地が良いというような理由でもある。明治、大正、昭和の文学の中からひとりの作家、作品をそれぞれ3回程度に当てて必要なレジュメもしっかりと用意してとりあげていくのだ゛が、温和、物柔らか、丁寧、語り口に惹かれてというようなことがあったと思う。そのテーマに対する彼特有のアプローチの仕方に慣れてしまうと、外れた方向を期待したくなったりもしたけれどもそういうことになるわけもないので、その辺りの自身の気持は抑えることになったりもしながら、楽しめる時間にあることを感じながら通い続けたということになるか。それに先生は私と4か月違い生まれの同年齢。ほぼ同じ時間を、そして時代を生きてきた者同士という感覚には、ちょっと特別な心情も加わるのだった。

授業の中で、自然と先生の学生時代当時のあれこれに触れられることが出てくる。研究テーマをどういう方向に向けようかを考え先輩のアドバイスをを受けたというようなことなどにしても、自分が同じころにしていたことなどを重ねる。同じ東京、同じ時代の空気の中にいた同学年同士という感覚に行ってしまう。ただ同学年のことはこちらが知っているだけで、先生の方は知らない。教室は、地上16階の新しい建物の5階。カーペットの敷かれたフロアー、整然と机の並ぶ空間。全員が座ると40人になる教師との距離も近い教室。縦に長い建物でそうした教室はその階に一室のみ、他は別目的の部屋。エレベーターでの上下移動。というような場所で、正門から入るキャンパス内の規模の大きな建物内の教室とは、全然印象が異なるということがあっての、居心地感。その良さを感じつつ、いつもその教室にはやってきていたように思う。

13時が迫っていることで、既にほぼ受講者たちは席についている。N教授は一度事務室のある建物に寄るはずなので、そこへと向かうために下に見える広場を通る筈。と思って見ているとちょっと急ぎ足の姿が現われて、手には用意してきたレジュメを入れているものらしい大きめの袋状のバッグ。季節柄袖を少しめくった白のワイシャツだけの姿。飾らない普段通りの先生なのだが、ふいっと急ぎ気味だっ歩みを止めたのだ。そして手にバッグをぶら下げたまま正門の方に体を向けると、じっとその方向に見入ったのである。まさに「愛しむわが母校」を感慨をもって見る人の風情。若い学生の日から現在までの、そこに深く根差した日々を改めて見届けようとするかのような姿に映った。それほどに突然止めた歩みも思わぬものだったし、体の向きを変えて何かしら確かめ見ようとするかのように正門向こうに見入り、5、6秒間動かなかった様子も強い印象を与えるものだった。それを見、いまだに記憶にとどめている人間がいようなどとは、先生も夢にも思わないだろうことだけれども・・・・・・・・・。

             

 


溜息に・・・・・。

2017-07-28 09:01:37 | エッセイ

思わぬ時に覗け見える、                                                                         そんな言い方ができてしまうのかな。                                                                                                                                                         あの舗装されていない石ころの近道の裏の通りを歩いている時、溜息というのか何というのか、                                       息をふっと吐くようなことになって。                                                                                            反動のようにそれにもうひとつ続いたのかな。                                                                         これ、溜息めいている、と感じた。                                                                                    あーあ、という感覚に伴う溜息めいたものに似ていたような。                                                                いや、あれは確かに溜息。吐息みたいな溜息。                                                                                                                             なにがこれを?                                                                                                                                                                          心までも自ら確かめてみたいような。                                                                                                                                                 そう言えば溜息、英語で何だったっけ? 度忘れの多いこの頃の自身の頼りなさの中、浮かんだ。                                          出てこない。この頃はいくら待っても掻き消えたまま出てこないのが常で。                                                                                                         ところでこの溜息、と思った。                                                                          人間のするもの。                                                                                生きているとは、その溜息ともつき合うことだったな。                                                        などということを初めてのことのように思い。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

その時出てこなかった英語の溜息sighと言えば、                                                                                                      懐かしくも、そしてこれまで時に好んで歌ってきた、                                                                    Righteous Brothersの名曲"アンチェインド・メロディ"Unchained Melody。                                                                 歌詞の中に、

Lonely rivers sigh (さみしい川はため息をもらす)                                                                Wait for me,wait for me. (私を待っていて、待っていて)    

https://www.youtube.com/watch?v=zrK5u5W8afc