記憶の中のトルコ、and Turkey.Homeで見る美しい画像世界の中の彼の国

2017-09-06 07:16:08 | エッセイ

TwitterのTurkey.Homeというトルコの文化、風景の発信ページで、掲載される画像のひとつひとつ、美しく撮られた風景、あるいは食生活まで入ったものなど、アート的に加工さえされた画像の数々なども見ていると、自身の中にあった記憶の中のトルコイメージとは百八十度ちがう印象を持つ。こんな国だったの? 私が知るのは1970年に近い頃のトルコだけれども、トルコという国はこんなふうにも見える国だったの? などという目を覚まされてしまうような画像による魔術とも思える別の国イメージに遭遇する。なんといっても美しい画像、撮られたものには、惹かれる。風景であれ何であれ、嘆息する魅力ある画像は、求めたい。そうした思いからTurkey.Homeの画像は追いたくなる。現実の世界はまた別、ということは分かりつつ、たのしみに見る。

 

 

1967年、1968年と2度、トルコ国内を通っている。最初の年はヨーロッパからインドへと陸伝いに向かう途中、ギリシャから入りイランへと抜ける途中。2度目の時はその逆にインドからヨーロッパに向かう途中。リュックサックを背の旅で、最初の時のイタリアからユーゴスラヴィア、ギリシャを経てのイスタンブールまでなども、列車やバスを全く使わないヒッチハイク。イタリアのトリエステを発ってユーゴスラヴィアのベオグラードに着いた時には夜。当時は社会主義の国で街にネオンなどの全くない市内の光も限られて異様なほどの暗さ。夜のベオグラードの街外れまで行く時に道を尋ねた屈強そうな30前後の男性は、道脇の店先だけ明かりが洩れているような暗がりの中の店に入って、箱入りの物(チョコレートだった)を買ってきてくれ手渡してくれた。言葉が通じないこともあってか、その先で握手をしてくれて別れるまで一言も言葉を洩らさなかった。暗がりの中で顔も良く見えなかった大柄な彼の、そうした知らぬ異国の者への優しさが甦る。その夜はそのまま歩き続けた先の道路わきの斜面下で野宿。辺りに家もない暗がりの中で野犬の鳴き声に不安を覚えたりしながら眠る。翌朝道路に上がってから、車を止めてくれたのが中年の社会学者で・・・・・。

ギリシャのテサロニキをヒッチハイクで発ち、国境を通って多分昼近くだったのだろう、トルコに入り少し先にあったガソリンスタンドのトイレに小用で寄ったのだが、その後歩いているうちにパスポートを失くしていることに気づいた。周辺は人家なく広がる平原。道路が通っているだけという中で一瞬呆然とする。再発行の手間、時間のことが頭をかすめる。トイレ辺りで失くした以外になさそう。ということで引き返したところで、向こうから小さな荷車を引いた人がやってくるのが見えた。何か手にしてそれを確かめ見るようにやってくる。それが私のパスポートだったというわけだけれども、ヒヤリとしたことのひとつ。その先を歩いている時、それは殆ど突如という位に、全く気配に気がつかない間のことだったのだが、犬が至近にやってきていて、それも何匹か。こちらに向かって吠える。どうしたものかも分らないままに、ただ何かをしてくることはないだろうと思っていたところが、そうもいかなかった。向ってくるのである。声を上げながら噛みつかんばかりにやってくる。避けるために走り出した。何匹もが追ってくる。コーデュロイのジーンズをはいていたのだが、ふくらはぎの上のズボンの部分に噛みつかれて破れる。一帯無人の平原のかなたに人が立っているのを眼にして、夢中でその方向に向かって走っていた。

そこにいたのは羊飼いの少年で、シープベルというのかそうしたもののついた杖を持ち、何事も投げに軽く振って低いカランカランといった音を響かせると、嘘のように追ってきていた犬は静まり、私も思わぬ逃走から解放された。羊を護る番犬だったことにその時気づいたのだが、思いもよらないそうした突発的なこともあった。                                                                   旅の途中での語りたくなることはさまざまにあるけれども、いずれにせよイスタンブールまではヒッチハイク。その先はバス移動で黒海に面した街トラブゾンからトルコ西部のエルズルムまで。トルコについての知識は殆ど無かったのではないかと思う。日本に対して好感を持つ国、というイメージは不凍港を求めてピョートル大帝(1672-1728)以来南に勢力拡大を目指したロシアとトルコの間の対立の歴史があり、その苦しめられた国ロシアを、1904年から5年にかけての日露戦争で日本が破ったことにより下げることのできた溜飲。そうしたことからの日本対する好感。そうしたことは分かっていたという記憶がある。イスタンブールに着いた夜、フェリーでヨーロッパ側からアジア側に渡るフェリーの中で隣になった白い髯の顔立ちの立派な60代とおぼしい老人が、降りた後バス停まで案内してくれアンカラまでのバスの切符を購入してくれたりなどした。それから果物だったか、いただいたような気がする。言葉は全く通じない者同士だった。

それからその黒海に面した街トラブゾンでは、その広い店には昼の時間的なものもあったのか客が一人もいない中で、食べ終えた後料金を払おうとすると、中年の主人が日本人かどうかと聞いてきてそうであることを伝えると、ジェスチュアで払わなくても良いよという仕草を見せたのである。それも、トルコ人の日本人に対して抱いている好感がストレートに伝わってくるような経験として残ることになったと思う。                                                                     そうした親日トルコイメージの他には、アンカラ、イズミル、そんな街の名を知る他にカッパドキア。ヨーロッパに労働力として出ているトルコ人イメージ。他には知識のないままにインドまでへの通過国としてやってきていたというところ。後になって残念に思ったのは、イタリアのヴェニスの両替で入った銀行で、そこを出てから気づいたカメラの紛失。盗難ということだったのだろうけれども、そのために後の旅の記録を写真として残せなかったこと。トラブゾンからクゼイ・アナドル(北アナトリア)山脈を抜けて南東のエルズルムまではバス。その間の記憶としてあるのは全く緑のない土だけの世界。小高いそうした山の間を昇るバス。土しか見えない山の風景という異様な様に、ヨーロッパとは別の地にやってきていることをいよいよ思わされたという感を覚えた。

                                                                                                                    左上黒海沿いのトラブゾン。東南下エルズルム。赤い点アララト山近くのドグバヤジト。右下イランのタブリーズ。

 

上のGoogle Earthの図でイランのタブリーズまで示したのは、エルズルムから旧約聖書にノアの方舟が漂着とある5137メートルのアララト山の南西15キロにある赤い点で示したドグバヤジト、そこから40キロのトルコ・イラン国境Bazargan、そして更に283キロのタブリーズまでがヒッチハイク行で記憶に残るものだったからによります。                                                              エルズルムで記憶にあるのは、夜の時間の広い茶店の中の模様などだろうか。歩きながら外から見た印象程度なのだけれども、込み合っている店内にいるのは当然のように男ばかりで、女の姿は全くなし。黒、茶、グレイ系統の殆ど均一的と言っていいような着衣の色傾向と髯の男のみの世界。そして十分な明るさとも思えない中、にぎわうさま。現代の街の様子をGoogleのストリートビューで見てみると、おそらくは昭和30年前後の日本と現在の日本の街の模様を比較しての違いが思われるほどに、変化しているのを感じる。全く異なる雰囲気になっているということ。翌朝ヒッチハイクのために街外れに向けて歩いている時に見た道路脇に並ぶ古びた茶店の様子、そこに腰を据えて話に興ずる年配の男たち、道は土。時間が止まっている世界の朝の光景、ということであったような地方的眺め。

 

現在のエルズルム/Googleストリートビューで民族的な姿を見る

 

エルズルムからイラン国境まで40キロの町ドグバヤジトまでは、直線距離では245キロだけれども、道路の距離は当然はるかにあったことと思う。平地の田舎道を歩き、人の住む地域を離れた山間の道を行き、感覚の中で地の上に深く沈むような存在感の訪れを覚えたりしていた。道路は山岳地に向かいむき出しの土や岩ばかりが目立つようになり気候も変化して、その日は日暮れも過ぎる頃になって、道沿いの茶店に入ることにする。ランプしかなかったのではないかと思う。中年の主人と10歳位だろうか、そこで働いている様子の子供らしい笑顔を見せる少年が迎えた。何人かの村人の客。店に入って左奥側に宿泊用の寝台の並んだ部屋があって、料金は100円程。下は土。文字通りの寝台。ただ四隅に支柱があるだけの何も置かれていない横になれるだけのもの。店の方から洩れる明かりがあるだけで、奥側は暗い。そのうちに店内の明かりも消え、中は真っ暗になった。疲れて眠りこみ、そしてけたたましい音と共に暗闇の中で眼が覚める。怒鳴る声と泣き叫ぶ声という、何も見えない中での異常状況。夜明け前のような早い時間に思われたが、後で事情が分かったのはそこの主人がその室内のいずこかの寝台で寝ていた、前の夜に笑顔を見せていた少年を叩き起こしたのだということ。終日奴隷のように使われているまだ10歳余の少年ということだったか。不快な思いと共に迎えた朝。

 

北西方向のエルズルムからドグバヤジトへと

 

グバヤジトに向けて発って、どの辺りでアメリカ人夫婦の小型のワゴンに拾われたのだったか。通るものといえばたまのトラック位の道路で、例えば前日のヒッチハイクで乗せてもらったトラックのことを今はもう全く思い出せないのだが、その日の記憶にあるのも彼らのことだけ。 おそらくは最初にやってきたのが彼らのワゴンで、そのままドグバヤジトまで辿り着くことができたのだと思う。丁度私のような年代の学生のいる親たちで、大学で教えるためにインドに向かうところなのだと言った。知的で申し分なく魅力的な夫婦。あたたかく接してくれたし、心地良かった。確か来日したこともあるように言われていたように思う。そうしたことからも近しさを感じるようなことがあってか、向う車内でさまざまなことをたのしく話したことを覚えている。ドクバヤジトでは夕刻、食事のできる店に入り、ご馳走になった。その時に私は、片方のレンズのない眼鏡をかけていたことを思い出す。翌朝イラン国境に向かうのは同じで、同乗させてもらえるということだったのだが、結局朝出合えず、その良く晴れた日、国境には一人で向かうことになった。その40キロ中の記憶にあるのは5キロほど国境の手前辺りからだろうか。無人の大地。左方向彼方にアララト山が見え、前方彼方の国境の丘肌にはトルコの国旗が描き出されていた。歩いている間に15、6の少年が現われ、あれこれトルコ語で言ってきて、通じない言葉のやりとりの中、私は石の塊を手に威嚇してくる相手を脇にすることになった。無視を決め込んで歩き続け、後方でこちらに向けて投げられた石が地面に落下する音を聞いた。                                                       国境のBazarganで、すでに乗れるトラック等を待っていたヒッピー、或いはビートニクと言って良い一緒に旅している二人のフランス人に会い、数時間待ったのちに同じトラックでタブリーズまで。

そうした最初の時のトルコ経験だったのだが、漠然とイラン寄りの東部のトルコ、例えばドグバイジト辺りなどもクルド人が多いのではないかと思っていた。現在で1140万人のクルド人がいて最も多いのがイスタンブールに住むクルド人ということなのだが、いずれにしてもイラン、イラクにも多数が住む民族、それに接するトルコの東側にも多数が住んでいるのだから、ドグハヤジトなどにも、と。この記事を書き始めてから確かめてみたくなって、このような分布図を見てみた。

                                          

これからするとクルド人もいるけれども、アルメニア人が非常に多いということになりそうだし、思いもしなかったことにトラブゾン辺りはギリシャ系が多いということになりそうである。                                                                          私は殆どただ通り過ぎただけで、二度目の時は街の中を歩いたイスタンブールも最初の時は通り過ぎただけだったし、ドクバヤジトにしてもこのような知られた宮殿の残されているところだなどとは思いもしなかった。本当に狭い範囲の町の中の一部を知ったのみだったということ。

Ishak pacha palace