「猫色」にふいと思いあぐねる詩の行など★馬込文士村のこともちょっと

2018-02-20 22:10:10 | エッセイ

「猫色」に行きつくまで回り道・・・・・・・・・。

遙か遙か遙かの昔、大正から昭和にかけての頃、大田区の現在の北馬込、南馬込、中央、山王辺りに馬込文士村と呼ばれるほどに著名な作家、芸術家等が移り住んでいた頃がありました。私は80年代に南馬込4丁目に8年ほど住んだことがあって、どこに誰が住んでいたかを示したその名前がその位置に入った地図を、多分資料館のようなところでもらったものだと思う。パンフレットで見たことがあって、歴史ある場所に住んでいることを実感したものだった。今HPで見ることができたこのマップ。これと同じものだった筈。30年前と変わらない、同じマップと思える。

このマップの V形の下方左サイド、そこの「臼田坂」。ある記事で、「この界隈にも多くの文士が居住した」というキャプションと共にこの画像を見つけた。

私の住んでいた古ぼけた家のあったのが、すぐそこに見える電柱そば。壊すことになって越したわけなので、後に行ってみた時には今そこに見る建物に変わっていた。ということなのだが、その近辺には川端康成、川端龍子(りゅうし)、石坂洋次郎、萩原朔太郎、山本有三、倉田百三等々。それから風刺画家として一世を風靡したという池部鈞一家なども、息子の後の俳優池部良と共に近くに住んでいたというわけで、坂はむかし無論土の道だっただろう。その坂を往来する彼らの通り過ぎる音など、聴こえるかのように感じていたものだった。案内図上で家の位置が同じに思えたのが文芸評論家だったという片山達吉。住んでいた家は彼の住んだ家ではないかとも思えた。近くにはその母で歌人、翻訳家の片山広子。この方は「赤毛のアン」などの翻訳で知られる村岡花子と東洋英和の同窓で彼女に強い影響を与えた人と言われる。この道を行って臼田坂上の先には尾崎士郎、宇野千代、稲垣足穂の名前なども見える。

この道を手前側に百メートル余り行ったところに古書店があった。Googleのストリートビューで通りを辿ってみたが、30年も過ぎれば様子も当然ながらすっかり変わって、当時でも戦前からのものと思えた古びた平屋の店はそこにあるはずもなく、過去の時間の中に消えていた。狭い小さな店の奥は住まいで、その境のこちら側に50代位のむっつりとした主人が腰を据えて番をしていたものだけれども、時たまガタピシするようなガラス戸を開いて中に入った。古びた文庫本を3冊100円で売っていたりしていたような気もする。そのずうっと先に行くと池上通りで、道路向かいには大田区役所の建物があるということになるのだが、その通りを通して一番記憶にあるのは、また足を入れたのはその古書店だったかもしれない。そこで買った文庫本の一冊を、今も愛読していてバッグなどに入れていることが多い。電車の中で開いたりする。

新潮社の初版1966年の1969年四刷目のもの。それを1980年代の半ば過ぎ頃買ったものか。いかにも中古という感じになっていたが、現在ではページも茶がかって、抜けてヒラヒラと落ちてしまう部分さえある。それを戻して挟まないといけない。そんな古さ。それをしっかりとしたブックカバーに入れて読んでいる。多分それほどに紙が古び劣化した本を電車で読んでいるのは私位のものだろう。 西脇順三郎詩集。1894年生まれ。1982年に亡くなった、オックスフォードにも留学し長らく慶應で教えていた詩人。私の故郷新潟県の、それも近隣の小千谷出身ということにも余計に親近感を覚えるせせいかもしれない。特別なものを感じる。いつも持っていて、その時々拾い読み程度にしているだけなのであるが、印象に残る部分、言葉などはさまざまにあり、ここでちよつと言ってみたくなった「猫色」のことなどは、特にとりあげるほどのものでもないのだが、ただ何となく探ってみたくなるようなことでもある、と感じたが故というところ。1962年発行の詩集「えてるにたす」、ラテン語で永遠、ということになるだろうか、英語ならeternity。なにせ慶應の卒論を全文ラテン語で書いたような人だから・・・。

詩行350行余りの長詩の終わりの方に、「ひとりの男が/猫色の帽子をかぶって」と出てくる。猫色?  それはどういう色? 色んな毛をした猫がいるけれども、順三郎さんの頭にあったのはどの色?  ちょっと止まって思って見たくなる部分。それだけのことです。回り道のここが終点。

 

              

 



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