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資料室B3F

https://yaplog.jp/akasyuri/
の移籍版。

あやまりかた

2015-04-19 15:00:06 | 小ネタ
張本氏 引退勧告したカズに「あっぱれ!」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=3378578

素直に謝れない人ってのは確かにどこぞにも限らずいるもんですが、まあ、あんまりいいもんじゃないな、くらいには自覚していただきたいものです。まあ、素直じゃないけど、『態度が悪くてごめんね』くらいに解釈するとして、ですよ。

「態度が悪い」というのは、すでになされてしまった行為について下される評言です。
「ごめん」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に主体が発していることばであるわけです。

この短い文のうちには二種類の時間が含まれていて、

「態度が悪かった」のは?それはもちろん主体。

でも、それは「カズをバカにした時点での主体」なわけです。「すみません」と言っているのも主体なわけで、これは「現在の主体」なわけです。

つまり、「過去の主体」と「今の主体」は、同一の主体でありながら、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言するわけです。どうでもいい?

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「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、『私は誰でしょう』と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005年、P39)

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よくドラマとかアニメとかを見ていると、主体がさっぱり(精神的に)変わらないように書かれているんですが、まあ、変わりたくはないというのも困ったもんだくらいに思っていただきたいものです。コロコロ変わるのもあれだけど。そう言う主体の世界には、「未知のもの」が存在しないわけで、すべては「想定内」の出来事に収まってしまうわけです。

炎上狙いだとヤフーのオーサーコメントで読んだことがありますが、元はそう言うことなのでしょう。

ふじい りょうYahoo!ニュース オーサー|4/12(2015/04/12 13:45)
http://person.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/comments/

『毎回発言で物議をかもす張本氏に、個人的には「辛口」と「難癖」を混同しているような印象をもっていますが、番組サイドとしてはネットでの反応を巻き起こるということで話題を提供する「役割」を果たしている、と捉えることができます。なので、これからも張本氏の舌禍は起きるでしょうし、番組自体の存在も揺るがない。』

彼らにとっては、未来は予め把持され、過去は完全に理解されているわけで、彼らには決して「前代未聞のこと」は何も起こらないわけです。想定内というストックフレーズを、好んで口にした人物の運命は言う必要もないことでしょう。

過去にエマニュエル・レヴィナスは「未知なるもの」を構造的に排除する知性の在り方を「光の孤独」と名づけたことがあります。

「光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。」(Emmanuel Levinas, De l'existence à l'existant, Vrin, c1978, p.76)

「光の孤独」にいる人間にとっては、未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しないわけですが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではないわけです。

でも、実際ヒキオタニートのように、ひとりでいても、まるでオッケーなやつは腐るほどいるわけで、現に「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけですね。

「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者のいない世界」が繁昌するわけです。

「他者抜き生活」を過ごしていても、特段の不自由を感じられているようには見えないということは、我々がそれなしでは済まされない「本質的他者」及び「絶対的他者」というのは、通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味するわけです。

「絶対的他者」とは何か?「主体そのもの」です(養老孟司の引用に戻る)。

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「私は私である」、その自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではありません。

「自分が何を考えているんだかさっさり」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「雑さ」なわけです。

「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということを受容した上で、そのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことを日頃からやっているわけです。

「単体の私」というものは存在せず、そのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれる、そういうかたちでしか私というのは成立しません。

自己同一性を基礎づけるのは、「私は自分が誰だかよくわからない(これからも、きっとよくわからないままなんだろう)」にもかかわらず、「私として引き受けることができる」という原事実なわけで、未知の最中に「私は誰か?」という自問を発する主体がいるわけです。

その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、「私は誰でしょう?」と問いながらも、「○○さん、掃除してください」と言われたら「へい、ただいま」と答えて、「張本さん、口が過ぎますぜ」と言われたら「へい、すいやせん」と頭を下げる能力が必要なわけですよ。

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人間が内なる人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」であり、レヴィナスに云う「倫理」はそれです。しかし、それはキングカズが「いや、おれが実は張本さんに言わせたんです」なんてウソをこけなんてことじゃあ、ありません。

自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことで人生は埋め尽くされておりますが、それらに対して涼しく「へへえ、すいやせん」と宣言することが、過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることになるわけです。


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ま、なんにせよ、「光の孤独」のうちに幽閉されている主体はそのような意味での他者を持たないわけで、きっとこれからも張本さんは「すみません」ということばを決して口にしないことでしょう。あんまり年を取りすぎるとろくなことがないのはこういうのを見ていると確かなことなんですが。




なすりつけあい

2015-04-04 22:55:32 | 小ネタ
■「非行集団と共存、生きるため」 元非行少年は語る
(朝日新聞デジタル - 04月04日 11:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3355008

ま、共存というよりは、なすりつけあい、ってやつに見えるが。昔からこの手の言い訳はあった。

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

ところで、丸山の云う「ずるずる」とは何か?その政治的行為を主宰する主体がいない、ということだ。 ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。

キーナン検察官の最終論告に曰く。

「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

これと同じことだろう。

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懐かしい話だが、1999年7月、朝日新聞では、ユーゴスラビア内戦の件で大江健三郎とスーザン・ソンダクが往復書簡を続けていたことがある。ソンダクはこんな話をしていた。

「かつてユーゴスラビアだった地を、スロボダン・ミロシェビッチが破壊し続けるのを食い止めるには、軍事介入しかないと考えたからです。ミロシェビッチが1991年に戦争を始めたそのとき、もし軍事介入が行われていたら、多くの、実に数多くの生命が失われずにすんだことでしょう。あの地域全体の物理的、経済的、文化的な破壊も阻止できたでしょう。(・・・)かりにNATOが戦争を否定していたとしたら、それはコソボの人々にとて、どういう事態を意味していたでしょう-助けは来ない、ということです」

戦争であれ、ジェノサイドであれ、それこそ「いじめ」であれ、留意しておかねばならないのは、「だれが」それを起こしたのだ、というような問いは無効であるということだ。「私がそれを起こした」と確信している人間などそこには一人もいない。

全員が「自分こそ最初の、最大の被害者である」と思いこむ人々のあいだではじめて破滅的な暴力は発生する。暴力の培地は悪意ではなく、おのれは無垢であるという信憑だ。
それらはエドゥアール・ドリュモンを筆頭とする反ユダヤなどを見ればよくわかる。非ユダヤ人のユダヤ人に対する恐怖と被害者意識の底なしの深さに。

「だれが」がそれを始めた。「だれか」がそれを終わらせるべきだ。問題は「だれか」を特定することだ、というソンタグのロジックには「私がそれを始めたのではないか?」「私がごく当たり前のようにここにいるということがすでに誰かの主体性を侵害しているのではないか?」という問いが抜け落ちている。

一方に「それを起こしている」邪悪な「主体」がおり、他方にそれを「阻止する」ために駆けつける無垢で知的な「騎兵隊的」主体がいる。すべては「主体」の意思と決断の次元で語られる。 ・・・が、「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味しない。

それなのだろう。

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この手の人間を一般に性格付けると、「自分と同一である他人」の数が多ければ多いほど「いい気持ち」が高まるものだ。だから、まわりの人々をできるだけ自分に似せようとするし、そのための努力に限っては惜しまない。

無論、自分と似ている人間が増えれば増えるほどに、個人としての唯一無二性は脅かされるわけで、「みんなが単独性を放棄して、大衆に溶け込み、お互いにそっくりになればなるほど、みんなが『自分だけは特別だ』という不可能な事実を自己責任において挙証しなければならなくなる」という構造になっている。

「他人と同じようにふるまう」ことでしか快感を得ることができない人間であり、その行為によって快感はつねに、構造的に損なわれることになる。

この特徴のある人間は、軽々に「みんな」ということばを使います。 知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうる。
「みんな」という言葉の使い方が「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほどに、己の「正義」と己の判断に係る適法性を、より強く確信することができる。ああいう人間の方が、そうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることが出来る。

「大衆とは、みずからを、特別な理由によって-よいとも悪いとも-評価しようとせず、自分が〈みんなと同じ〉だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」(オルテガ・イ・ガセー『大衆の反逆』)

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2001年6月22日の朝日新聞で、印象的なものがあった。

アメリカではセクハラや雇用差別についての訴訟が相次ぎ、次々と企業が敗訴しているというもの。アメリカでは「採用や昇進の際、仕事上の本人の能力以外を判断材料にすることは許されない。人種、性別、宗教のほか、結婚や居住地、逮捕歴などが能力以外のものにあたる。採用面接で『結婚しているんですか』なんて訊ねたら即座に訴えられてしまう。」

そんなに「すばらしい」こととは10年を経ても思っていません。「逮捕歴」(脛に傷のある人間)があるけれど仕事はばりばりできる人間と、それほど有能ではないけれど温厚篤実な人間とどちらといっしょに仕事をしたいか、と聞かれたら、私は後者を選ぶ。

法治社会において「逮捕歴がある」ということを、私はある種の社会的能力の欠如と考えるからですね。「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということを知らないで違法行為を行って逮捕されてしまった人間は「バカ」であり、「バカ」であり、かつ「仕事ができる」人間の在ることを私は信じない。

「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということが分かっていてなおそれをする人間は、「ルールを軽視するタイプの人間」であり、そのような人間がトップに立って「ばりばり仕事をした」場合、当該企業は、産業廃棄物の不法投棄とか品質管理の手抜きとかいう「不法行為」のチャンスに際して、そうでない場合よりも「ルールを軽視する」可能性が高い。そして、そのような不法行為は結果的には大きな社会的制裁を企業にもたらすので、「ルールを軽視するタイプの人間」は長期的に見れば「企業に有害な人間」、つまり「仕事のできない人間」である確率が高い。

私は企業は採用や昇進において「総合的な人間的能力」を基準にするのは当たり前だと思うし、私生活でどのような生活形態を営んでいるかということを、その人の能力をはかる基準にすることは適切であり、「訴えられる」ようなことではないだろう。

社会通念上において、「ま、このあたりまではまともなやつと言っていい」というあいまいな基準は存在する。そして、「あきらかにまともでないやつ」にはできれば「敬して近づかない」方がよい、というのは「大人の常識」だ。その上で、「大人の常識」をわきまえている、ということはどのような社会活動をする上でも、とりわけ企業が継続的にクライアントからの信頼性と「ご愛顧」を確保し続けるためには、不可欠の重要な条件であろう。

人事担当であれば、「悪魔信仰」の人は採用しない。猫を殺すのが趣味というひとも採用しない。結婚が今度で十回目という方も採用しない。新宿歌舞伎町コマ劇場ウラ近辺在住も採用しない。そういうバックグラウンドについて、一言も質問できない、というのは不自由なわけだ。

人事担当者にむかって、自分のパーソナル・ヒストリーを問われるままに語って、「この人は大人の常識のわかった人だ」と信じ込ませることが「できる」かどうかということはすでにその人の社会的能力の重要な一部である。それができる人間は「仕事ができる」可能性が高かろう。対照的に、自分について何も語らず、「大人の常識」があるのかどうか怪しいという人間は、その時点ですでにある種の社会的能力の欠如をさらけだしている。その程度の能力を欠いている人間は「仕事ができない」可能性が高い。

むろん、「仕事上の能力」というのは、その人の総合的なものの考え方とか、社会的成熟度とかとまったく無関係に定量できるとする思想こそが「アメリカの常識」であったし、今もそうなのだろう。アメリカでは人事担当者がうっかり「結婚してます?」とか訊いた瞬間にただちに弁護士に電話をするようなタイプの人間こそが「大人の常識」を備えた人間であり、人事担当者の片言隻句言葉尻をとがめて、企業を訴えてまんまと総資産の数パーセントをもぎとるような「仕事のばりばりできる人間」こそ、全企業がわれさきに採用しようとするタイプの人間が多い。

蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘るものである。

川崎市で男子中学生(13)が殺害された事件で、殺人の非行内容で家裁送致された18歳の少年は「誰かに止めて欲しいと思った」と供述していたという。少年時代、非行に走ったことのある人たちも当時、心の中で助けを求めていた。



 「強がっていても本当はもっと気にかけてもらいたかった。(ドラマの)『GTO』のように家庭にもがつがつ踏み込んで、マンツーマンで向き合ってくれる先生がいれば、と憧れた」


 かつて川崎市で非行グループを率いた男性(30)は、そう話す。


 年上のメンバーの命令通り、万引きや恐喝で手に入れた金を納め、薬物にも手を染めた。逮捕や少年鑑別所の入所経験もある。命令に逆らって暴力を受けないように「共存」の道を選んだ、と男性は言う。「不良をやりたかったわけじゃない。いじめられず生きるには(非行集団の中で)『共存』するしかなかった」


 進学や就職する友人を見て焦りや、うらやましさを覚えた。18歳で暴力団に誘われ、川崎市から逃げた。不良仲間とも連絡を絶った。犯罪と無関係になるには7年ほどかかった。


 中学1年から飲酒をしていても、周りの教師も大人も、止めてくれなかった。会社員となり、子どももできた今、川崎の事件について、「悪循環が何十年も続いてしまっている。教育委員会は、もっと子ども個人を見た方がいいのでは」と感じている。



エイプリルフールと威力業務妨害の話

2015-04-02 22:19:48 | 小ネタ
4月1日に「秋葉原でサリン撒きます」とツイートし炎上 「エイプリルフールとは言え、度が過ぎました」と謝罪
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=85&from=diary&id=3351938

2013年9月10日に、ツイッターで「サリンまく」と書いて高1男子が威力業務妨害で書類送検されたことがあります。(読売新聞2013.09.10)エイプリルフールは関係ありません。ウソが法的に許容されるには、社会通念の範囲内であることが必要です。常識的に考えて『それはダメでしょ』というようなウソをついてはいけません。

「インターネットの簡易投稿サイト「ツイッター」上に、JR博多駅(福岡市)でサリンをまくと投稿したとして、福岡県警博多署は10日、同県糸島市の高校1年男子生徒(16)を威力業務妨害容疑で福岡地検に書類送検した。発表によると、生徒は3月25日午前5時頃、自宅で携帯電話を使ってツイッターに、「明日の午前10時に博多駅でサリンをまきます」と投稿し、JR九州やJR西日本の職員らに不審物の捜索などをさせ、業務を妨害した疑い。「いたずら目的だった。こんな騒ぎになるとは思わなかった」と話しているという。」

『今回、僕のサリン撒きますツイートで、不快に思われた方、秋葉原に実際にいかれようとした方、秋葉原に実際に居た方など、複数の人に不快感や、多少なりとも恐怖感を与えてしまったことを深くお詫び申し上げます。エイプリルフールとは言え、度が過ぎました。 本当に迷惑かけてすいませんでした。
と謝罪、前述のツイートは削除した模様である。 』

おんなじですね。秋葉原の駅でもなんでも構いませんが、とりあえずどこかが被害届を出せば終わります・・・が、業務妨害罪は親告罪ではないということについては留意されたいものです。

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『その後、謝罪と称して挑発的な『ツイキャス』を行ったり、上記ツイートのURLを示して?
(・・・)もっと言うと日付を指定してないので予告てしては効力を失ってます』

日付を指定しなければ予告とならないか、それについて考えてみましょう。・・・というよりは、『日付を指定しなければ予告とならない』という命題に対し、何か1つでも反証すれば良いだけなのですが。

http://www.bengo4.com/hanzai/19/1194/b_121016/

『犯罪予告は、条件が4つ揃わないと逮捕されないと思っていましたが。最近の例では「対象」と「手段」だけの犯行予告や「願望」を表したものでも逮捕されてます。

2005.07.12 東京都 無職“グール”(20)
http://tana.pekori.to/txt/A09.html
(こちらのケースでは正式な場所や対象者は明確にされていませんし、日時も不明です)』

反証されました。よって命題として成立しません。ユンボルのケースには笑いましたが。

http://q.hatena.ne.jp/touch/1213641957
『一方で「重機人間ユンボルになってAmazonに潜入し、ダンボールを次々に破壊した上で人を殺す」と発言した場合、重機人間ユンボルになるという点で敷居がぐっと高くなり、発言者はただのジャンプの読み過ぎと判断され、問題視されないという結果になるでしょう。』

余談ですが、「ある」と「ない」では命題としても話がまったく違ってきます。例えば筑波山にアゲハチョウがいる、という命題ならば、アゲハチョウを1匹取ってくればいいわけですね。しかし「アゲハチョウは筑波山にいない」となればどうなるか?一人の人間の目が届く範囲を単位に、網の目のように筑波山全山に調査員を配備、ある一瞬を捉えて観察しなくてはなりません。飛んでるだけでは無く、葉の裏などで休んでいるかもしれないし、成虫ばかりじゃなく卵や毛虫、蛹の姿でいるかもしれないわけで、アゲハチョウの卵が存在しない、アゲハチョウの好物が存在しない等迄を全て調査する必要があります。命題としての調査労力がまるで違うわけです。

「どういうことかというと、「どこどこに○○がいない」という言明は、「○○がいる」という言明とは、科学の上で等しくはない、等価ではないということです。(・・・)ところが、経験科学の中では、それは全く等価ではありません。「いる」というのは、一匹でもいたら「いた」ことになるけれど、「いない」というのは、未来永劫にわたって言明しなければならない。それは経験科学の言明にならないのです。」(養老孟司、甲野善紀『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所、2002))
https://books.google.co.jp/books?id=bz-MBAAAQBAJ&pg=PT48&lpg=PT48&dq=%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%B1%B1%E3%80%80%E3%82%A2%E3%82%B2%E3%83%8F%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6&source=bl&ots=ZUndgTB2hr&sig=6CbmTR4v2eqxqgT4X7DNnhrkHsk&hl=ja&sa=X&ei=88AdVenKCuLamgWqvoGIDw&ved=0CC4Q6AEwBQ

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「・・・は繰り返すが、・・・は本質を変えずに再び繰り返される」(Jhon Maynard Keynes)

「Hegel bemerkte irgendwo, da? alle gro?en weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzuf?gen: das eine Mal als Trag?die, das andere Mal als Farce.(ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲル は、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と)」(Karl Heinrich Marx、市橋秀泰訳『Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)』(新日本出版社、2014.01))

「(・・・)welche einer mittelm??igen und grotesken Personage das Spiel der Heldenrolle erm?glichen.((・・・)そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。)」(Ibid.)

ケインズにせよマルクスにせよ、共通するのは歴史です。資本論より、ジャーナリズムの観点でマルクスはキレがあります。

「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。
自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。
またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである(・・・)」(Ibid.)

なぜ出来事は「回帰」するのか?その理由を誰もうまくは説明してくれないことでしょう。人間は「自分で思っているほどには創造的ではない」のです(※)。

※:例えば、モーリス・ブランショなど。「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」(Maurice Blanchot, ‘La litt?rat ure et le droit ? la mort’ in La Part du Feu,Gallimard, c1949, P296)

しかし、忘れてはならないのは、ある種の「幻想」(本件でいえば、極端なリーガルリスク(リーガルリスクを問う迄もない話ではありますが)が顕在化することなくうまくツイート出来る、等)は回帰する力をもっていることでしょう。自分はへまをこかない。そう言って未来で地べたを這いつくばって石ころのように扱われた人間が何人いたことか?ニュースをみていないからこんなことを、と言うよりは、叙上のマルクスが述べる様に、「自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもと」で作られたのがコレ、なのです。そういうろくでもない環境しか自分で選択する技能を有しない。自己責任です。

「人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとする」・・・たかがマルクスと侮るなかれ、本質はこのセリフで看破されるのです。



平野騒動への雑感

2015-03-29 20:51:16 | 小ネタ
漫画家・平野耕太さん、まとめサイトに私的ツイート引用され激怒 その後Twitterアカウントも削除する事態に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=3344447

作者が炎上芸を常々エンジョイしてきたことをやや差し引きして考える必要はありそうだが・・・。歩いてきた道を振り返ると、何らかの屍が転がっていることは往々にしてある。

その屍が何なのか?その屍を見ることで位置付けられることもまた、往々にしてある。

「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。
作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。
作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」
(Maurice Blanchot, La litterature et le droit a la mort, in La Part du Feu, Gallimard, c1949)

「ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読する>という意図は、まったく無用になる。
あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。
このような考え方は、批評にとって実に好都合である。
そこで、批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。
「作者」が見出されれば、テクストは<説明>され、批評家は勝ったことになるのだ。
したがって、「作者」の支配する時代が、歴史的に、「批評」の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、「作者」とともにゆさぶられていても少しも驚くにあたらない。」
(Roland Gerard Barthes, Sollers ecrivain, Editions du Seuil, Paris, c1979)

まあ、とりあえず常識的には、その自由な(意図的に無視された前段後段等の文脈等)解釈をどう位置付けるかは読む人次第で、あとは読む人がしょーもない解釈だったよね、とか言っていればいいだけの話ではあります。

「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。
それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。
(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。
形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。
それは、世界の境界なのです。」
(Ludwig Wittgenstein, Logisch-Philosophische, Kegan Paul, c1922)

個人的には、拘置所の書簡引用にしても別に構わないのではないかとすら思っている(・・・が、ルールはルールなので。たとえばケインズの書簡を引用した人間はそれこそかなりいるので。一応それは公表されたものなのだが)が、まあなんにせよ、書いたものをそう大層大事にしておくと後で手が付けられなくなるものです。自分で言葉が統御出来ると考えている人間に限っては。私たちが言葉を統御しているのか、言葉が私たちを統御しているのか?法律を一旦抜きにして話をしていれば、そうなることであろうと思います。

「『文は人である。』私たちはこの俚諺に同意する。
こう付け加えるという条件ならば。
『文は(宛先の)人である。』
(・・・)言語運用において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たちに到来する。
但し、順逆の狂った仕方で。」
(Jacques Lacan, Ecrits I, Seuil, c1966)

言語というものは、しばしば作者自身よりもはるかに豊かであり、奥行きがあるものです。それはテクストが作者自身の豊かさや奥行きを文字に「翻訳」してできあがるものではない為であるのですが。
それ故に、原理的に考えていれば、「そんなつもりで言ったんです」という説明も、「そんなつもりで言ったんではありません」という言い訳もあまり意味がないことになりましょう。何故ならば、「どういうつもりで言ったのか」を決定できる人間は、無論発言者本人を含めて、どこにも存在しないからです。

・・・・・・・・・

後に書いておくべきことは、ツイッターの著作権的概念がカリフォルニア州法に準拠すること、そしてフェアユース条項に於ける散文の引用は1,000語迄であり、まして著作権法上、引用は許諾が不要であり、無断引用を咎める正当性はない、ということになるでしょう。そもそも無断引用という言葉自体が変なんですけどね。




アメリカでの子供の責任

2015-03-23 19:27:14 | 小ネタ
難聴の6歳児、補聴器を奪われ池に捨てられる。母がイジメ被害を告白。(米)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=103&from=diary&id=3333726

アイダホで運がある意味よかった。それはアメリカでは、州制定法に基づき特定場面で親に無過失代位責任を負わせる動きもなくはない上に、その代表例がアイダホだからです。

何が言いたいかというと、日本の民法714条とアメリカのコモンローとでは厄介なほどに話が違うわけです。日本ならそれで少額訴訟の限度額で引っ張って、少額訴訟債権執行を申し立てればそれでいいのだが、アメリカは性格がややめんどくさい。

コモン・ローでは伝統的に個人主義が重視され、過失責任原則を不法行為法の基本原則として位置付け、「子どもの不法行為責任につき親自身が何らかの関与をしていない限り、親がその責任を負うことはない」としてきているわけです。

その一方で、被害者救済のために、子どもの不法行為につき親に責任を負わせるための例外法理を、過失責任原則との一貫性を意識した形でいくつか形成してきたわけです。近年では、親に責任を負わせることで、親の子どもに対する監督・統制を高め、子どもによる不法行為を抑止すべきという目的から、州制定法に基づき特定場面で親に無過失代位責任を負わせる動きも見られるわけです。

コモン・ローにおいては、子ども(未成年者)が他人に不法行為をした場合、単に親子関係があるというだけで、その責任を親に負わせることはできないものと解されてきました(注)。

注:例えば、Prosser and Keeton on the Law of toRts §123, at 913(5th ed. 1984);Burchard V. Martin, Comment, Parent & Child-Civil Responsibility of Parents for the Torts of Children-Statutory Imposition of Strict Liability, 3 vILL. L. Rev. 529, 530(1958);Andrew C. Gratz, Comment : Increasing the Price of Parenthood : When Should Parents be held Civilly Liable for the Torts of Their Children?, 39 hous. L. Rev. 169, 175(2002)を参照のこと。

例えばテキサス州における1873年のChandler v. Deaton判決が挙げられます(Chandler v. Deaton, 37 Tex. 406 (1873))。これは、Yの子Aら(未成年者)がXの飼うラバを銃撃したとして、XがYに損害賠償を請求したものです。日本であれば親のYに賠償がいくわけですが・・・テキサス州最高裁は、原則として、

「未成年者の親ではなく、不法行為をした未成年者らが自らその責任を負う」

ことを明らかにしました。その一方で、親の責任としては、

「本人または共犯者として未成年者の不法行為に何らかの関与をしていない限りは、単なる親子関係の存在をもって直ちに親が未成年者の不法行為責任を負うと推定する根拠はないとして、その不法行為につき親自身に過失がない限りは、その責任を負うことはない」

との原則を明らかにしました。

よって、コモン・ローにおいては、過失責任原則によって親の行動の自由が保障されているため、原則としてその責任は不法行為をした子どもが自ら負うことになります(注)。

注:ほかにはLemeke v. Ady, 159 N. W. 1011(1916);Mopsikov v. Cook, 122 Va. 579 (1918);Arkin v. Page, 287 Ill. 420(1919);Haunert v. Speir, 214 Ky. 46(1926);Ringhaven v. Schluetter, 23 Oh. App. 355(1927);Murphy v. Loeffler, 327 Mo. 1244(1931);Hulsey v. Hightower, 44 Ga. App. 455(1932);Miller v. Kraft, 57 N.D. 559(1929);White v. Seitz, 174 N.E. 371, 372(1930)等を参照。

しかし、過失責任原則に従って、子どもに自らの不法行為責任を負わせるとしても、ふつうガキがそんなカネは持ち合わせちゃおらんだろ、というわけで、コモン・ローは、過失責任原則との整合性を意識しつつ、子どもの不法行為につき親に何らかの形で民事責任を負わせるための例外法理を形成し、展開させていったわけです。

この手の監督責任では、「悪性癖の認識に基づく親の監督責任」というものがあります。子どもの不法行為につき、親の監督義務違反があったことをもとに、親の責任を追及するもうひとつの例外として「悪性癖の認識」法理が挙げられます。
この法理は、子どもの「悪性癖」が他人への侵害につながることを親が認識している場合、その結果を回避するための措置を親に講ずることを要求し、それを怠ったことによって実際に損害が発生したならば、親の監督上の過失をもとにして責任を問うというものです。この法理においても、親が子どもの監督義務を怠ったという点から見れば、親自身の過失に基づく自己責任を負うという形になっているのですが、もともと直接の加害行為をしたのは子どもであり、親がそれによる監督義務違反という間接的責任を負うという点からすると、これも過失責任原則の例外ということになります。

アメリカ法では、親であるからといって子どもを完全に監督できるわけではないという前提があるためか(注)、ここで言う監督義務には、日本民法714条のように、子どもの生活全般に関する包括的一般的な監護教育上の義務は含まれておらず、単に当該具体的状況の下において子どもの危険行為を阻止するための監督義務に限定されていることには留意する必要があります。

注:樋口範雄「子どもの不法行為――法的責任の意義に関する日米比較の試み――」『英米法論集(田中英夫先生還暦記念)』(東京大学出版会、1987年)P428。

この点に関しては、1934年に公表された「第1次不法行為法リステイトメント」第316条において、次のように明記されました。

第316条:子どもの行為を監督するための親の義務

「もし親が(a)自分の子どもを監督する能力(ability)があることを認識している又は認識すべき理由がある、もしくは(b)子どもを監督する必要性及び機会を認識している又は認識すべきであるのなら、親は、子どもが他人に意図的に損害を与える行為、または他人に身体的損害という不合理なリスクを生み出す行為を予防するために、自分の未成年者を監督するための合理的注意を払う義務がある。」

このように第316条において、親の監督義務の対象を当該具体的状況下での危険回避義務に限定することが明記されています。

実際に、多くの裁判所では上記リステイトメント第316条で示されている親の監督能力・必要性・機会といった要件の有無を現実的物理的観点から狭く解釈することにより、親に監督責任を課すことを抑制しているようですが、その一方で、「親が子どもの不法行為に対する予防措置を講じない限り」に於いては、基本的には親の監督責任を認定するという、いわば被害者救済を重視する少数の裁判所もなくはないのです。

例えばアイダホ連邦地裁におけるRyley v. Lafferty事件(Yは子A(16歳)が自分より幼い子に暴力をふるう癖があることを十分に知っていたにもかかわらず、事件当日にAに暴力をふるいに行かせた結果、Aより幼いXの子がケガを負わされたため、Xが予防措置を講じなかったYに損害賠償を請求したというもの)。本件州最高裁は、この場合に親が責任を負う理由を次のように説明しました。

「親の同意及び承認なしに、未成年者らによってなされた不法行為については親に責任がないというのは確かであるけれども、本件で主張された事実に適用できる原理は、親がもし自分の子どもが常習的に特定の種類の不法行為の罪を犯すことを知っており、そして主張されたように子どもを助長し、子どもを是正しまた止めさせる努力をしなかったということが明らかであるのなら、親は責任を負う、というものである。
申立てられた事情からすると、子どもの不法行為は親の認識及び暗示的黙認をもってなされたのであり、そしてそのような認識や同意は明示的にまたは暗示的になされるかもしれないが、訴えられた不法行為について親に現実的な認識〔があるかどうかということ〕に関する証明なしに、親に責任が課される。親が子どもの習慣、特質、悪質な気質を十分に知っており、そして非難された方法でそのような行為を子どもが継続することを奨励することは、訴えられた不法行為において親側の同意及び関与を構成するだろうし、もしそうなら親側の過失としてみなされるだろう。」

このように、原則としては、子どもの不法行為につき親が同意や承認などの何らかの関与をしていなければ、親子であっても、親は責任を負わないとし、この点では過失責任原則が維持されています。

しかしながら、親が子どもに悪性癖があることを認識している場合は別の扱いをすると言います。

すなわち、この場合に子どもの不法行為を阻止するための合理的措置を積極的に講じなかったならば、親がそれに直接の関与をしていなくても、それに同意・関与があったものとみなして、親は責任を負うとしたのです。

また、親が子どもの当該不法行為を現実的に認識しているとの証明がなくても、親の過失を広く認めるとしている。こうした考えのもと、本件ではAが幼い子に類似の暴力行為をしていたこと、およびYがそれを認識しつつもその類似行為を抑制するための措置を講じなかったという点から、Yの責任を認めたわけです。

ニューヨーク州のLunder v. Bidner事件(A(18歳)の暴力により怪我を負ったBの親XがAの親Yに対して損害賠償を請求したというもの)では、本件の親Yは子Aに自分より年下の子に対して暴力を振るう性癖があることを認識しつつも、それを防止するための措置を講じなかったことから、Yの監督上の過失が問題となりました。

Xは、AがYの監督下にあること、以前からAには悪性癖があったこと、YがAの性癖を十分に認識していたにもかかわらず、Aの暴力行為に対する予防措置を講じることなく、それを認めていたということを主張しました。

これを受けて州最高裁は、YはAの悪性癖を認識しており、Aを監督する法的能力があったにもかかわらず、Aの過去の行為から他人に損害を与えると推定される行為を抑制することを完全に怠ったとして、Yの監督上の過失を認めました。

もっとも、子どもの暴力行為を抑止するための合理的措置を講じなかった場合に親には過失があるとしているものの、一般的に矯正できないほどの子どもである場合は別としていることからすると、この立場であっても親の監督責任の完全性を否定していることになります。

このように、被害者救済を重視する裁判所では、親が子どもの悪性癖に基づく不法行為を予見できる場合にそれを抑制するような措置を講じたという証明がない限り、基本的には親の監督上の過失があるものと見なしているわけです。

今回はアイダホですから、運がよかったですね。加害者の親をまずは探し出しましょう。