張本氏 引退勧告したカズに「あっぱれ!」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=3378578
素直に謝れない人ってのは確かにどこぞにも限らずいるもんですが、まあ、あんまりいいもんじゃないな、くらいには自覚していただきたいものです。まあ、素直じゃないけど、『態度が悪くてごめんね』くらいに解釈するとして、ですよ。
「態度が悪い」というのは、すでになされてしまった行為について下される評言です。
「ごめん」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に主体が発していることばであるわけです。
この短い文のうちには二種類の時間が含まれていて、
「態度が悪かった」のは?それはもちろん主体。
でも、それは「カズをバカにした時点での主体」なわけです。「すみません」と言っているのも主体なわけで、これは「現在の主体」なわけです。
つまり、「過去の主体」と「今の主体」は、同一の主体でありながら、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言するわけです。どうでもいい?
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「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、『私は誰でしょう』と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005年、P39)
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よくドラマとかアニメとかを見ていると、主体がさっぱり(精神的に)変わらないように書かれているんですが、まあ、変わりたくはないというのも困ったもんだくらいに思っていただきたいものです。コロコロ変わるのもあれだけど。そう言う主体の世界には、「未知のもの」が存在しないわけで、すべては「想定内」の出来事に収まってしまうわけです。
炎上狙いだとヤフーのオーサーコメントで読んだことがありますが、元はそう言うことなのでしょう。
ふじい りょうYahoo!ニュース オーサー|4/12(2015/04/12 13:45)
http://person.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/comments/
『毎回発言で物議をかもす張本氏に、個人的には「辛口」と「難癖」を混同しているような印象をもっていますが、番組サイドとしてはネットでの反応を巻き起こるということで話題を提供する「役割」を果たしている、と捉えることができます。なので、これからも張本氏の舌禍は起きるでしょうし、番組自体の存在も揺るがない。』
彼らにとっては、未来は予め把持され、過去は完全に理解されているわけで、彼らには決して「前代未聞のこと」は何も起こらないわけです。想定内というストックフレーズを、好んで口にした人物の運命は言う必要もないことでしょう。
過去にエマニュエル・レヴィナスは「未知なるもの」を構造的に排除する知性の在り方を「光の孤独」と名づけたことがあります。
「光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。」(Emmanuel Levinas, De l'existence à l'existant, Vrin, c1978, p.76)
「光の孤独」にいる人間にとっては、未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しないわけですが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではないわけです。
でも、実際ヒキオタニートのように、ひとりでいても、まるでオッケーなやつは腐るほどいるわけで、現に「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけですね。
「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者のいない世界」が繁昌するわけです。
「他者抜き生活」を過ごしていても、特段の不自由を感じられているようには見えないということは、我々がそれなしでは済まされない「本質的他者」及び「絶対的他者」というのは、通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味するわけです。
「絶対的他者」とは何か?「主体そのもの」です(養老孟司の引用に戻る)。
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「私は私である」、その自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではありません。
「自分が何を考えているんだかさっさり」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「雑さ」なわけです。
「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということを受容した上で、そのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことを日頃からやっているわけです。
「単体の私」というものは存在せず、そのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれる、そういうかたちでしか私というのは成立しません。
自己同一性を基礎づけるのは、「私は自分が誰だかよくわからない(これからも、きっとよくわからないままなんだろう)」にもかかわらず、「私として引き受けることができる」という原事実なわけで、未知の最中に「私は誰か?」という自問を発する主体がいるわけです。
その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、「私は誰でしょう?」と問いながらも、「○○さん、掃除してください」と言われたら「へい、ただいま」と答えて、「張本さん、口が過ぎますぜ」と言われたら「へい、すいやせん」と頭を下げる能力が必要なわけですよ。
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人間が内なる人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」であり、レヴィナスに云う「倫理」はそれです。しかし、それはキングカズが「いや、おれが実は張本さんに言わせたんです」なんてウソをこけなんてことじゃあ、ありません。
自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことで人生は埋め尽くされておりますが、それらに対して涼しく「へへえ、すいやせん」と宣言することが、過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることになるわけです。
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ま、なんにせよ、「光の孤独」のうちに幽閉されている主体はそのような意味での他者を持たないわけで、きっとこれからも張本さんは「すみません」ということばを決して口にしないことでしょう。あんまり年を取りすぎるとろくなことがないのはこういうのを見ていると確かなことなんですが。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=3378578
素直に謝れない人ってのは確かにどこぞにも限らずいるもんですが、まあ、あんまりいいもんじゃないな、くらいには自覚していただきたいものです。まあ、素直じゃないけど、『態度が悪くてごめんね』くらいに解釈するとして、ですよ。
「態度が悪い」というのは、すでになされてしまった行為について下される評言です。
「ごめん」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に主体が発していることばであるわけです。
この短い文のうちには二種類の時間が含まれていて、
「態度が悪かった」のは?それはもちろん主体。
でも、それは「カズをバカにした時点での主体」なわけです。「すみません」と言っているのも主体なわけで、これは「現在の主体」なわけです。
つまり、「過去の主体」と「今の主体」は、同一の主体でありながら、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言するわけです。どうでもいい?
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「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、『私は誰でしょう』と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005年、P39)
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よくドラマとかアニメとかを見ていると、主体がさっぱり(精神的に)変わらないように書かれているんですが、まあ、変わりたくはないというのも困ったもんだくらいに思っていただきたいものです。コロコロ変わるのもあれだけど。そう言う主体の世界には、「未知のもの」が存在しないわけで、すべては「想定内」の出来事に収まってしまうわけです。
炎上狙いだとヤフーのオーサーコメントで読んだことがありますが、元はそう言うことなのでしょう。
ふじい りょうYahoo!ニュース オーサー|4/12(2015/04/12 13:45)
http://person.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/comments/
『毎回発言で物議をかもす張本氏に、個人的には「辛口」と「難癖」を混同しているような印象をもっていますが、番組サイドとしてはネットでの反応を巻き起こるということで話題を提供する「役割」を果たしている、と捉えることができます。なので、これからも張本氏の舌禍は起きるでしょうし、番組自体の存在も揺るがない。』
彼らにとっては、未来は予め把持され、過去は完全に理解されているわけで、彼らには決して「前代未聞のこと」は何も起こらないわけです。想定内というストックフレーズを、好んで口にした人物の運命は言う必要もないことでしょう。
過去にエマニュエル・レヴィナスは「未知なるもの」を構造的に排除する知性の在り方を「光の孤独」と名づけたことがあります。
「光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。」(Emmanuel Levinas, De l'existence à l'existant, Vrin, c1978, p.76)
「光の孤独」にいる人間にとっては、未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しないわけですが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではないわけです。
でも、実際ヒキオタニートのように、ひとりでいても、まるでオッケーなやつは腐るほどいるわけで、現に「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけですね。
「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者のいない世界」が繁昌するわけです。
「他者抜き生活」を過ごしていても、特段の不自由を感じられているようには見えないということは、我々がそれなしでは済まされない「本質的他者」及び「絶対的他者」というのは、通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味するわけです。
「絶対的他者」とは何か?「主体そのもの」です(養老孟司の引用に戻る)。
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「私は私である」、その自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではありません。
「自分が何を考えているんだかさっさり」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「雑さ」なわけです。
「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということを受容した上で、そのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことを日頃からやっているわけです。
「単体の私」というものは存在せず、そのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれる、そういうかたちでしか私というのは成立しません。
自己同一性を基礎づけるのは、「私は自分が誰だかよくわからない(これからも、きっとよくわからないままなんだろう)」にもかかわらず、「私として引き受けることができる」という原事実なわけで、未知の最中に「私は誰か?」という自問を発する主体がいるわけです。
その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、「私は誰でしょう?」と問いながらも、「○○さん、掃除してください」と言われたら「へい、ただいま」と答えて、「張本さん、口が過ぎますぜ」と言われたら「へい、すいやせん」と頭を下げる能力が必要なわけですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間が内なる人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」であり、レヴィナスに云う「倫理」はそれです。しかし、それはキングカズが「いや、おれが実は張本さんに言わせたんです」なんてウソをこけなんてことじゃあ、ありません。
自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことで人生は埋め尽くされておりますが、それらに対して涼しく「へへえ、すいやせん」と宣言することが、過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることになるわけです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ま、なんにせよ、「光の孤独」のうちに幽閉されている主体はそのような意味での他者を持たないわけで、きっとこれからも張本さんは「すみません」ということばを決して口にしないことでしょう。あんまり年を取りすぎるとろくなことがないのはこういうのを見ていると確かなことなんですが。