■窃盗容疑で告発受理=STAP問題―兵庫県警
(時事通信社 - 05月15日 20:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3418660
受理するとはねぇ・・・ドローゲームが、なんて、この世にはドローなんてものがあってたまるかよ、ってことでしたね。STAPが見つかるのは、清水健太郎がシャブやめられる方がよほど早い。
というより、未だに『ないことが証明できたのか』とかいっている人はいることに、大丈夫なのかと思ってしまいます。ほんとうに『ないことが証明できる』のならば、今すぐ筑波山でアゲハチョウがほんとうにいないのか、探しにいってきてください。できもしないことを平気でやらかすのは自賠責保険だけでもうお腹いっぱいなんですよ。
「ある」と「ない」では命題としても話がまったく違ってきます。例えば筑波山にアゲハチョウがいる、という命題ならば、アゲハチョウを1匹取ってくればいいわけですね。しかし「アゲハチョウは筑波山にいない」となればどうなるか?一人の人間の目が届く範囲を単位に、網の目のように筑波山全山に調査員を配備、ある一瞬を捉えて観察しなくてはなりません。飛んでるだけでは無く、葉の裏などで休んでいるかもしれないし、成虫ばかりじゃなく卵や毛虫、蛹の姿でいるかもしれないわけで、アゲハチョウの卵が存在しない、アゲハチョウの好物が存在しない等迄を全て調査する必要があります。命題としての調査労力がまるで違うわけです。
「どういうことかというと、「どこどこに○○がいない」という言明は、「○○がいる」という言明とは、科学の上で等しくはない、等価ではないということです。(・・・)ところが、経験科学の中では、それは全く等価ではありません。「いる」というのは、一匹でもいたら「いた」ことになるけれど、「いない」というのは、未来永劫にわたって言明しなければならない。それは経験科学の言明にならないのです。」(養老孟司、甲野善紀『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所、2002))
https://books.google.co.jp/books?id=bz-MBAAAQBAJ&pg=PT48&lpg=PT48&dq=%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%B1%B1%E3%80%80%E3%82%A2%E3%82%B2%E3%83%8F%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6&source=bl&ots=ZUndgTB2hr&sig=6CbmTR4v2eqxqgT4X7DNnhrkHsk&hl=ja&sa=X&ei=88AdVenKCuLamgWqvoGIDw&ved=0CC4Q6AEwBQ
http://blogs.yahoo.co.jp/anon1_jp/27935870.html
筑波山にアゲハチョウはいない そのⅡ
2011/2/12(土) 午前 7:36
雪・・雪・・大雪・・平野部でも積雪・・・11日から12日にかけて太平洋側を低気圧が通過する関係で、日本列島は雪模様との情報で・・「あ~折角の3連休なのに・・」と思ってましたが、11日の午後2時近くまで降り続いていた雪は、峠を過ぎたようです。
車の屋根には3~4cmも積もったでしょうか・・湿気の多い大きなボタン雪でしたので、道路には積もることもなく、この付近では混乱はありませんでした。
あっ! いえ・・・あくまで推測です。全て調べた訳ではありませんから・・
あ~そういえば「お昼に英会話サークルの友人と、講師を囲んでランチするから雪が激しかったら、お店まで送ってほしい・・」と言っていたカミさんは朝から何やら電話で連絡と取りあっていましたが・・結局・・電車でだったら問題なく集まれる、名古屋の栄町のお店に場所を変えて出かけて行きました。
これを混乱と言えば混乱だし、お昼の予約をキャンセルされたお店だって混乱してるだろうし・・・
「筑波山にアゲハチョウはいない」と言う話は、こういう話しなんです。「筑波山にだってアゲハチョウは、いるだろうしさ~」と言ってるうちは何の問題もありませんが・・「筑波山にアゲハチョウはいない」と言うと、途端に問題になってしまう。一人の人間の目が届く範囲を単位に、網の目のように筑波山全山に調査員を
配備し、ある一瞬を捉えて観察する。飛んでるだけでは無く、葉の裏などで休んでいるかもしれないし、成虫ばかりじゃなく卵や毛虫、サナギの姿でいるかもしれない・・・これはもう証明をしようのない話なんです。
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続STAP話 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1936766019&owner_id=40049699&full=1
STAP論文「ほぼすべて否定」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3202480
会見とはあまり関係がない話ではあるが、ここ最近になって、またトンチキな話が増えた気がする。伊集院がトンチキな話をするのは今に始まった話ではない(http://www.j-cast.com/s/2014/12/24224110.html)が、フェースブックのトンチキな話に大量にイイネがついたり(http://www.j-cast.com/s/2014/12/22223955.html)、はたまた呆れた話ではあるが、科学ライターまでが(誰とは申し上げないが)乗っかったり、と、何だかな、と思わざるをえない状態であったわけです。
4月のインタビューの時から、ああ、日本は科学立国に向いてないんだな、って感じがしたわけです。確かに世界にも、いやアメリカにもいますよ、そういうひと。例えばFelix Salmonは2009年に、「リーマンショックでウォール街が滅ぼされかけたのはLiが1999(2000)年に発案した正規コピュラのせいだ」ってWIRED MAGAZINEに書いて、2010年のアメリカ統計学会の最優秀賞を取ったんです。でも、それってアルフレッド・ノーベルのダイナマイトと同じなんです。ダイナマイトは使い方を間違えて戦争に使われた。正規コピュラだって、仮想コピュラとしては非常に簡易だからいつしかでてきたはずのものだったんです。ただ、構造的に、下側の漸近独立とかいろいろ臑に傷を持ってたんですが。
刃物自体が傷をつける訳じゃないんです。使う側、コピュラならクオンツが傷をつけるんです・・・っていいか・・・。そこに冷静にならずにSalmonに乗っかったばっかりにあんなのがまさか受賞するとはね、と。あんなのって失礼ですけど。でもそうでしょ。しかしながら、Liも2013年に仕返しとばかりに日本経済新聞でこっそりインタビューに答えてて、ああ、元気でよかったみたいなね。
話を戻します。2014年4月、多くの一般人は、科学研究の真偽や正誤を、「会見に誠実さが見えた」「涙のなかに笑顔があった」だとかいう、およそ科学や論理からかけ離れた文系印象論、ワイドショー的感情論で決めようとしていました。まだ忘れてません。
日本ではあの会見が取り上げられたんですが、アメリカのウォールストリートジャーナルでは、笹井の自殺くらいしか扱ってないんです(紙面版(マイクロフィルム版やNexisLexisのアブストラクト版)で見返したら驚きました)。いかにどうでもいいということがよくわかります。笹井は重要だが小保方や理研は重要ではないと。
記者会見という舞台での演技がどれだけ素晴らしかったか、観客の心をどれだけ動かしたかといったスケールですべての真偽を決め、善悪を断罪しようとする日本の状況は、知性の否定でしかありません。なにかにつけて日本人は、「ものづくりの復権」とか「ものづくり立国」だとか口にしますよね。「ものづくり」に欠かせないのは、科学的な思考と基礎知識、論理的思考なんです。いい年こいた大人がですよ。そんなものがアタマに入ってない人間に、ものなんか作れるわけがないでしょ?
知性のないやつにかぎって、誠実だの情熱だの 、きれいごとの気持ちだけで森羅万象を説明しようとします。気持ちがこもってればいいのだ、みたいなごまかしをします。ばかげていますよね。ここまでいってもだめな人は一定数います。養老孟司の云う「バカの壁」はこういうものです。相手にするだけムダ、というものです。
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陰謀論に対しては先日けっこうこき下ろしたつもりですが、もう少し申し上げたいと思います。
みんな大好き陰謀論 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934158131&owner_id=40049699&full=1
陰謀論って、ちょっと解釈を曲げてやれば、マルキシストや歴史修正主義と変わらないんです。
たとえば、「今こそ亡国の危機だ」と警鐘を乱打し、ついで 「元凶は誰か?」という「犯人探し」によっ て社会的な「悪」を局在化し、その摘抉を解決策として処方するという手続きを「科学」であると信じている点です。
その点で、『ヘーゲル法哲学批判』におけるマルクスとよく似ているのです。
わかりやすい例を提示しましょう。
「共産主義の怪物がソ連のような形をなしている間は人々にとって目に見える敵になりますが、打倒されると目標は見えなくなる一方、その体液は世界全体に飛び散っていたるところに拡散し蠢動を続けるのです。」(西尾幹二、藤岡信勝『国民の油断 歴史教科書が危ない!』(PHP研究所、1996.10))
ここで、「伝染病菌」や「寄生虫」のメタファーで「社会の敵」を記述することを偏愛した歴史上の人物として、私たちがすぐ思いつくのはヨセフ・スターリンやアドルフ・ヒトラー、毛沢東くらいでしょうか。イデオロギー性とは「メタファー」の形をとって出現するものです。
話を戻します。先ほどのマルキシストの典型的な発想を一般化するならば、「現実はもっと悲惨で、救いがない」という現状認識があり、その現状は「自分は『被害者』であり、どこかに自分の苦しみから受益している『加害者』がいるはず」というかたちで説明されるものです。陰謀論と何の差がありますか?
『蟹工船』、が一時期流行った時、プロレタリアートという言葉が流行しましたが、プロレタリアートの定義とは、「社会の矛盾を一身に集成しており、そのせいで社会全体を解放することなしには自己解放しえぬもの」です。前提として、語られぬものの対極には、当然のように「自分以外のすべての社会集団を利用し収奪することで受益している理想的加害者」が想定されています。
しかし、世の中そううまくはできていないというのが常識に位置づけられているはずです。例えばバタフライ効果(北京で蝶が羽ばたきすると、それによって生じた空気圧の変化が太平洋を越えてカ リフォルニアにハリケーンを起こす)。もう少し身近な例で話すならば、Dadushの通貨危機研究で、資本流出は資本流入よりも早くなる(逃げ足は本能的に早くなる)というものでしょうか(※)。資本流入の際に弾力性が0.9(経済成長率が1%増加すると、資本流入は0.9%増加する)、資本流出の際に弾力性は1.9(経済成長率が1%増加すると、資本流出は1.9%増加する)となると指摘しています。
※:Uri Dadush et. al. “The Role of Short-term Debt in Recent Crisis”, Finance and Development, December 2000, pp.54-57. Available at
http://www.imf.org/external/pubs/ft/fandd/2000/12/dadush.htm
わずかな入力の変化が劇的な出力の変化を結果することがある・・・有名な「複雑系」というものですが、これと同じことです。受験生が勉強すれば勉強しただけアタマがよくなると一次関数で物事を考えているように(生産逓減を考慮していない)。
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1789年、何がありましたか?・・・フランス革命です。特権を剥奪された貴族や僧侶の一部は、イギリスに亡命します。
亡命先のロンドンのサロンに集まっては「どうしてあんなことが起きた?」という議論に日々を費やしました。
どうして「あんなこと」が起きたのか?それがわからない。
いつの間にかブルボン王朝が崩壊した。
叙上の受験生の様な、古典的な線形方程式な思考をする人間は 「出力としての事件」には「入力としての事件」が一対一的に対応しているに違いないというふうに推論します。
ブルボン王朝は巨大な権力システムですから、それを崩壊せしめるものは、当然にもそれ以上の巨大な権力システムでなければなりません。
しかし、そんなものはフランス国内のどこを見渡しても存在しなかったのです。
たしかに、ジャコバン派は革命後に一時的に権力を掌握したけれど、革命以前には王朝を転覆せしめるような実力も組織力も有していなかったし、その「恐怖政治」もきわめて脆弱な政治的基盤しか現に持っていなかったわけです。
・・・となるとですよ、そこから導き出される結論は論理的には一つしかありません。
それは、革命を起こしたのは、王政と同程度の実力と組織力を有する「インビジブルな政治組織」である、ということです。
ジャコバン派もプロテスタントもフリーメーソンもババリアの啓明結社も聖堂騎士団も、すべてはこの「インビジブルな政治組織」がコントロールしている・・・という「物語」を作り上げることで、論理的には一件落着したわけです。
めでたしめでたし。
そして、この「表の統治が及ばない全世界のすべての個別的政治活動を裏で統御しているインビジブルな政治組織(闇の世界政府)」についてありとあらゆる流言飛語が飛び交うことになったわけです(今に続く)。
この発想法は、ユダヤ人の世界政府から始まって、007号の仇敵(スペクター)、レーガン大統領(悪の帝国)、ジョージ・ブッシュ(ならずもの国家)と連綿と語り継がれて今日に至ります。
小保方は必死に実験しているのに、さっぱり結果が出ない・・・という事実から出発して、直線的に「ということはだ、誰かが小保方の実験結果を収奪し、小保方の苦しみから快楽を得ているということになる」とい う推論のレールの上を進んでゆく人間は今みる限りに於いて決して少なくありません。
そういう人は「フランス革命のときの陰謀史観論者」から実は進化していないのです。
このような思考類型を「線形的思考」と呼んでみましょう。線形的思考をする人間は「未知」というファクターを排除します。線形的思考の代表選手は「ラプラスのデモン」です。
簡単に言えば、システムの初期条件が開示されれば、それから後に起こるすべてのことは予見可 能である、というものです(ニュートン=デカルト的静止的宇宙観)。
しかし、量子物理学以後、私たちはそのモデルがもう使えないということを理論的にも実験的にも熟知しています(わからないやつにはわからないだろうけど)。
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偶然性の重要性は、今あるものを解決する為に長らく動くことのデメリットを緩和することです。アンドリュー・ワイルズも楕円曲線で遠回りしといてよかったよね・・・みたいな。
線形的思考の根本的な難点は、「これから起こる変化」について精密な予測を立てる人は、その予測が精密であればあるほど、「これから起こる変化によって、予見者自身も変化する」というファクターを勘定に入れ忘れるということで す。
「見初めた彼女は奴隷の身、だけれどぼくには金がない」(坂本九「悲しき60歳」)
一念発起してムスターファ青年は刻苦勉励、ついには奴隷の彼女を買い戻すだけの資産を蓄えるのですが、そのときは「今や悲しき60歳」。
この歌の悲劇性は、いつのまにか60歳になってしまって素敵な彼女ももう60歳のババアとなっていた・・・ではなく、若いときの欲望にドラ イブされて、60歳までの人生を単線的に律したムスターファが、「60歳のガキ」になってしまったという悲惨さを提示しているのです。
小保方はヘマこいたがオレがSTAPを見つけてやるぜ、とばかりに動いて結果数十年後に見つけたらどうなるか。ガキのままです。
幼い想像力が描いた「アチーブメント」とか「サクセス」の呪縛に未来をまるごと投じること のリスクを過小評価してしまうこと。
それは自分の未来の未知性、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない」という目のくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しい。
もともと人間不可逆な存在だったんだし、それでいいじゃない(他の研究に没頭して、ポッと出くらいで)。伊藤清だって、全くどうでもいい経済学に気にせずに確率微分方程式に関する伊藤の補題を提供しちゃったもんだから、ブラック・ショールズ式のブラックから感謝されていみぷーみたいになったんだし、そういう偶然性って、大事だと思うんですよね。