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資料室B3F

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の移籍版。

いつでもそんなものだから

2015-05-19 20:58:38 | 小ネタ
■「プライベートをおろそかにする時代」の方が異常でしょ!? 日テレ・行列の「ゆとり特集」に若者ウンザリ
(キャリコネ - 05月18日 18:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3422187

齋藤孝教授も素直に国語だけやっておけばよかったような気もします。

『あげられたのは、「怒られるのが嫌、打たれ弱い」「指示通りに動くが、自分から動くのは苦手」「上司との酒はきっぱり断るなど、プライベート優先」という3つのポイントだ。』

前の2つのポイントからするとなんとも言えませんが、3は昔からそうじゃないですか。先祖帰りしているだけです。

「[朝の出勤時に]先輩に会ってもプイと横を向いて通ったらよい感じは与えないでしょうし……こんな子供に教えるような話をして申しわけないのですが、こんなチョットしたことから、しつけは始まっているのです。

お茶を飲もうよ、映画を見ようよ、などと友人から誘われても一切行動をともにしない人が一部分にはいるものです。

[上司のぼやき]『なにしろいまの若い人たちは、映画だ、音楽だ、カメラだ、8ミリだ、ゴルフだ、とまったくわれわれの独身時代には考えも及ばなかったものをぶらさげているからね。……結婚資金もできないのは当然だよ』」(榎原利喜雄『新入社員への覚え書 若い職場人のためにも 』(五島書店、1959))

「趣味に熱心だと、仕事のためにプライベートが大きく犠牲になることは理解できないようだ。」って昔ありましたけど、・・・あれ、今も昔も趣味が好き・・・じゃないですか。分かり合えるんですね。

社長。まったく近頃の若者たちの傍若無人ぶりときたらもう。社長が新人だった頃といいますと、1960年くらいですか。あのころはまだ日本の若者もオトナでしたよねえ。上司や先輩に敬意を払い、協調性に富み、仕事第一、遊びは二の次でしたね、そうでしょ? 社長。

・・・まあ、うそがばれちゃいましたけど。

こんなの例外だ!とおっしゃるかたは、正直日本人に向いてないんじゃないかと思うんですよねぇ。だいたい、自分が例外であるということを一切考慮に入れないし、科学はカール・ポパーが云う様に、反証の歴史です(好田順治「I ラカトシュの数学感」(『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』Vol.19(2)(昭和57年)所収)等)。

日本は曲がりなりにも科学立国ですから、反証が嫌いな人はこの国には必要ないんですよ。

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「全共闘が全国規模だったとかマジ異常」というのだ。

養老孟司は、御殿下グラウンドに林立した数百本の「竹槍」を見たときに、「本土決戦」を思い出して既視感を覚えたという。世代間で遠隔遺伝があるように思う。

当時の学生たちはアジアの同胞たちが「竹槍」で米軍と戦っているときに、自分たちがぬくぬくと都市的快楽を享受していることを「志士の末裔」として恥を感じたように思う。「佐世保闘争」と「羽田闘争」にしても、「開国」した港湾に寄港した「アメリカの軍艦」と「アメリカの飛行機」を「ゲバ棒=竹槍」で追い返すというきわめてシアトリカルなものであった。

ゲバ棒のような実効性のまったくない「武器」を学生たちは喜んでとった。「実効性がない武器で戦う」というところに「竹槍性」の本質があった。

ゲバ棒でジュラルミンの盾と警棒で武装した機動隊と戦うときにはじめて、「ベトナムの農民との連帯」が幻想的に成立した。機動隊に蹴散らされて、血まみれになるときにはじめてアジア人として「恥」の感覚が少しだけだが軽減する。


「Hegel bemerkte irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce.(ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲル は、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と)」(Karl Heinrich Marx、市橋秀泰訳『Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)』(新日本出版社、2014.01))  


「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。  
自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。  
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。  
またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである(・・・)」(Ibid.)  

・・・・・・・・・
ひとつだけ言えるとすれば、70代は犯罪脳世代です。


ああ、60代までだからですね http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934544818&owner_id=40049699&full=1

■「自分は昔やんちゃしてた」と思う男性は5人に1人!50代が最も高い原因はアレ!?
(しらべぇ - 10月31日 09:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=202&from=diary&id=3120707

そりゃそうでしょうねぇ。でも、

「その真偽は別にして、「自分は昔ワルだった」「やんちゃしていた」と高らかに宣言することで、人生において様々な経験をして現在に至っていることを相手に静かにアピールできますよね。」

これは違います。

「その真偽は別にして、「自分は前科者だった」「犯罪行為をした」と高らかに宣言することで、人生において様々な被害者を踏み台にして現在に至っていることを相手に嫌味たらしくアピールできますよね。」

これが正解です。都合よくなんでもいいように捉えてはいけません。60代は大学紛争の関係でそういうひとは多いです。後内ゲバが得意なMARCHの某大学か。

強盗・殺人・強姦・放火の四種をすべて合計したグラフはこちらです。




出典:パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(ちくま文庫、2004)

犯罪件数が最も多かったのは昭和35年、つまり昭和35年に17歳くらいであった昭和18年生まれの現在71歳のおじいさんが最も過去に犯罪者になった世代ということになります。まあ、60代ギリギリから70代最初の人が頭のやばい率が高いことになります。

年寄りは都合よく物事を忘れますから、武勇伝になる前にぼけちまえとはこのことですね。

http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-166.html

 私は『反社会学講座』で、昭和18年前後に生まれた世代(現在70代前半)がもっとも凶悪だったと、統計から導かれるひとつの事実を示しました。
 そのへんのことをもっと詳しく学問的に検証してる論文をみつけていたのですが、ずっと紹介しそびれてました。この機会に紹介しておきます。
 中尾暢見さんの「激増する高齢者犯罪」(『専修人間科学論集』2014年3月)。
http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=6274&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1&page_id=13&block_id=52

この論文では、1940年から46年生まれをひとつのコーホート(世代)として追跡しています。彼らが少年だったとき少年犯罪が多かった、そして、この世代が成人した1966年以降、少年犯罪が激減した、というところまではすでにおなじみですね。
 中尾さんは彼らのその後も分析してるんです。彼らが成人すると、今度は成人の犯罪が急増しました。91年から04年、彼らが中高年だった時代には、中高年の犯罪が増えてたというじゃありませんか。
 そしていまや、彼らは高齢者となったわけですが、いま問題になっている高齢者犯罪の増加は、彼らが高齢者になる数年前からの傾向だったとのこと。ただし、彼らが高齢者の仲間入りをしてから犯罪増加に拍車がかかったことは否めません。
 なんとまあ……。少年のときだけではなかったんですね。現在70代前半の世代には、他の世代よりもかなり高い割合で犯罪体質の人が含まれていることは、まちがいないようです。

 さて。みなさんはこの事実をどう受け止めますか。
「ほらみろ、やっぱり未成年のときにキビシく罰しなかったから、そいつらはオトナになっても年寄りになっても、犯罪を繰り返すような人間になってしまったではないか!」
 なるほど。その解釈なら、「過去の反省を踏まえ、いまの年寄りの轍を踏まぬよう、一刻も早く少年法をキビシくすべきだ!」と主張することもできますね。
 でも、おおかたの人たちは、その主張に反論するのでは。
「いまの年寄りが全員犯罪者なわけじゃない、ほとんどの人はまともで、犯罪者はごく一部にすぎない」
 ですよね。私もそう思うし、中尾さんの論文でもそこはきちんと釘を刺してます。念を押すなら、いまの若者世代はその老人たちよりももっとまともです。

(・・・)過去の反省を今後の犯罪抑止に活かしたいのなら、脳科学者や犯罪学者や心理学者などが集まり、70代の人たちの脳や少年時代からの生活パターンなどを徹底的に調べ、なぜこの世代に犯罪者が多いのか、犯罪体質とそうでない人の違いはなにか、それを科学的に究明したらいい。そのほうがよっぽど前向きで役に立つ取り組みになるはずです。



茶番でしかない

2015-05-18 21:49:21 | 小ネタ
■高齢者に牙をむく!「子どもの貧困」の実態 先鋭化する特殊詐欺の風景
(dot. - 05月18日 13:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3421763

どこまでもdot.らしい。いや、dot.にしても、今回はむちゃくちゃすぎる。毎回思いますけど、理解力が足りないといっている割にはこっちの理屈への理解はさっぱりしてくださったためしがないですよね。理屈には理屈でかかってこないとバカにされっぱなしなんですよ。だいたい話してもこんなのがオチです。


http://alfalfalfa.com/archives/7598072.html
135 ドラゴンスクリュー(愛知県【15:37 愛知県震度1】)@\(^o^)/ :2014/10/21(火) 15:57:09.97 ID:ErIS6/En0.net

橋下の詭弁がパターン化できた 最近はマジでこれだけしか言ってない

1 現場を知ってるんですか?

知らないでしょう?知らないなら黙ってて

2 対案を出せ

(出せない場合) 出せないなら黙ってて
(出された場合) 現場を知ってるんですか?にループ
(出されてかつ現場知ってた場合) 大阪市は特殊な職場!一般論で言われても困ります


「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」(Fiodor Mikhaïlovitch Dostoïevski, Crime et Châtiment, Gallimard, Paris, c1950)

「僕があの書き込みを全編読み終わって真っ先に感じたのは、『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフの発想にそっくりだということ。格差がものすごく拡大した十九世紀終わりのロシアでは、ニヒリズムが蔓延します。神もへったくれもない、人を殺そうが、金品を奪おうが何をやっても勝手だと、実際テロや強盗殺人が多発した。ドストエフスキーはその現状に直面して、自らの中で殺人を正当化する独善的な人物を主人公に、あの作品を書いている。」(佐藤優「秋葉原事件を生み出した時代」、『中央公論』2008年8月号、P83)

『「犯罪のルーツに子どもの貧困がある」と発言すれば、必ず返ってくるのが「貧困の中で育った子どもの全てが非行に走るわけではない。それは差別を助長しかねない」といった反論だ。しかしそれは本来支援の対象だった子どもたちを、「道を外れた」時点で支援対象から外すと言っているに等しい。その代替として、非行や犯罪に繋がる自助的グループが彼らのセーフティーネットとして、居場所や飢えを満たすものになっているというのならば、いっそう彼らは明確な反逆の意思を持って社会に牙をむくだろう。 詐欺の現場で働く若者たちは、総じて非常に優秀で、正常な教育と環境を与えれば社会に大きく貢献できたであろう者が多い。将来の社会を支えるはずだった人材を、社会から奪う犯罪者に変えてしまう。それが子どもの貧困を「無きもの」にしてきた結果ではないのか。 年間550億円という特殊詐欺犯罪の被害額よりも、これらの人材を一般社会の生産に生かせなかった損失はそれ以上に大きいのではないか。これが取材を続けての実感だ。 』

今まで黙っていたが、この言い方はいくらなんでもないだろう。
社会に責任を帰属させるのは簡単だけど、それは固有名に於いて責任を帰属させる者が不要、即ち誰も(加害者に於いてをや)責任を取らない無法地帯化な訳ですよ。 

「自分の体で起きることを身体の所有感覚としてもてないことがあるのと同様に、自分のまわりで起きる社会的出来事を所有感覚としてもてるかどうかは自明ではない。 
ときに家族は家族として感じられなくなったり、国を国として感じられなくなる。家族愛や愛国心は自明ではない。だが、責任を要求することによって、自己は統合され、自らを合理化して制御し、それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして、社会的責任を通じて一貫した自己が生まれる。 
分人民主主義が否定するのはこうした自己の結晶化である。身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したまま吐き出すことができれば、分人たちの新しい民主主義の可能性が顕在化する。」(鈴木健『なめらかな社会とその敵』(勁草書房、2013)P174) 

個人的に「更正派」の中でも嫌いなタイプがいる。「更正」を脅迫の為に使うような輩のことだ。社会がさらにだめになる、だから被害者が踏み台にならなければならない、と。自分がその踏み台になるという可能性をゼロ査定しながら。その様な卑怯きわまりない言説をおれは絶対に認めない。

昔、Yahoo!知恵袋で少年法の話で、少年法は「少年法で厳罰化されて社会の隅に追いやられれば暴力団に入りそしてまた誰かが被害者になる、その被害者を生んだのは厳罰化した人間だ」とする論があった。何をふざけているのかと思ったね。頭にきたので追及する気も失せた。何をばかげているのかと。隅に追いやられたらなぜ暴力団に行くと仮定しているのか?

呆れるばかりだ。人は更正など望んでいない。望んでいるのは、生活保護を受けてもいいから、社会に二度と顔を出さないこと、そのまま侘びしく死んでいくこと、それだけです。 

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なすりつけあい http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1940668837&owner_id=40049699&full=1

■「非行集団と共存、生きるため」 元非行少年は語る
(朝日新聞デジタル - 04月04日 11:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3355008

ま、共存というよりは、なすりつけあい、ってやつに見えるが。昔からこの手の言い訳はあった。

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

ところで、丸山の云う「ずるずる」とは何か?その政治的行為を主宰する主体がいない、ということだ。 ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。

キーナン検察官の最終論告に曰く。

「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

これと同じことだろう。

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懐かしい話だが、1999年7月、朝日新聞では、ユーゴスラビア内戦の件で大江健三郎とスーザン・ソンダクが往復書簡を続けていたことがある。ソンダクはこんな話をしていた。

「かつてユーゴスラビアだった地を、スロボダン・ミロシェビッチが破壊し続けるのを食い止めるには、軍事介入しかないと考えたからです。ミロシェビッチが1991年に戦争を始めたそのとき、もし軍事介入が行われていたら、多くの、実に数多くの生命が失われずにすんだことでしょう。あの地域全体の物理的、経済的、文化的な破壊も阻止できたでしょう。(・・・)かりにNATOが戦争を否定していたとしたら、それはコソボの人々にとて、どういう事態を意味していたでしょう-助けは来ない、ということです」

戦争であれ、ジェノサイドであれ、それこそ「いじめ」であれ、留意しておかねばならないのは、「だれが」それを起こしたのだ、というような問いは無効であるということだ。「私がそれを起こした」と確信している人間などそこには一人もいない。

全員が「自分こそ最初の、最大の被害者である」と思いこむ人々のあいだではじめて破滅的な暴力は発生する。暴力の培地は悪意ではなく、おのれは無垢であるという信憑だ。
それらはエドゥアール・ドリュモンを筆頭とする反ユダヤなどを見ればよくわかる。非ユダヤ人のユダヤ人に対する恐怖と被害者意識の底なしの深さに。

「だれが」がそれを始めた。「だれか」がそれを終わらせるべきだ。問題は「だれか」を特定することだ、というソンタグのロジックには「私がそれを始めたのではないか?」「私がごく当たり前のようにここにいるということがすでに誰かの主体性を侵害しているのではないか?」という問いが抜け落ちている。

一方に「それを起こしている」邪悪な「主体」がおり、他方にそれを「阻止する」ために駆けつける無垢で知的な「騎兵隊的」主体がいる。すべては「主体」の意思と決断の次元で語られる。 ・・・が、「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味しない。

それなのだろう。

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この手の人間を一般に性格付けると、「自分と同一である他人」の数が多ければ多いほど「いい気持ち」が高まるものだ。だから、まわりの人々をできるだけ自分に似せようとするし、そのための努力に限っては惜しまない。

無論、自分と似ている人間が増えれば増えるほどに、個人としての唯一無二性は脅かされるわけで、「みんなが単独性を放棄して、大衆に溶け込み、お互いにそっくりになればなるほど、みんなが『自分だけは特別だ』という不可能な事実を自己責任において挙証しなければならなくなる」という構造になっている。

「他人と同じようにふるまう」ことでしか快感を得ることができない人間であり、その行為によって快感はつねに、構造的に損なわれることになる。

この特徴のある人間は、軽々に「みんな」ということばを使います。 知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうる。
「みんな」という言葉の使い方が「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほどに、己の「正義」と己の判断に係る適法性を、より強く確信することができる。ああいう人間の方が、そうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることが出来る。

「大衆とは、みずからを、特別な理由によって-よいとも悪いとも-評価しようとせず、自分が〈みんなと同じ〉だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」(オルテガ・イ・ガセー『大衆の反逆』)


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「・・・は繰り返すが、・・・は本質を変えずに再び繰り返される」(Jhon Maynard Keynes) 

「Hegel bemerkte irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce.(ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲル は、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と)」(Karl Heinrich Marx、市橋秀泰訳『Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)』(新日本出版社、2014.01)) 

「(・・・)welche einer mittelmäßigen und grotesken Personage das Spiel der Heldenrolle ermöglichen.((・・・)そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。)」(Ibid.) 

ケインズにせよマルクスにせよ、共通するのは歴史です。資本論より、ジャーナリズムの観点でマルクスはキレがあります。 

「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。 
自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。 
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。 
またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである(・・・)」(Ibid.) 

なぜ出来事は「回帰」するのか?その理由を誰もうまくは説明してくれないことでしょう。人間は「自分で思っているほどには創造的ではない」のです(※)。 

※:例えば、モーリス・ブランショなど。「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」(Maurice Blanchot, ‘La littérat ure et le droit à la mort’ in La Part du Feu,Gallimard, c1949, P296)

しかし、忘れてはならないのは、ある種の「幻想」(本件でいえば、極端なリーガルリスク(リーガルリスクを問う迄もない話ではありますが)が顕在化することなくうまく犯罪が出来る、等)は回帰する力をもっていることでしょう。自分はへまをこかない。そう言って未来で地べたを這いつくばって石ころのように扱われた人間が何人いたことか?ニュースをみていないからこんなことを、と言うよりは、叙上のマルクスが述べる様に、「自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもと」で作られたのがコレ、なのです。そういうろくでもない環境しか自分で選択する技能を有しない。自己責任です。 

「人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとする」・・・たかがマルクスと侮るなかれ、本質はこのセリフで看破されるのです。 

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http://pmazzarino.web.fc2.com/saikin08.html
私は彼に同情しない(2008.7.2)

 こんにちは。パオロ・マッツァリーノです。私は彼にまったく同情できません。例の、秋葉原の通り魔殺人の犯人です。あの事件のあと、派遣とか、ワーキングプアなどと呼ばれる人たちの中に、自分もああいうことをしてたかもしれない、みたいな意見を漏らす人がいました。そういうみなさんに申し上げます。その同情は、まちがいです。
あの野郎殺してやる、とか、勝ち組なんかみんな死んでしまえ、みたいなことを心の中で思った経験なら、どなたにもあるでしょう。私にだってあります。本も売れず原稿も書かせてもらえずくすぶってたころ、なんでこんなつまんない本書くヤツが売れるんだ、死んじまえ、とか考えてましたよ……いまだに思うことありますけど。要するに、その程度の心の闇ならだれもが抱えているんです。
しかし、ほとんどの人は、実際に人殺しを実行することはありません。死ねと思うことと、実際に殺人に手を染めることの間には、気安く飛び越えることのできない高いハードルがあります。思うだけの心の闇と、実際に人殺しをしてしまう者の心の闇は、闇の質が異なります。それを同じ「心の闇」などというあいまいな言葉でひとくくりにはできませんし、殺人犯の心の闇を、普通の人が想像して同情することなど、不可能なんです。
ですから、自分もああいう事件を起こしたかもしれない、という仮定がそもそもまちがってるのです。あなたは低賃金労働を強いられる境遇に不満かもしれない。将来に希望が持てないかもしれない。世の中間違ってると思うかもしれない。金持ち死ねと思うかもしれない。でも、人殺しなんてしないでしょ。してませんよね。できないんです。それはあなたがまともな人間だからです。
あなたは、殺人犯に同情するのでなく、自分が通り魔殺人などをせずにがんばって生きてるまともな人間であることを、誇りに思うべきなんです。
今回の事件を格差社会と関連して論じることにも反対です。それとこれは別問題。仮に同様の通り魔事件が頻発したとして、その程度で大企業の経営者や、巨額の投資マネーを動かして原油や穀物の価格をつり上げてる連中が、「やっぱ格差って、いけないよね。ボクは全財産を恵まれない貧乏人に寄付します」なんていうわけがないんです。そんないい人ばかりなら、とっくの昔に地球上から貧困はなくなってます。格差が開くと人殺しが起きて世の中が不安になるぞ、なんて脅しや警告は、お金持ちの人たちにとってはなんの意味もありません。彼らの行動を変えさせることはできません。暴力犯罪が増えて苦しむのは、結局は貧乏な庶民なんです。
だいたい、あの犯人が事件後に語っていると報道されてる言葉を信じるなら(報道内容が事実でない可能性もなきにしもあらずなので)、それはすべてあとづけの理屈であり、責任を自分以外の何かのせいにする、単なるいいわけではないですか。
彼女がいないから自分はダメだった? 世の中には、彼女がいなくても普通に働いて結果を残してる人が何万人、何十万人(もっと?)もいますよ。というか、彼女ができれば昨日までダメ人間だった男が、一夜にしてヒーローになれるんですか? そんなわけがない。もし彼女ができても、彼のダメな人生にはたいした変化は訪れなかったはずです。そんなとき、他者に責任をおしつけてばかりいる彼のような男ならどうするか。「おまえが俺のやる気を引き出さないから、俺はいつまでたってもダメなんだ!」と自分のふがいなさを彼女のせいにする可能性のほうが高いです。あげくにDVにでもなるくらいがオチ。
そんな男が、自分は格差社会の被害者だ、みたいなことを主張してもなんの説得力もありません。そんなやつがワーキングプアの代表みたいなつもりでいること自体、不愉快です。
まともに普通にがんばってても生活が苦しいという人たちこそが、同情の対象であるべきだし、そういう人たちだからこそ、社会の歪みを糾弾する資格があるんです。普通の人たちが救われるように政治や経済、社会の仕組みを変えることを考えるべきでしょう。
だから私は、あの犯人には同情しないのです。


本人も薬局もどっちもおかしい

2015-05-17 13:48:17 | 小ネタ
■女子学生、粉末タリウム持ち歩く? 父親は警察に相談
(朝日新聞デジタル - 05月17日 05:18)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3420065

そもそも薬局自体が疑わしいところまで来ました。

https://www.pref.chiba.lg.jp/yakumu/yakubutsu/dokubutsu/dokubutsu/tekisei.html
毒物及び劇物の適正な販売及び保管管理等の徹底について/千葉県

○毒物劇物の譲渡に当たっては、毒物及び劇物取締法第14条及び第15条に定められた手続きを遵守し

【毒物劇物の交付を受ける者が18歳未満でないことを身分証明書等により確認する】

とともに、譲受人又は交付を受ける者の身元についても併せて確認を行わなければならないわけです。

身分証明がクレカなんですか?クレカは親名義なんだからおかしいって気がつくでしょうよ。年齢の申告が偽りであったとしても、身分証明書見れば一発でしょう。身分証明書を偽造したら偽造したで、公文書偽造+作成時点で偽名口座作成(詐欺罪)の未遂となる。

○学業等正当な目的であっても、18歳未満への毒物劇物の交付はできない。
確かに硫酸タリウムは殺鼠剤の材料ですが、だったら素直にアース製薬のデスモアを買うでしょうよ。その時点でこいつおかしいんじゃないかってなるでしょう。

ここらへんがザルな薬局を選んだのか?私はこういう遵法意識のない店はほんとキライでね。今からでも薬局の店主を探しだした方がいい。

毒物及び劇物取締法(昭和二十五年十二月二十八日法律第三百三号)

(罰則)
第二十四条  次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役若しくは二百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
四  第十四条第一項又は第二項の規定に違反した者
五  第十五条の二の規定に違反した者

第二十五条  次の各号のいずれかに該当する者は、三十万円以下の罰金に処する。

二  第十四条第四項の規定に違反した者
二の二  第十五条第二項から第四項までの規定に違反した者

「・・・・・・髪の毛なんてね、そう簡単に抜けるものじゃないのよ、マーク。やってみるといいわ。自分の髪を引っ張ってみて、ほんのちょっとでいい、根っこから引き抜くのよ!いいからやりなさい!ほらねそれで分かったでしょ。
あの人たちにしたって、髪の毛が根っこから抜けるなんて不自然じゃないの。不自然きわまりないわよ。きっと何か新種の病気にちがいないわ。そこにはなにか意味があるのにちがいないのよ」
ぼくは受話器を握り締めた。いろいろなことが、忘れかけていた知識の断片が、まとまってきた。

(・・・)「えーと、言われてみればたしかにそうだ。高熱のせいだとおもうが」
「熱なんかじゃありませんよ」
ぼくは言った。
「ジンジャーの病気は、みんながかかっていた病気は、タリウム中毒です。ああ、神さま、どうか間に合いますように・・・・・・」
(アガサ・クリスティー『蒼ざめた馬』)

名大生殺人への雑感 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942165296&owner_id=40049699&full=1

名大生 無人教室で劇薬混入?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3419603

ついにタリウムを飲ませた行為が殺人未遂となりました。そらそうだろう。第一クレカ見せたくらいで売り渡す薬局も薬局だ。殺人1件、殺人未遂2件だと、愛知の立て篭もり発報事件上告審決定(*)が印象にある。

*:殺人1件、被害者に重傷を負わせた殺人未遂2件等の事案につき、無期懲役の量刑が維持された事例。判例時報2153号140頁以下を参照(最高裁第三小法廷平成23年3月22日決定)。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81413

結論としては、無期懲役という原審の判断を是認しつつも、適法に職務執行中の警察官2名に発砲し、1名を殺害し、1名に重い後遺症が残る重傷を負わせたことが特に重視された。

「死刑に処すべきであるとする検察官の主張も理解できないではない」とされていることが、今後の死刑かどうかが問題になるケースとなった。今回も有期はさすがに見込みようがない為、無期は覚悟してもらって、下手すると死刑だなクラスなことだけは、見込んでいただかねば。

ただし、先ほどの*の例で、無期懲役が維持された理由として、

殺意をもって、けん銃を1回発射してその左胸部に命中させ、同警察官を死亡させて殺害したことについて・・・

①被告人には未必的な殺意が認められるにとどまる。

②被告人は、上記の経緯で本件一連の犯行を犯したものであって、綿密、周到な計画性があったとはいえない。

③被告人は被害者らやその遺族に対して謝罪の態度を示していること。

④服役した前科がないことなど。

①は被りそうではあるが、実際の『殺人』に於いては未必もなにもあったものではない。②については計画性が非常に高い。③については謝罪の態度は一切示されていない。④は確かに被る。

というわけで、この通り考えると、到底無期ですまされるとは考えにくい。



名大生殺人への雑感

2015-05-16 21:13:34 | 小ネタ
名大生 無人教室で劇薬混入?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3419603

ついにタリウムを飲ませた行為が殺人未遂となりました。そらそうだろう。第一クレカ見せたくらいで売り渡す薬局も薬局だ。殺人1件、殺人未遂2件だと、愛知の立て篭もり発報事件上告審決定(*)が印象にある。

*:殺人1件、被害者に重傷を負わせた殺人未遂2件等の事案につき、無期懲役の量刑が維持された事例。判例時報2153号140頁以下を参照(最高裁第三小法廷平成23年3月22日決定)。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81413

結論としては、無期懲役という原審の判断を是認しつつも、適法に職務執行中の警察官2名に発砲し、1名を殺害し、1名に重い後遺症が残る重傷を負わせたことが特に重視された。

「死刑に処すべきであるとする検察官の主張も理解できないではない」とされていることが、今後の死刑かどうかが問題になるケースとなった。今回も有期はさすがに見込みようがない為、無期は覚悟してもらって、下手すると死刑だなクラスなことだけは、見込んでいただかねば。

ただし、先ほどの*の例で、無期懲役が維持された理由として、

殺意をもって、けん銃を1回発射してその左胸部に命中させ、同警察官を死亡させて殺害したことについて・・・

①被告人には未必的な殺意が認められるにとどまる。

②被告人は、上記の経緯で本件一連の犯行を犯したものであって、綿密、周到な計画性があったとはいえない。

③被告人は被害者らやその遺族に対して謝罪の態度を示していること。

④服役した前科がないことなど。

①は被りそうではあるが、実際の『殺人』に於いては未必もなにもあったものではない。②については計画性が非常に高い。③については謝罪の態度は一切示されていない。④は確かに被る。

というわけで、この通り考えると、到底無期ですまされるとは考えにくい。



なにやってんだかね

2015-05-16 18:10:54 | 小ネタ
■「辞めたいのに辞めさせてくれない」と悩む人々 会社に「ワナ」を仕掛けられていないか
(キャリコネ - 05月16日 16:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3419592

いろいろとすごいですね。こうなったらこうする、みたいなマニュアルを作っておくと、こういうタイプの人にはいいのかもわかりませんが。

下の妹が学習塾アルバイトをやっていた時期がありましたが、安くて大変でなんかやばそうなので、内容証明送ってやめさせるように親に言ったことがあります。しかしながら、「今やめたら塾生が困る」とのことで・・・。クライアントの心配かよ、と。
クライアントがそんなに心配なら正社員でもなんでも雇えばいいだろ、と、思いましたがまあちょっと昔のことなんでいいです。そうやっていうと、責任感とか言われますけど、従業員の体壊させるようなやつには言わないんだから、お互い様ってやつです。私はそういうのキライなんで。
私はそんな都合のいいチンケな就業規則の使い方をするようなところは好きじゃないんではっきり言いますよ。

・・・・・・・・・・・・・・・

基本的には、勤務先が辞めさせてくれないパターンへの対処は、別に難しいものではありません。

そもそも、なぜ、辞めたくても辞められないのか?基本的には3つに集約されることになるのでしょう。

①会社と交わした「誓約書」の存在があるから
「保育園。法律に沿って退職日の2週間前に退職届を提出したが、保育園から『就業規則では退職は1か月前に届けると決まっているから、今から1か月間は働いてもらう』と言われた」
「退職届を出し、一旦は了解されたのに、しばらくして『書類を書き直せ』と言われ、退職日後のシフトも入った表が堂々と職場内に張り出された」

②損害賠償請求の要求に怯えて
「整体院。一年前の入社時に『2年以内に退職する時は、研修費用40万円を支払う』の文書にサインさせられている」

③離職票を出さないという脅迫に怯えて

①の場合、そのようなチンケな誓約書に拘束力はなく、民法627条に従えば、2週間前の通知で辞められる。誓約書や就業規則も法律の前では意味を持たない。持参した退職届が受理されなくても、内容証明郵便で送れば効力はある。それでも無視されるのならば、辞めると宣告して、その日が来たら出社しなければ良い。正式な言葉はないが、法定出社拒否、とでも呼ぼう。

正確に言えば、会社が作成した就業規則(労働者が10人以上の事業場であれば、作成・届出が労基法第89条で義務付けられています)に社員は拘束されるので、規則に則り手続きすることが必要となるが、就業規則が民法に則していなければ、裁判所では民法の優位性を採用する為、このような結論となる。


②の場合、多いのは『会社に損害を与えるの で、勤務最終月の給与は払わない』と通知してくることだが、労基署へGO。そもそもそんな会社の求める損害賠償には法的根拠がない。
そもそも例にあるものは、労働基準法16条が禁止する違約金・損害賠償の定めに当たる可能性がある。研修に「業務性」が認められる場合は、費用の返還を求めることは同条に反し許されないと解される。
研修の内容等から判断して、研修と当該企業における業務との関連性が強く、労働者個人の利益との関連性が弱い場合は、業務性が肯定される。この場合、費用は本来企業が負担すべきものであり、それを一定期間以内に退職しようとする従業員に(返還という形で)支払わせることは、足止めを図る違約金・賠償予定の定めに当たり、労基法16条違反で許されないと判断される。
参考として東京地判平成10.9.25、新日本証券事件、労判746号7頁。

③の場合、ハローワークから会社側に『離職票を出せ』との指導がいくが、それでも会社が出さなければ、ハローワークが離職票を出す。

『退職したい』と伝えると『お前は最低の奴だ。1年は頑張ると言ったはずだ。親兄弟や恋人を呼びつけてもいいんだぞ』と脅してくる」

やれるもんならやってみろよ、ですね。やったらどうなるかほんとにわかっているのか心配です。

・契約を無視してシフトを組まれて困っている。テス ト週間にシフトを減らしてほしいと頼んでも断られる。バイトやパートに頼り過ぎだ
・知り合いは「あなたがいないと店はだめになる」と 言われ、テストを休んでバイトに行くようになり、大 学を中退した。

まさにこれです。 
具体的なワナの内容は、次の通りだ。「感情論の罠」とは、「キミが辞めたらこの会社つぶれちゃうよ?」と感情に訴えかけるもの。論理的に返しても押し問答に陥ってしまう。

そんな店は潰れます。つぶれる前にやめた方がいい。
引き止める上司は、自分の責任部門の人員不足を心配するのであって、あなたの人生を心配するのではない。自分の業績の方を気にしているのであって、本当にあなたの人生を気 にする上司ならば、その前にその退職が良いのか悪いのかの心配をしてくれる。だから、そんなアホな上司(店長)に気に病むことはありません。