ドローン少年「囲い」が支援
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3430335
15歳の坊っちゃんがしでかしたことで、別の方面から燻り出たものも多い。
http://blogos.com/article/112725/
赤木智弘「逮捕される子供を、起業家精神あふれる大人へと成長させるために」(2015.05.23)
『さて、ネット起業家として成功の道を歩みつつあった彼が失敗をした。なぜ失敗したかといえば、彼が明確に「起業」の意図を持っていなかったからだ。
(・・・)例えば、環境保護団体を名乗る過激な団体がある。彼らは偏見丸出しで差別的な活動をしながらも、多くのスポンサーを得て多額の資金を手にしている。窃盗をした犯罪者だって、こうした団体では事務局長として、ふかふかの椅子に座って高給なスーツ姿で公衆の面前で環境保護を語り、偉そうにできるのである。同じように、反差別を名乗ったり、逆に民族差別を煽ったりする団体も、さまざまなスポンサーからその活動を支えてもらっている。
彼も過激な配信を続けるのであれば、そうした団体に習って過激さを仕事に変換し、逮捕程度ではビクともしない、それどころか普通なら逮捕されるようなことをしても、行政や警察からお目こぼししてもらえるような権力を持つ会社をつくり上げるべきなのである。それこそが起業家精神であり、今の日本社会が求めている人材である。
仕事と犯罪は紙一重だ。今回の逮捕に懲りず、彼には起業家精神を貫いてほしい。』
これを見て、昔見た古舘伊知郎アナウンサーを思い出した。いや、古舘伊知郎というより、ラスコーリニコフ、か。
「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」
「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」
(Fiodor Mikhaïlovitch Dostoïevski, Crime et Châtiment, Gallimard, Paris, c1950)
2010年3月9日、その発言は現れた。アメリカでのトヨタ車による一連の不祥事、あるいは見ようによってはトヨタバッシングとも思われる出来事の最中だった。
「トヨタのこれまでの貢献度、また日本経済を支えてきた功績を鑑みれば、日本政府はトヨタ擁護に力を尽くすべきで、アメリカ政府に対して手を講じろ。」
この発言の根幹には、社会への(経済的な)貢献度が高かったら、ミスや過ちは許すべきだ、そうした考え方が潜んでいる。
報道番組は、強いモノには媚びを売れ、あるいは、長いものには巻かれろという発想から来ているのか。その発想がよく見えていたのが、四日市市のアレなわけだが。
田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972.04)にて。当時買ったのは第17版です)。
<photo src="v2:2125520485:l">
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http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150522-00045944/
ドローン絡みで世の中がゴタゴタしているようです
山本一郎 | 個人投資家
2015年5月22日 12時6分
結局のところ、この手の話はドローンのようなハイテク機器だイノベーションだという意識の高い目線のお話ではなく、クラスの片隅で行われていた「お前、なにか面白いことしてみろよ」の延長線上であって、お調子者がなにかしでかして職員室に連行されるという断ち難い連鎖のひとつに過ぎないのではないかと思ってしまうわけですね。
やはり、ここはイノベーターの第一人者として、茂木健一郎せんせがドローンを両手に持ってどっか高いところから飛ぶしか方法はないのではないでしょうか。飛んだら魔女であり、落ちて生きていたら魔女であり、落ちて死んだら魔女だったというオチでいかがでしょう。
これが一番しっくりきます。私も一回ガウシアンコピュラで揉めた経験がありますからね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ishiwatarireiji/20150522-00045954/
ドローン少年事件から、既存のキャリア教育が危ういと感じた件
石渡嶺司 | 大学ジャーナリスト
2015年5月22日 17時5分
『ただし、この2点目は私が高校を取材していて強く感じていることです。
日本のキャリア教育の根幹は、現在のところ、「夢を持とう、夢に向かって頑張ろう」というものです。
ま、夢を持つことはいいことです。ただし、夢を持ってダメだったときに次にどうする、と考える力を持つ、これも生き抜いていくために必要でしょう。
(・・・)高校生を取材していると、目先の成績・成果にこだわる方が多いと感じています。さらに、「夢こそ大事」とするキャリア教育を真に受けてしまうとどうなるでしょうか。たとえば、次の事例。
女子高生/とりあえず、手芸が好き/手芸部に入るとか、自作をフリーマーケット・ネットで売るなどはしていない
この女子高生が、「高校卒業後、すぐ手芸ショップを開きたい」と言い出したらどうでしょうか。
まあ、客観的に言って、「ふざけるな」ですよね。
これがたとえば、「手芸の大会で日本一になった」「手芸をネット販売したところ、月50万円近く、売れるようになって、製作が追いつかない」などの実績があれば、まだわからないでもありません。
が、そこまでの実績があったとしても、経営学部で経営を学んで将来の独立に備える、などを考えた方がより大きくできるはずです。ところが、この女子高校生は、勉強が嫌いということに加えて、夢が~とするキャリア教育から、だったら手芸ショップを、と考えてしまいました。短絡的な思考ですが、こうした思考に陥る高校生が一定数いる、と高校を取材して感じます。それから、同様の話を高校教員からもよく聞きます。
(・・・)本気で職業とするのであれば、
「撮影禁止と言われていないから撮影しても大丈夫」
などの屁理屈を並べたり、上半身裸で中継する程度では、ああっと言う間に負けてしまいます。このドローン少年や例として挙げた手芸少女からすれば、「夢がある、だから、それに無関係なことは勉強しなくてもいい」との発想なのでしょう。
しかし、本人はムダと考えていても、その職業を目指すうえでは本来は必要な知識・基礎教養というものがあります。あるいは、直接関係ないにしても、長い目で見て、必要となる可能性が高いものもある、それが基礎教養です。夢の有無とは別に、メシが食える大人になるための基礎教養を身に付ける、それが高校以前の教育であり、大学でも同じ。』
以前に私も似たようなことを書いたことがあります。
ナンセンスです http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1936585378&owner_id=40049699&full=1
「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(Ibid.)からです。
面白いことに、吉岡の様な雑なタイプとは言わないが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えています。 私たちは、「勉強が出来ない」子どもは、「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることが出来ないであろうと推測するわけです。 ところが、刈谷の統計は微妙な経年変化を示しているのです。もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ないでしょう。しかし、階層間では有意な差が生じているのです。
「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(・・・)社会階層の下位グループの場 合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(Ibid, P198)
つまり・・・
「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(Ibid, P199)
同時に刈谷は、1997年の統計に表われたこのような「ねじれ」が、実は1979年段階では見られなかった点を指摘していました。 階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象であり、それは強化されつつ進行しているのです。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(Ibid, P211)
そのメカニズムとは何か?少しこの本文から考えてみたいのです。
「ところが社会に出て分かったことは、人間という のは“きっかけ”なんだということなんだ。ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分にとって興味 があるとか得意分野であるとかという環境が必要 である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ、すごい能力を発揮するのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。 」
この様な言説が私などに罪作りだなと言わせるのは、今の子どもたちは「自分が一番がんばれること」を探し出して、それにすべての人間的資源をつぎ込みなさいと学校教育でも家庭教育でも誘導をされているからです。言っていることが家庭や学校の指導と同じじゃないですか。 寝食を忘れて打ち込めるような対象がふつうの子どもたちにいくつもあるはずがないのです。ありますか?ないでしょう。 芸人になりたい、アイドルになりたい、スポーツ選手になりたい、声優になりたい・・・そんな夢を洩らす子どもたちは、彼らの幼い日常生活の中で「寝食を忘れて」夢中になれる対象がせいぜいテレビかネットかゲームの中にしかないという文化環境の貧困を告白しているに過ぎないのです。それを拗らせたのは、以下の村上の発言からわかります。
「フリーターという便利な言葉がなかったころ は、就職しないでアルバイトすることに後ろめ たさがあった。誤解されると困るが、わたしは 就職しない人たちを非難しようと思っているわ けではない。就職は絶対ではない。チャンスを 待つことも選択肢の一つだろう。ただし、それ はその人に何か専門的な技術か知識がある場合 だ。『好きなことがみつかるまで、こうやってフ リーターをやりながら、チャンスを待つつもりです』と言うようなフリーターにはきっと専門的な知識や技術がないのだろう。専門的な知識や技術、特に今市場で求められているような金融やコンピュータ関係のプロフェッショナルは数が足りないのでフリーターでいることのほうがむずかしい。だが、考えるとすぐに分かることだが、二十歳を過ぎて、好きなことが見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない 人間に、どういうチャンスが訪れるというのだ ろうか。そういう人が二十五歳になって、例え ば自分の好きなことが医学だったと分かったと き、その時点で勉強を始めても極めて大きいハ ンディを背負うことになる。残念ながらほとんどのフリーターに未来はない、というアナウンスがないのはどうしてなのだろうか。」(村上龍『アウェーで戦うために』(光文社、2001)pp.127-128)
吉岡は「きっかけ」が大事であると述べておりますが、その「きっかけ」の峻別を無意識的に図っているのが「学業」であるわけです。就職する大学生がイマイチわかっていないのは、職業選択というのは「好きなことをやる」 のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだからです。はたからみて「好きなことをやってい る」ように見える人間は、「好きなこと」が はっきりしている人間ではなく、「嫌いなこ と」「できないこと」がはっきりしている人間です。バカでは出来ないこととして、自分が何かを「やりたくない」「できない」と いう場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要です。それらの言語化が果たして将来役に立つのかとここに書いてあったかどうかは敢えて問う必要もないことです。「やりたくないこと」の言語化は難しいのです。まして、「できないこと」の言語化はもっと難しいのです。
「だって、たるいじゃんか」
「キライなの、そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってし まうわけです、ええ吉岡のように。
(・・・)まあ、子どもたちがさしあたり唯一「がんばれること」のが「それ」だと言い張るのであれば、子どもたちが「それ」をめざして「がんばる」ことを止めるロジックを大人が持ち合わせていることはほとんどの場合ありません。もちろん、ほとんどの子どもたちはその「夢」と現実の絶望的な落差にいずれ気づいて、いずれ「がんばる」ことを止めてしまうでしょう。それまで「がんばれ」を煽ってきた大人たちは、子どもの努力放棄に対して不意に無表情になります。それは「努力する能力」が遍在しているということを半ば信じ、なかば信じていない人々に固有の反応です。何にせよ、そもそも今の日本の子どもたちの過半は、人生のはやい時期に「努力すること」に対してcynicalな態度をとるように仕向けられているのです。わざわざ吉岡が語らずともそれは機能しているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パトロン男性について、印象的だったのは、これです。
『ところで、ドローン少年に、金品を提供した社会人が、21日逮捕の翌日、22日朝に出頭している、というのは、実に象徴的です。
逮捕の翌日に出頭したのは、警察から呼び出されるよりも、先に出頭した方がその後の展開が変わることをわかっているからにほかなりません。
一方、ドローン少年は、再三注意を受けながら無視しました。
それどころか、横暴云々と動画でも流したため、反省の色なし、と警察は判断、立件・逮捕に踏み切りました。
(・・・)この件については、ドローン少年は、社会とのかかわり方、警察の動きなどについて、あまりにも無知でした。一方、ドローン少年に金品を提供した社会人は、社会とのかかわり方、警察の動きなどをちゃんとわかっていました。それが出頭のタイミングなどを左右したのではないでしょうか。
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http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3430335
15歳の坊っちゃんがしでかしたことで、別の方面から燻り出たものも多い。
http://blogos.com/article/112725/
赤木智弘「逮捕される子供を、起業家精神あふれる大人へと成長させるために」(2015.05.23)
『さて、ネット起業家として成功の道を歩みつつあった彼が失敗をした。なぜ失敗したかといえば、彼が明確に「起業」の意図を持っていなかったからだ。
(・・・)例えば、環境保護団体を名乗る過激な団体がある。彼らは偏見丸出しで差別的な活動をしながらも、多くのスポンサーを得て多額の資金を手にしている。窃盗をした犯罪者だって、こうした団体では事務局長として、ふかふかの椅子に座って高給なスーツ姿で公衆の面前で環境保護を語り、偉そうにできるのである。同じように、反差別を名乗ったり、逆に民族差別を煽ったりする団体も、さまざまなスポンサーからその活動を支えてもらっている。
彼も過激な配信を続けるのであれば、そうした団体に習って過激さを仕事に変換し、逮捕程度ではビクともしない、それどころか普通なら逮捕されるようなことをしても、行政や警察からお目こぼししてもらえるような権力を持つ会社をつくり上げるべきなのである。それこそが起業家精神であり、今の日本社会が求めている人材である。
仕事と犯罪は紙一重だ。今回の逮捕に懲りず、彼には起業家精神を貫いてほしい。』
これを見て、昔見た古舘伊知郎アナウンサーを思い出した。いや、古舘伊知郎というより、ラスコーリニコフ、か。
「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」
「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」
(Fiodor Mikhaïlovitch Dostoïevski, Crime et Châtiment, Gallimard, Paris, c1950)
2010年3月9日、その発言は現れた。アメリカでのトヨタ車による一連の不祥事、あるいは見ようによってはトヨタバッシングとも思われる出来事の最中だった。
「トヨタのこれまでの貢献度、また日本経済を支えてきた功績を鑑みれば、日本政府はトヨタ擁護に力を尽くすべきで、アメリカ政府に対して手を講じろ。」
この発言の根幹には、社会への(経済的な)貢献度が高かったら、ミスや過ちは許すべきだ、そうした考え方が潜んでいる。
報道番組は、強いモノには媚びを売れ、あるいは、長いものには巻かれろという発想から来ているのか。その発想がよく見えていたのが、四日市市のアレなわけだが。
田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972.04)にて。当時買ったのは第17版です)。
<photo src="v2:2125520485:l">
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http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150522-00045944/
ドローン絡みで世の中がゴタゴタしているようです
山本一郎 | 個人投資家
2015年5月22日 12時6分
結局のところ、この手の話はドローンのようなハイテク機器だイノベーションだという意識の高い目線のお話ではなく、クラスの片隅で行われていた「お前、なにか面白いことしてみろよ」の延長線上であって、お調子者がなにかしでかして職員室に連行されるという断ち難い連鎖のひとつに過ぎないのではないかと思ってしまうわけですね。
やはり、ここはイノベーターの第一人者として、茂木健一郎せんせがドローンを両手に持ってどっか高いところから飛ぶしか方法はないのではないでしょうか。飛んだら魔女であり、落ちて生きていたら魔女であり、落ちて死んだら魔女だったというオチでいかがでしょう。
これが一番しっくりきます。私も一回ガウシアンコピュラで揉めた経験がありますからね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ishiwatarireiji/20150522-00045954/
ドローン少年事件から、既存のキャリア教育が危ういと感じた件
石渡嶺司 | 大学ジャーナリスト
2015年5月22日 17時5分
『ただし、この2点目は私が高校を取材していて強く感じていることです。
日本のキャリア教育の根幹は、現在のところ、「夢を持とう、夢に向かって頑張ろう」というものです。
ま、夢を持つことはいいことです。ただし、夢を持ってダメだったときに次にどうする、と考える力を持つ、これも生き抜いていくために必要でしょう。
(・・・)高校生を取材していると、目先の成績・成果にこだわる方が多いと感じています。さらに、「夢こそ大事」とするキャリア教育を真に受けてしまうとどうなるでしょうか。たとえば、次の事例。
女子高生/とりあえず、手芸が好き/手芸部に入るとか、自作をフリーマーケット・ネットで売るなどはしていない
この女子高生が、「高校卒業後、すぐ手芸ショップを開きたい」と言い出したらどうでしょうか。
まあ、客観的に言って、「ふざけるな」ですよね。
これがたとえば、「手芸の大会で日本一になった」「手芸をネット販売したところ、月50万円近く、売れるようになって、製作が追いつかない」などの実績があれば、まだわからないでもありません。
が、そこまでの実績があったとしても、経営学部で経営を学んで将来の独立に備える、などを考えた方がより大きくできるはずです。ところが、この女子高校生は、勉強が嫌いということに加えて、夢が~とするキャリア教育から、だったら手芸ショップを、と考えてしまいました。短絡的な思考ですが、こうした思考に陥る高校生が一定数いる、と高校を取材して感じます。それから、同様の話を高校教員からもよく聞きます。
(・・・)本気で職業とするのであれば、
「撮影禁止と言われていないから撮影しても大丈夫」
などの屁理屈を並べたり、上半身裸で中継する程度では、ああっと言う間に負けてしまいます。このドローン少年や例として挙げた手芸少女からすれば、「夢がある、だから、それに無関係なことは勉強しなくてもいい」との発想なのでしょう。
しかし、本人はムダと考えていても、その職業を目指すうえでは本来は必要な知識・基礎教養というものがあります。あるいは、直接関係ないにしても、長い目で見て、必要となる可能性が高いものもある、それが基礎教養です。夢の有無とは別に、メシが食える大人になるための基礎教養を身に付ける、それが高校以前の教育であり、大学でも同じ。』
以前に私も似たようなことを書いたことがあります。
ナンセンスです http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1936585378&owner_id=40049699&full=1
「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(Ibid.)からです。
面白いことに、吉岡の様な雑なタイプとは言わないが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えています。 私たちは、「勉強が出来ない」子どもは、「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることが出来ないであろうと推測するわけです。 ところが、刈谷の統計は微妙な経年変化を示しているのです。もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ないでしょう。しかし、階層間では有意な差が生じているのです。
「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(・・・)社会階層の下位グループの場 合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(Ibid, P198)
つまり・・・
「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(Ibid, P199)
同時に刈谷は、1997年の統計に表われたこのような「ねじれ」が、実は1979年段階では見られなかった点を指摘していました。 階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象であり、それは強化されつつ進行しているのです。
「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(Ibid, P211)
そのメカニズムとは何か?少しこの本文から考えてみたいのです。
「ところが社会に出て分かったことは、人間という のは“きっかけ”なんだということなんだ。ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分にとって興味 があるとか得意分野であるとかという環境が必要 である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ、すごい能力を発揮するのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。 」
この様な言説が私などに罪作りだなと言わせるのは、今の子どもたちは「自分が一番がんばれること」を探し出して、それにすべての人間的資源をつぎ込みなさいと学校教育でも家庭教育でも誘導をされているからです。言っていることが家庭や学校の指導と同じじゃないですか。 寝食を忘れて打ち込めるような対象がふつうの子どもたちにいくつもあるはずがないのです。ありますか?ないでしょう。 芸人になりたい、アイドルになりたい、スポーツ選手になりたい、声優になりたい・・・そんな夢を洩らす子どもたちは、彼らの幼い日常生活の中で「寝食を忘れて」夢中になれる対象がせいぜいテレビかネットかゲームの中にしかないという文化環境の貧困を告白しているに過ぎないのです。それを拗らせたのは、以下の村上の発言からわかります。
「フリーターという便利な言葉がなかったころ は、就職しないでアルバイトすることに後ろめ たさがあった。誤解されると困るが、わたしは 就職しない人たちを非難しようと思っているわ けではない。就職は絶対ではない。チャンスを 待つことも選択肢の一つだろう。ただし、それ はその人に何か専門的な技術か知識がある場合 だ。『好きなことがみつかるまで、こうやってフ リーターをやりながら、チャンスを待つつもりです』と言うようなフリーターにはきっと専門的な知識や技術がないのだろう。専門的な知識や技術、特に今市場で求められているような金融やコンピュータ関係のプロフェッショナルは数が足りないのでフリーターでいることのほうがむずかしい。だが、考えるとすぐに分かることだが、二十歳を過ぎて、好きなことが見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない 人間に、どういうチャンスが訪れるというのだ ろうか。そういう人が二十五歳になって、例え ば自分の好きなことが医学だったと分かったと き、その時点で勉強を始めても極めて大きいハ ンディを背負うことになる。残念ながらほとんどのフリーターに未来はない、というアナウンスがないのはどうしてなのだろうか。」(村上龍『アウェーで戦うために』(光文社、2001)pp.127-128)
吉岡は「きっかけ」が大事であると述べておりますが、その「きっかけ」の峻別を無意識的に図っているのが「学業」であるわけです。就職する大学生がイマイチわかっていないのは、職業選択というのは「好きなことをやる」 のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだからです。はたからみて「好きなことをやってい る」ように見える人間は、「好きなこと」が はっきりしている人間ではなく、「嫌いなこ と」「できないこと」がはっきりしている人間です。バカでは出来ないこととして、自分が何かを「やりたくない」「できない」と いう場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要です。それらの言語化が果たして将来役に立つのかとここに書いてあったかどうかは敢えて問う必要もないことです。「やりたくないこと」の言語化は難しいのです。まして、「できないこと」の言語化はもっと難しいのです。
「だって、たるいじゃんか」
「キライなの、そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってし まうわけです、ええ吉岡のように。
(・・・)まあ、子どもたちがさしあたり唯一「がんばれること」のが「それ」だと言い張るのであれば、子どもたちが「それ」をめざして「がんばる」ことを止めるロジックを大人が持ち合わせていることはほとんどの場合ありません。もちろん、ほとんどの子どもたちはその「夢」と現実の絶望的な落差にいずれ気づいて、いずれ「がんばる」ことを止めてしまうでしょう。それまで「がんばれ」を煽ってきた大人たちは、子どもの努力放棄に対して不意に無表情になります。それは「努力する能力」が遍在しているということを半ば信じ、なかば信じていない人々に固有の反応です。何にせよ、そもそも今の日本の子どもたちの過半は、人生のはやい時期に「努力すること」に対してcynicalな態度をとるように仕向けられているのです。わざわざ吉岡が語らずともそれは機能しているのです。
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パトロン男性について、印象的だったのは、これです。
『ところで、ドローン少年に、金品を提供した社会人が、21日逮捕の翌日、22日朝に出頭している、というのは、実に象徴的です。
逮捕の翌日に出頭したのは、警察から呼び出されるよりも、先に出頭した方がその後の展開が変わることをわかっているからにほかなりません。
一方、ドローン少年は、再三注意を受けながら無視しました。
それどころか、横暴云々と動画でも流したため、反省の色なし、と警察は判断、立件・逮捕に踏み切りました。
(・・・)この件については、ドローン少年は、社会とのかかわり方、警察の動きなどについて、あまりにも無知でした。一方、ドローン少年に金品を提供した社会人は、社会とのかかわり方、警察の動きなどをちゃんとわかっていました。それが出頭のタイミングなどを左右したのではないでしょうか。
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