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資料室B3F

https://yaplog.jp/akasyuri/
の移籍版。

ドローン事件雑感

2015-05-23 23:38:48 | 小ネタ
ドローン少年「囲い」が支援
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3430335

15歳の坊っちゃんがしでかしたことで、別の方面から燻り出たものも多い。

http://blogos.com/article/112725/

赤木智弘「逮捕される子供を、起業家精神あふれる大人へと成長させるために」(2015.05.23)

『さて、ネット起業家として成功の道を歩みつつあった彼が失敗をした。なぜ失敗したかといえば、彼が明確に「起業」の意図を持っていなかったからだ。
(・・・)例えば、環境保護団体を名乗る過激な団体がある。彼らは偏見丸出しで差別的な活動をしながらも、多くのスポンサーを得て多額の資金を手にしている。窃盗をした犯罪者だって、こうした団体では事務局長として、ふかふかの椅子に座って高給なスーツ姿で公衆の面前で環境保護を語り、偉そうにできるのである。同じように、反差別を名乗ったり、逆に民族差別を煽ったりする団体も、さまざまなスポンサーからその活動を支えてもらっている。
彼も過激な配信を続けるのであれば、そうした団体に習って過激さを仕事に変換し、逮捕程度ではビクともしない、それどころか普通なら逮捕されるようなことをしても、行政や警察からお目こぼししてもらえるような権力を持つ会社をつくり上げるべきなのである。それこそが起業家精神であり、今の日本社会が求めている人材である。
仕事と犯罪は紙一重だ。今回の逮捕に懲りず、彼には起業家精神を貫いてほしい。』

これを見て、昔見た古舘伊知郎アナウンサーを思い出した。いや、古舘伊知郎というより、ラスコーリニコフ、か。

「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」
「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」
(Fiodor Mikhaïlovitch Dostoïevski, Crime et Châtiment, Gallimard, Paris, c1950) 

2010年3月9日、その発言は現れた。アメリカでのトヨタ車による一連の不祥事、あるいは見ようによってはトヨタバッシングとも思われる出来事の最中だった。

「トヨタのこれまでの貢献度、また日本経済を支えてきた功績を鑑みれば、日本政府はトヨタ擁護に力を尽くすべきで、アメリカ政府に対して手を講じろ。」

この発言の根幹には、社会への(経済的な)貢献度が高かったら、ミスや過ちは許すべきだ、そうした考え方が潜んでいる。

報道番組は、強いモノには媚びを売れ、あるいは、長いものには巻かれろという発想から来ているのか。その発想がよく見えていたのが、四日市市のアレなわけだが。

田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972.04)にて。当時買ったのは第17版です)。

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http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150522-00045944/
ドローン絡みで世の中がゴタゴタしているようです

山本一郎 | 個人投資家
2015年5月22日 12時6分

結局のところ、この手の話はドローンのようなハイテク機器だイノベーションだという意識の高い目線のお話ではなく、クラスの片隅で行われていた「お前、なにか面白いことしてみろよ」の延長線上であって、お調子者がなにかしでかして職員室に連行されるという断ち難い連鎖のひとつに過ぎないのではないかと思ってしまうわけですね。

やはり、ここはイノベーターの第一人者として、茂木健一郎せんせがドローンを両手に持ってどっか高いところから飛ぶしか方法はないのではないでしょうか。飛んだら魔女であり、落ちて生きていたら魔女であり、落ちて死んだら魔女だったというオチでいかがでしょう。

これが一番しっくりきます。私も一回ガウシアンコピュラで揉めた経験がありますからね。

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http://bylines.news.yahoo.co.jp/ishiwatarireiji/20150522-00045954/
ドローン少年事件から、既存のキャリア教育が危ういと感じた件

石渡嶺司 | 大学ジャーナリスト
2015年5月22日 17時5分

『ただし、この2点目は私が高校を取材していて強く感じていることです。

日本のキャリア教育の根幹は、現在のところ、「夢を持とう、夢に向かって頑張ろう」というものです。

ま、夢を持つことはいいことです。ただし、夢を持ってダメだったときに次にどうする、と考える力を持つ、これも生き抜いていくために必要でしょう。
(・・・)高校生を取材していると、目先の成績・成果にこだわる方が多いと感じています。さらに、「夢こそ大事」とするキャリア教育を真に受けてしまうとどうなるでしょうか。たとえば、次の事例。

女子高生/とりあえず、手芸が好き/手芸部に入るとか、自作をフリーマーケット・ネットで売るなどはしていない

この女子高生が、「高校卒業後、すぐ手芸ショップを開きたい」と言い出したらどうでしょうか。

まあ、客観的に言って、「ふざけるな」ですよね。
これがたとえば、「手芸の大会で日本一になった」「手芸をネット販売したところ、月50万円近く、売れるようになって、製作が追いつかない」などの実績があれば、まだわからないでもありません。
が、そこまでの実績があったとしても、経営学部で経営を学んで将来の独立に備える、などを考えた方がより大きくできるはずです。ところが、この女子高校生は、勉強が嫌いということに加えて、夢が~とするキャリア教育から、だったら手芸ショップを、と考えてしまいました。短絡的な思考ですが、こうした思考に陥る高校生が一定数いる、と高校を取材して感じます。それから、同様の話を高校教員からもよく聞きます。

(・・・)本気で職業とするのであれば、
「撮影禁止と言われていないから撮影しても大丈夫」
などの屁理屈を並べたり、上半身裸で中継する程度では、ああっと言う間に負けてしまいます。このドローン少年や例として挙げた手芸少女からすれば、「夢がある、だから、それに無関係なことは勉強しなくてもいい」との発想なのでしょう。

しかし、本人はムダと考えていても、その職業を目指すうえでは本来は必要な知識・基礎教養というものがあります。あるいは、直接関係ないにしても、長い目で見て、必要となる可能性が高いものもある、それが基礎教養です。夢の有無とは別に、メシが食える大人になるための基礎教養を身に付ける、それが高校以前の教育であり、大学でも同じ。』

以前に私も似たようなことを書いたことがあります。

ナンセンスです http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1936585378&owner_id=40049699&full=1

「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(Ibid.)からです。 

面白いことに、吉岡の様な雑なタイプとは言わないが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えています。 私たちは、「勉強が出来ない」子どもは、「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることが出来ないであろうと推測するわけです。 ところが、刈谷の統計は微妙な経年変化を示しているのです。もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ないでしょう。しかし、階層間では有意な差が生じているのです。 

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(・・・)社会階層の下位グループの場 合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(Ibid, P198) 

つまり・・・ 

「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(Ibid, P199) 

同時に刈谷は、1997年の統計に表われたこのような「ねじれ」が、実は1979年段階では見られなかった点を指摘していました。 階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象であり、それは強化されつつ進行しているのです。 

「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(Ibid, P211) 

そのメカニズムとは何か?少しこの本文から考えてみたいのです。 

「ところが社会に出て分かったことは、人間という のは“きっかけ”なんだということなんだ。ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分にとって興味 があるとか得意分野であるとかという環境が必要 である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ、すごい能力を発揮するのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。 」 

この様な言説が私などに罪作りだなと言わせるのは、今の子どもたちは「自分が一番がんばれること」を探し出して、それにすべての人間的資源をつぎ込みなさいと学校教育でも家庭教育でも誘導をされているからです。言っていることが家庭や学校の指導と同じじゃないですか。 寝食を忘れて打ち込めるような対象がふつうの子どもたちにいくつもあるはずがないのです。ありますか?ないでしょう。 芸人になりたい、アイドルになりたい、スポーツ選手になりたい、声優になりたい・・・そんな夢を洩らす子どもたちは、彼らの幼い日常生活の中で「寝食を忘れて」夢中になれる対象がせいぜいテレビかネットかゲームの中にしかないという文化環境の貧困を告白しているに過ぎないのです。それを拗らせたのは、以下の村上の発言からわかります。 

「フリーターという便利な言葉がなかったころ は、就職しないでアルバイトすることに後ろめ たさがあった。誤解されると困るが、わたしは 就職しない人たちを非難しようと思っているわ けではない。就職は絶対ではない。チャンスを 待つことも選択肢の一つだろう。ただし、それ はその人に何か専門的な技術か知識がある場合 だ。『好きなことがみつかるまで、こうやってフ リーターをやりながら、チャンスを待つつもりです』と言うようなフリーターにはきっと専門的な知識や技術がないのだろう。専門的な知識や技術、特に今市場で求められているような金融やコンピュータ関係のプロフェッショナルは数が足りないのでフリーターでいることのほうがむずかしい。だが、考えるとすぐに分かることだが、二十歳を過ぎて、好きなことが見つからないと学校にも行かず、これといって訓練も受けていない 人間に、どういうチャンスが訪れるというのだ ろうか。そういう人が二十五歳になって、例え ば自分の好きなことが医学だったと分かったと き、その時点で勉強を始めても極めて大きいハ ンディを背負うことになる。残念ながらほとんどのフリーターに未来はない、というアナウンスがないのはどうしてなのだろうか。」(村上龍『アウェーで戦うために』(光文社、2001)pp.127-128) 

吉岡は「きっかけ」が大事であると述べておりますが、その「きっかけ」の峻別を無意識的に図っているのが「学業」であるわけです。就職する大学生がイマイチわかっていないのは、職業選択というのは「好きなことをやる」 のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだからです。はたからみて「好きなことをやってい る」ように見える人間は、「好きなこと」が はっきりしている人間ではなく、「嫌いなこ と」「できないこと」がはっきりしている人間です。バカでは出来ないこととして、自分が何かを「やりたくない」「できない」と いう場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要です。それらの言語化が果たして将来役に立つのかとここに書いてあったかどうかは敢えて問う必要もないことです。「やりたくないこと」の言語化は難しいのです。まして、「できないこと」の言語化はもっと難しいのです。 

「だって、たるいじゃんか」 
「キライなの、そゆの」 

とか言っていると一生バカのままで終わってし まうわけです、ええ吉岡のように。 

(・・・)まあ、子どもたちがさしあたり唯一「がんばれること」のが「それ」だと言い張るのであれば、子どもたちが「それ」をめざして「がんばる」ことを止めるロジックを大人が持ち合わせていることはほとんどの場合ありません。もちろん、ほとんどの子どもたちはその「夢」と現実の絶望的な落差にいずれ気づいて、いずれ「がんばる」ことを止めてしまうでしょう。それまで「がんばれ」を煽ってきた大人たちは、子どもの努力放棄に対して不意に無表情になります。それは「努力する能力」が遍在しているということを半ば信じ、なかば信じていない人々に固有の反応です。何にせよ、そもそも今の日本の子どもたちの過半は、人生のはやい時期に「努力すること」に対してcynicalな態度をとるように仕向けられているのです。わざわざ吉岡が語らずともそれは機能しているのです。 

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パトロン男性について、印象的だったのは、これです。

『ところで、ドローン少年に、金品を提供した社会人が、21日逮捕の翌日、22日朝に出頭している、というのは、実に象徴的です。
逮捕の翌日に出頭したのは、警察から呼び出されるよりも、先に出頭した方がその後の展開が変わることをわかっているからにほかなりません。
一方、ドローン少年は、再三注意を受けながら無視しました。
それどころか、横暴云々と動画でも流したため、反省の色なし、と警察は判断、立件・逮捕に踏み切りました。

(・・・)この件については、ドローン少年は、社会とのかかわり方、警察の動きなどについて、あまりにも無知でした。一方、ドローン少年に金品を提供した社会人は、社会とのかかわり方、警察の動きなどをちゃんとわかっていました。それが出頭のタイミングなどを左右したのではないでしょうか。

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よく集めたな

2015-05-21 23:02:22 | 小ネタ
■フジテレビ「ネプリーグ」に批判殺到 クイズで「痴漢にあったことがある女性は何%?」と出題
(キャリコネ - 05月21日 18:40)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3427840

ずいぶん300人の中に集中したな、と思いました(168人でしょ)。

法務省の『第3回犯罪被害実態(暗数)調査結果概要』(2008)で性犯罪(痴漢といえば痴漢なのだが、パンツの上から触ると迷惑防止条例、パンツの中に手を突っ込むと強制猥褻、と似ているようで違うことになるので性犯罪のくくりで考えよう)の暗数コミで考えるとして、フジテレビの6倍の母数(1,961人(注))に聞いた結果・・・

注:回答が得られた者は3,717人、回答率は62.0%。回答者の内訳は、男子1,756人、女子1,961人。


第1回調査(平成12年)
第2回調査(平成16年)
第3回調査(平成20年)

被害率/申告率(ともに%)

2.7/9.7
2.5/14.8
2.0/13.3

申告率から考えると、260人程度なわけですが、ずいぶんネプリーグさんのところに集まりましたね。なお、実は調査での「性的事件」の被害率は、第1回調査(平成12年)及び第2回調査(平成16年)は女性回答者に対する比率であるものの、第3回調査(平成20年)においては,男女を問わず全回答者に対する比率であるため、正確にはもっと割合として少ないです。この数えかたは、ICVS(国際犯罪被害実態調査)の形に沿った形になっています。まさかとは思いますが、6年間で増えたからとか言わないでくださいね。





Un four cessé de brûle le plus chaud.

2015-05-20 22:25:18 | 小ネタ
■「ゲームやり過ぎ怒られた」 母と祖母殺害容疑の少年
(朝日新聞デジタル - 05月20日 09:21)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3424848

「テロとの戦いは家庭から始まる」(アメリカ国土安全保障省)

注:参考までに日本の犯罪統計(平成13年)で、殺人犯と被害者の関係を見ておくと、殺人1157件中、配偶者に殺されたのは191件で第2位。もっとも多かったのは知人・友人の282件です。敵は案外身の回りにいます。

ああ、ゲームにはまっちまったか、というところです。まあ、ゲームにはまっちまってカネがなくなってさっぱり関係ない人を殺すようなバカみたいにはならなかっただけまだましかもわかりませんが。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150207-00042872/
ゲーム課金の生活苦を理由に極悪非道な殺人が行われた事件の報道状況について
山本一郎 | 個人投資家
2015年2月7日 9時52分

昔、パズドラはゲームなんだろ?と聞いたら、パズドラはゲームであってゲームでないみたいなヘリクツ聞かされたんで、ゲームだと思ってます。

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真っ先に読んだのは、
親殺しの心理2:少年は先に祖母を殺していた:横浜戸塚高1母祖母殺害事件

碓井真史 | 新潟青陵大教授/社会心理学/スクールカウンセラー/番組審議員
2015年5月19日 18時11分

http://bylines.news.yahoo.co.jp/usuimafumi/20150519-00045869/

でした。

『子どもの心の中で、親の悪いイメージだけが広がり、巨大な親の存在に押しつぶされそうな感覚、飲み込まれるような感覚から、「殺すしかない」と感じて、親を殺害します。そのとき、たとえ優しい祖父母であっても、少年から見れば、自分の自由を奪う大人側の人間と見なされると、親と共に祖父母も殺害されることもあります。しかし今回の事件では、少年は祖母にもイラつきを感じてたようです。祖母を先に殺害したとするならば、自分を押さえつける最大の存在は、母親ではなく祖母と感じていたのかもしれません。』

最初の文は、なんか見覚えあるな、と思ったら(別にまだ誰もそいつが統合失調なんていってませんので)

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150312/438929/?ST=sp

和田秀樹 サバイバルのための思考法
言いがかり的厄災への対処法――川崎中1殺害事件を受けて
2015.03.12

『もちろん、暴行をしたり、万引きを強要したのだから、謝って当然なのだが、これで手打ちにならなかった。加害者の側は、年下の少年にみじめな謝り方をさせられて自己愛が激しく傷ついた。もともといじめられっ子ということだが、実は過去に自己愛を傷つけられてきた人のほうが、自己愛の傷つきに激しい反応をする。そのために、激しい怒りが生じ、このような惨事になったのかもしれない。あるいは、妄想的なレベルになってしまって、この少年を亡きものにしないと自分が破滅すると考えたのかもしれない。統合失調症の患者による殺人事件では、相手をバラバラにするなど手口が残虐なものであることが珍しくないが、これは残酷さの表れでなく、相手が生きている限り、自分が殺されるという妄想をもっているから、そうしないと不安なのだということを反映する、というのが一般的な精神科医の了解である。』

押さえつけ系だとこんなもんくらいですかねぇ・・・。

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テスト当日も同じことを言われたらしいですが、そらテストだもん、言わないわけないでしょ。というか、高校でこれだと、中学校時代が非常に気になるんですが。
テストで他人に点数が劣ると蹴り飛ばすとか聞いた時点で、ああ、なるほどな・・・、と思わざるを得ませんでした。

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情報量が少ない場合に、暗に批判をするなという話は不自然さが残る。

1に、「いったいどこまで情報量が足りていれ ば批判を行えるのか」という基準を、その話者は示すことはない。

2に、その話者が求めるデジタルな基準に、新聞が扱う回数が基本的には届かない。

原理的に不可能である状況下で、批判を行うなと強制することは無意味だろう。

この情報量だけで話をするなら、彼はおつむ(前頭葉)が弱い。前頭葉はブレーキだ。前頭葉がストップを出したら筋肉に信号が行かない。今回は、というか今回もその話をしよう。

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「今の子どもはすぐキレる」

要するに前頭葉機能の低下でしょう。物事を行動に移す最後の関門が前頭葉(46野)です。

「あのヤロー、ブッ殺してやろうか」と思ったって、殺さないでしょう。なぜ殺さないかといったら、前頭葉でブロックされるからです。全ての入力が最後に筋肉になって出ることくらいは義務教育を受けていれば(今日義務教育の話が出たのでついでに)わかるはずです。

喋るのも手が動くのも、ありとあらゆる出力は全部、筋肉が動くしかありません。出力するためには、運動に変わらざるを得ません。その運動の総元締め、運動になって出て行く最後の関門が前頭葉で、そこでブレーキが掛かります。

前頭葉機能が弱いとブレーキが効かないのです。殴るとかそういう行為が簡単にできる、としたら、弱まっていると論理的には行き着きます。

普通、『これ、殴ったらまずいんじゃないの?』とか思うだろう(思わないなら思わないで構わないですが私は相当危ないひとだなという認識になります)。

かっとして人殺しをするというやつは衝動殺人といわずになんというんだい、ってものですが、アメリカで40数人の「衝動」殺人犯を集めて脳機能を測定したところ、例外なく普通の人よりは前頭葉の機能が低下していた事実があります。

別な例として「連続」殺人犯を呼んで測定してみたところ、全員には前頭葉機能低下はなかったとなったものですから、扁桃体をアクセルと考えると、アクセルの踏み過ぎが連続殺人で、扁桃体の機能は正常だけどブレーキ機能の低下が衝動殺人となります。

実験したひとがいつの間にかぶつくさいっていた(http://s.webry.info/sp/higeoyaji.at.webry.info/200602/article_17.html)のであんまり強くは言いたくはないんですが、実験者の主観だけは強いように思いますので、それを差し引いてみてやるしかないように思います。私は、原因はどうあれ結果はそうなんだろ?というタイプですので。

「前頭葉機能テストの一つGO/NO-GO課題によるものだ。あの統計処理をしたのは私で、正直、ギリギリなデータだった。とにかく肝心の60年代データが少数過ぎる。いくつかのテクニックを駆使しないと統計的には何もいえない程度のものだ。だから私自身、このデータに言及するときは、相当言い訳がましくなる。」

ただ、そのあともなんだかんだ行われていたので、言い訳はもうそろそろいいんじゃないかと思います。

野井真吾、鹿野晶子、小林幸次、松本稜子、金子慧「最近の小学生における高次神経活動の特徴 : go/no-go 実験における誤反応と型判定を基に」(日本体育大学、2013.03)
http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=4&ved=0CCkQFjAD&url=http%3A%2F%2Flibrary2.nittai.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F11015%2F2023%2F1%2F42-2-111-118.pdf&rct=j&q=GO%2FNO-GO%E8%AA%B2%E9%A1%8C&ei=LYZcVZy5FIXgmAXJloHgBA&usg=AFQjCNGtmB8_FGOAEZp8xLvBODyQ812Psg

鹿野晶子、鈴木宏哉、野井真吾「小学生における高次神経活動の実態とそれに及ぼす生活状況の検討 : go/no-go課題における誤反応数と型判定の結果を基に」(子どもと発育発達 第12巻 増刊号(2015.03)所収)

子どもたちに赤ランプと青ランプを見せて、赤ランプがついたらボタンを押しなさい、青ランプが点いたら押しちゃいけない、という非常に単純なテストをした。瞬間的に押せということではなく、充分時間をとって押せばいいという、極めて単純ではあるが、実験を何度かやらせる。そうすると子どもは押したがるから、ランプが点くと間違ったランプでも押す。

低学年ほど間違い率が高い。同じ実験をかれこれ30年やっていて、32年前の小学校2年生の誤率と8年前の小学校6年生の誤率が等しい。つまり子どもの辛抱が4年遅れていた。

押してはいけないというランプが点いた時、同時に前頭葉機能を測定していると、押さないで我慢している時に前頭葉がぐっと活性化されている。

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過去に、外山先生は「発散しないのが危険」を『忘却の整理学』(筑摩書房)で述べていたが、発散の仕方がとことんヘタクソだったように思う。




続・ご勝手になさってください

2015-05-20 12:47:03 | 小ネタ
■家族旅行で「学校を休ませる」に是非 ネットで話題再燃「学畜かよ」の声も
(キャリコネ - 05月19日 20:20)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3424273

別のユーザーさんには、いや、ぜったいついてけねえよと遠い昔に言われたんですが、いや、まあなんとかなるさ的根性で以前に話をしました。私はアウトプットを重視するので、過程がしっかりしていてもアウトプットがふにゃふにゃしているのは気に食わないわけです。人並みに出来てから小学生もものを言え、と。

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むちゃくちゃつぶやきで荒れているのを見て、哀れに思いましたので一応書いときます。ニートが憲法違反の存在であるが罰則がみあたらないように、就学義務もそういう努力義務みたいなものです(正確にはあるにはあるが、実情運用されていない)。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shugaku/

 就学義務とは、日本国民である保護者に対し、子に小学校(特別支援学校の小学部を含む。)6年間、中学校(特別支援学校の中学部等を含む。)3年間の教育を受けさせる義務を課したものです。
 就学義務については、憲法第26条第2項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」と規定されており、また、教育基本法第5条第1項に「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。」と規定されています。
 これらの規定を受けて学校教育法に就学義務に関する具体的内容が規定されています。
 学校教育法では、第16条で「保護者は・・・子に9年の普通教育を受けさせる義務を負う。」とあり、次いで第17条第1項で「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」とされ、同条第2項で「・・・子が小学校又は特別支援学校の小学部の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満15歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを中学校、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の中学部に就学させる義務を負う。」と規定されています。
 なお、やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、就学義務を猶予又は免除をすることができることとされています。(学校教育法第18条)
 また、就学義務を負う者は、日本国民である保護者であり、外国人の場合はこの義務は課されていません。ただ、外国人であっても本人が希望すれば就学させることができます。
 なお、インターナショナルスクール又はいわゆるフリースクールなどへの就学については現行制度では学校教育法第1条に定める学校への就学とは異なり、就学義務を履行していることにはなりません。

 学校教育法22条第1項(小学校)、39条第1項(中学校)は保護者が子どもを就学させることを義務づけ、第91条は、督促に従わなかった場合の罰金を規定している。実状にそぐわない。実情が91条の通りならば、今頃もう少し悲惨なことになってます。

今思い返せば、就学義務不履行に伴う罰則規定は、戦前の法制にもなく、「教育を受ける義務」は存在したものの、貧困などのために、罰則を設けてまで就学を強制できなかったわけです。また、戦前は家庭での教科履修を認める条項があった割には、規制が強くなったよね、と。

そもそもつぶやきのコメントでもフリースクールうんぬんが出ていましたけど、どうしても罰則を適用したければ、特定の学校がすべての子どもに対して有益であることを立証しなければならないわけです(出来るものならば。国際人権A規約第13条第3項参照)。

したがって不就学に罰則まで設けるのは無理がある、と。

法律は「普通教育を受けさせる義務」の表現にとどめ、教育行政は親の教育選択の幅が広がるように努力していれば、それでいいんじゃないか、と思いますよ。なんだかね、って、説得するつもりがつぶやき主になさそうなんで、ああ、バカの壁、みたいなね。


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Fais ce que voudras http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1941809475&owner_id=40049699&full=1

■「学校休み海外旅行」論争 教育関係者の意見は
(dot. - 05月06日 07:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3403662

昔あったな、そんなはなし。お好きにどうぞ、と今は思うようにしています。しょうがない、イギリスは証券マンが月曜日休みなので月曜日に家族サービスしてるしかありやせんで(注)。子供が学校通ってて取り戻せるくらいのおつむがあるんならどうぞ、って。

注:「外為指標で不正操作か 欧米銀に疑惑広がる」(『日本経済新聞』2013年11月6日)解説用記事 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1915529481&owner_id=40049699&full=1

議論潰しの結論 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1915869273&owner_id=40049699&full=1

学校を休んで遊園地、賛成? 反対??
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=95&from=diary&id=2647071

ゴチャゴチャ騒がなくなる結論としては、
①教育を経産省(通産省)に丸投げ(総塾化)
②義務教育に単位制を導入(留年込み)かな。

単位制を導入する事は、要はこう言うこと(わたしゃ大学の人間だから、みんなに話してることだけど)。

大学でいう1単位というのは(あまり知られていないことだが)労働者の一週間の労働時間を基準に決められています。

1単位は45時間の「ワーク」のこと。

労働者なら月金5日8時間で40時間。プラス土曜半ドン(もうないけどね!)で5時間。

これが1単位。

学生の場合は教室で過ごす1時間につき、予習復習を2時間するものという(文科省が独自にでもないが、これは後からわかる)非現実的な前提があるわけです。

だから大学生なら教室で15時間授業を受けると、自宅での予復習分30時間が自動的に上乗せされて45時間と計算されます。

これで1単位です。

要は下駄を履かせているワケです(そのかし、学生には「あのね、いくら授業でがんばっても、自宅とかの分はやってないから点数にならないんだよね?だから、テストの下駄はありません」みたいなことをですね・・・)。

この発想をせっかくですから、義務教育に導入しましょうよ、と。
これなら、休もうが休むまいが、ばかな子には「あのね、授業外で何とかしなかったキミが・・・」(なんて、言えるかな・・・まあ、言うんだよ、そうなったら!)。

ちなみに、通常の大学は90分授業ですから、15週だと、1.5×15=22.5時間になります。

予復習(しないけど)45時間を加えて、67.5時間になります。 どう計算しても1.5単位にしかなりませんが、日本の大学はこれを2単位と切り上げる「習慣」があり、124単位(知り合いの中○大学はなんか学部によって132単位とか必要みたいですけど)積み上げると「学士号」が貰えます。

いかにも経産省がやりそうな発想ですね、わたしが経産省の人間だったら、確実に提案してますよ。


経産省に教育機能を移譲することについてだが、予備校や塾は受験勉強「だけ」を教え、成績「だけ」を重視し、子どもの「人格」をきっぱりと無視する点が重要視されるからだ(無視しない塾は社会的に重要性を持たない)。

極端に言えば、チックを起こしていようと、ヘビースモーカーであろうと、上着の裾からパジャマがはみだしていようと、よだれを垂らしていようと、予備校や塾ではそんなことには誰も注意 を払わない。

ましてや誰もとがめない。

だからこそ、予備校や塾で「解放感」を味わうということが起こりうる。

学校が抑圧的なのは、そこが個人の「人格」を無視しているからではなく、個人の「人格」 だの「個性」だのというものが過剰に言及されるせいだ。

「成績がよいからといって思い上がってはいけません」だの「成績が悪いからといって人間のゴミであるわけではありません」というふうなことを予備校の教師は何があっても口に出さない。

予備校教師は「成績」と「人格」のあいだには何の関係もないということを熟知している為だ。 

予備校教師は、自分たちの仕事は生徒の成績を判定することだけで、生徒の人格についてはコメントする立場にないということを弁えている。

成績と人間性のあいだになんらかの相関があるだのないだのと騒ぎ立てるのは教師だけだ。

彼らは、成績の判定だけでは生徒を「屈服」させることができないことを知っているがゆえに、執拗に生徒の人格や個性について騒ぎ立てる。

教師は善意の人であり、教育的情熱にあふれているケースが大半である。

しかし、教師に対して立場上採用している従順で注意深い態度を、人格的な上下関係ととりちがえて、「人間的に訓育する」権利と「責任」が自分にあると思っている。

教えられる側が「立場上採用している従順で注意深い態度」を教師に対する人格的恭順のサインだと取り違える誤りをまず教師の大半は抱いている。

そして、そもそも学校教育に何も期待していない生徒の無気力な態度を教師に対する人格的反抗だととり違える誤りも、教師の大半は抱いている。

推奨することは、学校からいっさいの「人格教育的要素」を排除し、限定された技術と情報を「オン・デマンド」で伝え、習う側には適切な対価と必要なルールの遵守だけを要求するようなビジネスライクな学校ならば、いくぶんはましになる。
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おまけ

義務教育過程の留年(原級措置)は、幼稚園から実はブラジルがやっていたりして、ブラジル根性あるな、とは思っているんですが・・・。(大阪の橋下市長が「小中学生でも学力のレベルに達しない場合は留年させるべき」と発言して、教育委員会に義務教育過程での留年を検討するように指示したと言うニュース等)

http://mixi.jp/view_diary.pl?pt=1424166224&content_id=3278169&route_trace=010002700000&destination=diary%2F503142-1938901881&sig=f1184e616ac9bc8e2324f97ff718c1d81f7d6a52&from=news&id=1938901881&owner_id=503142
[mixi] みかんみずさん 家庭の問題?

http://ohimhouse.cocolog-nifty.com/me_like_chocolate/2012/02/post-c37a.html
日本では義務教育での留年は実質上無いに等しいので、「同じ学年=同じ年齢」を意味するけれど、アメリカでは義務教育過程での留年(特に小学校低学年での留年と高校生の留年)は珍しくないです。アメリカの義務教育は(州によって違うけれど)、日本の幼稚園の年長あたるキンダーから、高校3年に当たる12学年までの13年間。小学校のうちは学級制で全教科同じクラスメイトと一緒に勉強する。中学校からは教科毎の習熟度別のクラスで、教科毎にクラスを移動、一人一人で時間割が違うし、学年の違う生徒が同じクラスで勉強することも多い、日本の大学のような感じです。
小学校では、学年末に実施される全国学力テストで留年かどうかが決まります。
学力テストの学校平均点が低いと、学校への補助金が削られる(教師の給料も減る)ので、教師もおちこぼれを作らないように努力するし、学力テストで一定のレベルに達していないくても、夏休みにサマースクール(有料)に通って補習を受けて進級できるレベルまで学力を伸ばす努力をするので、ほとんどの子は留年せずに進級できていると思います。留年とは逆に、学力レベルの高い子は、飛び級でより上の学年に進級できます。小学校で留年(飛び級)すると目立つけれど、中学校以上になると単位制なので、成績不良や出席不良で単位数が進級するのに足りなかったら留年になりますが、元々クラスが違う学年の子で構成されているので、誰が留年しているのかわかりにくいです。中学・高校でも、落とした単位を拾うためのサマースクール(有料)に通って進級に必要な単位を取得する子もいます。 

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効果としては、大学入試の受験浪人と同様で、留年を経験した児童はそうでない児童と比較して、進級するほどに学力で遅れを取っていき、しかも、同学年内で比較しても、留年直後に持っていたアドバンテージは長期的には消滅してしまうことが確認されています(http://synodos.jp/education/1396)。

でも、正直効果より、これが私が仮に担当するにしてもきついのです。

http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20120226

(反対理由)

1 「何でも同じ」が平等と考える日本人の中で、義務教育期間中の学力未達を理由とした留年は、その後の人生でのハンディキャップとして大きすぎる。
※ 私は、日本人の平等観を是としませんが、義務教育留年をするような子どもが海外に雄飛する確率は極めて低いので、彼はその後の人生を日本で過ごす前提で考えるべきです。
2 「留年するかもしれない」という恐れは学習のインセンティブになるが、留年してしまった者が学習へのインセンティブを持ち続ける可能性を低いと予想される。
3 高校や大学では、「出席」と「修得」のいずれかが欠けた場合に「留年」となる。
それとパラレルに考えるならば、不登校児童・生徒を全員留年としなければ留年制度の公平性が保てないが、現在圧倒的多数の不登校児童・生徒は進級・卒業している。
※ 彼らも全員留年にすれば良いという過激な意見もあるでしょうが、35歳引きこもり暦25年の中年に小学校4年生からやり直せという勇気は私にはありません。





よかったですね

2015-05-19 21:23:00 | 小ネタ
「ペヤング」ついに復活へ! 関東は6月8日から販売再開
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=3423983

だいぶきれいになったんでしょうか(そら前があんなんじゃあ、虫も入るわな、とは思いましたが)。とりあえずよかったですね。

私は逆恨みみたいなやつはほんと好きじゃないんですよ。それが本当だとしても、都合の悪い、信じたくないことには人間はなんでも目をつぶるものですから。それをわかっていて言いますよ。

理屈には理屈でかかってこい、と。だいたい感情だけで話すとイイネがつきます。感情だけで話しても目をつぶってよかったかもわからないのは昨年の12月までです。

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またでたよ http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1929340679&owner_id=40049699&full=1

■ネットの普及で“ゲーム化”した日本のクレーム文化
(日刊SPA! - 07月11日 09:32)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=2963038

これ、こんなこといわれてよく不愉快になりませんね。おれはクレーマーより、このライターに不愉快になりましたよ。

「企業はお客を甘やかすべきか、厳しく育てるべきか。それとも、消費者自ら不満をのみこむべきか。」

銀英伝レジェンドとなったアメリカのマックコーヒー裁判の話を「オチまで」思い出せばわかるはずです。

・被害者は駐車場に停めたクルマの助手席 で、砂糖とミルクを入れようとして(テイク アウトで買ったばかりの)コーヒーのフタを 開けようとして、脚にこぼしてヤケドした (その意味では被害者にも責任はあり、裁判でも被害者側に2割の責任があったとしている) 。

・ただし、そのヤケドは皮膚移植が必要なほどの重症で、治療に1万ドル以上かかった。
被害者はマクドナルドに、保険でカバ ーできなかった治療費と、コーヒー容器の 改良を求めたが拒否されたため、訴訟を起こした。

・裁判の過程でべつの事実も明らかにされ た。コーヒーでヤケドしたという苦情が、 過去10年で700件以上も寄せられていたにもかかわらず、マクドナルドはそれを無視し、なんの対策も講じようとはしなかった。

・陪審員はその事実を重く見て、企業側の責任を問うことにした。
対策を講じなかったことで得たコーヒーの利益を算定し、補 償的賠償16万ドル、懲罰的賠償270万ドルを課す判決を出した。
なお、これは陪審員全員一致の判決だった。

・裁判官は陪審員が決めた賠償額を48万ド ルに減額した。
その後、原告と被告のあいだで非公表の金額による和解が成立した(だから実際にもらったのはせいぜい日本円にして数千万円)。

・アメリカの大企業の経営者たちは、この 事件に批判的な論調が世間に広まったのを好機ととらえ、巨額の資金を投入し、消費 者の権利を制限する法律の制定に動いた。

・「巨額な医療訴訟を起こす不届き者が増えたせいで医療費が高騰し、一般の消費者がわりを食っている」などと巧みに宣伝した結果、市民の支持を集め、州によっては賠償額に上限を設ける法律が施行された。
しかし、賠償額が制限されたにもかかわら ず、医療費の高騰は以前より激しくなって いる(医療費が高騰する真の理由は、製薬会社 と保険会社が巨額の利益を得てるからだ) 。

・企業が従業員や顧客と契約を結ぶ際に、 従業員や顧客は企業を裁判に訴えることはできず仲裁で解決する、という強制的仲裁条項を契約書に盛り込むことも合法化された。
しかもその仲裁をするのは企業側が選んだ人間である。

実際、アメリカでは雇用契約やクレジッ トカードの契約に、この強制的仲裁条項が盛り込まれることが増えてきました。この契約をすると、たとえ会社のミスで不利益を被っても、裁判に訴えることができないのです。

たとえば、軍事産業の会社に雇われイラクに派遣された女性が、同僚に集団レイプされたにもかかわらず、強制的仲裁条項が契約書にあったため、会社側の管理責任を裁判に訴えることが出来なかった例をあげています(NHK BS『ホットコーヒー裁判の真相』(2012.03))。

強制的に仲裁で解決し、裁判は起こせないという契 約が有効になるのならば、もはやアメリカの法制度は機能停止したも同然なのです。たしかに許せないヒドい例もありますとも。
ちかごろ世間に「苦情をいうのは個人のわがま まである」「クレーマーはすべて悪」という空気がだんだん強くなってる感があるのも否めません。

小田嶋さんならご存知でしょう、東芝クレイマー事件。アレからですけど、私も今日、ビジネス法務という雑誌(法律家はたまに読むやつがいます)を読み返していて気付いたんですね。このライター、多分調べてないでしょ。あれ(東芝クレイマー)は対応が悪すぎたんです。あれから法務関係者も神経をとがらせるようになりました。確かマイカル裁判を調べてる最中に目に付いたので、2002年のどっかの号です・・・と思い出しましたよ。

金井高志 「『プロバイダー法』で発信者への責任追及が容易になった!ネット上の誹謗・中傷と企業の対応Q&A」(中央経済社『ビジネス法務』(2002.08))

それでなくとも日本の社会はもともと、 異論に対してとても不寛容でした。和を乱すな、空気を読め、などといって、正当な主張まで門前払いして泣き寝入りを強いるのが、日本人の得意技だったのです。それに加えて、クレームはすべて悪、文句をいうのはモンスター、とする風潮が加わったら、批判も権利の主張もできない硬直した社会になります。

頭の悪い人は、世の中はバットガイかグッドガイの2択しかいないとしか考えてません。バカなので。頭を使いたくないのです。そんなやつにクレイマーを説かれたくありません。面倒でも個別に判断して対処するしかないんです。

最終的には、アメリカみたいに拳銃免訴みたいなのが起きます(これは間違いない)。アメリカでは、銃メーカーに対する製造物責任訴訟ではほとんど敗訴が続いております。 たとえば攻撃型マシンガンなどは目的が殺人しかありやしません。そんな中、あるメーカーは銃把に指紋が残らないような特殊加工を施し、それをセールスポイントにしております。このマシンガンによる乱射事件の被害者たちが、メーカーに対して、製造物責任訴訟を起こしました。

しかし敗訴しました。銃メーカーに対する相次ぐ損害賠償請求に、業を煮や したのか、いくつかの州では、「銃メーカーについては製造物責任を免除する」という州法を制定しました。例えば、テキサス州ではブッシュが知事だった時代に 銃メーカーの製造者責任を免じる州法を制定されていました。こういうことを少しも調べないで知ったかぶって一番最初の締めをするバカライターがいるから、おれは頭にくるんです。

まあかわいいもんよ http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1938112364&owner_id=40049699&full=1

「マクドナルドを批判する人、擁護する人」の消費者心理とは?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=77&from=diary&id=3245122

この記事は、まだかわいい方です。いや、マシです、はっきりいって。まるか食品(ペヤング)の時に必ず出るだろうな、とは思っていた批判をそのまま適用していたものがあって、ほんとに半世紀経ってもその理屈でごり押ししたいんだな・・・と、憐憫の情すら湧き立たせてくれたわけです(いや、ほんとに)。

ペヤングのときの
http://nnt-sokuhou.com/archives/41780582.html

管理人は「あとネットでのツイッターに上げた大学生に対する非難も。「バカな大学生のせいでペヤング工場で働く人の仕事を奪うことになったらどう責任とんの?」とか本人に凸しまくってる人がいたようだけど、そう思うんなら本部に言えよと。」ということを仰っていたわけなんですが、

マックになったら、

元社員の記事が大反響!マクドナルドスタッフから寄せられた感謝の声と悲痛な叫び
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9706758/

「売上げが下がれば、まず行われるのはアルバイトスタッフのシフトカットです。売上げが上がらないのに、お店でアルバイトスタッフを遊ばせておくことは出来ないので、希望通りのシフトを入れてあげることは不可能。特に主婦スタッフは生活費を捻出する為にパートに来ている方が多いので、今回の騒動でシフトをカットされ、生活費に打撃が出た方は多いでしょう。マクドナルドの店舗数は3,000を超えます。私の経験上、規模の小さなお店でも昼間のピーク時間は主婦スタッフが5名以上は働いています。つまりは最低でも15,000人の生活費が減ったということです。恐らく自分の希望のシフトが入れないということで、退職したスタッフや、もう一つ仕事を探しているスタッフもいると思います。」

これって、正直、15,000人の生活のためなら、客が嫌な思いをし続けてくれた方が極端な話ありがたいっつってるようなもんなんですよ。

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何かあると人は後ろを振り向きたくなるものです。そういうものです。

「悪者探しがはじまった。規制当局は投資銀行を、投資銀行は格付け機関を、格付け機関はクオンツやアナリストを、そしてクオンツやアナリストは、元になった論文を書いたリーを批判した。最後に残ったリーは後ろを振り向いたが誰もいなかった」(森平爽一郎「解題」(『証券アナリストジャーナル』(2014.03)所収)P3)。

人は都合よく過去の出来事には目を背けるものです。それは例外だからだ、はたまたいや、プロテクティブ・ベルトにダメージを負っただけでハードコアにはダメージを負っていないから・・・。

ツイッターが出来たからこんな・・・とか昔に遠い目をはせるやつ。まさか伝言ゲームなら潰れないとでも?

豊川信金はなんで取り付け騒ぎが起きたんですか?あれはインターネットを介さない取り付け騒ぎでしょうが。この手の発想で豊川信金が出て来ない時点でダメですね。

ツイッター民「ペヤング大学生は実名を公表しろ」
http://alfalfalfa.com/archives/7681146.html

の「調味料@清水亮 @tyoumiryou2525
ペヤングが販売中止になったことで会社が潰れたら、何の力も持たない人間がツイッターでたった一言呟いただけで、大企業を潰したって事になるんだよな。呟いた人間が周りから恨まれ続けるという事も考えると時代の恐ろしさを感じますね。呟く事で潰れ、呟いた人間も潰れる。ツイッター恐るべしだ。」

はポパー的に考えると胡散臭いんですよ。豊川信金の高校生がどうなりました?何もなってないでしょう。

清水のアホさ加減はいろいろな面から見えてくるのですが、もう伝言ゲーム自体が恐ろしいって30年前から言われているのに何をバカなことを言っているのでしょうか。

「ひろりん@低速飛行 @peonypurple @aria0419
勘弁してくれじゃないだろ、誹謗中傷は覚悟しないと。
貴方は氏名公表したくないからTwitterであげたのでしょう?そこまでしてでも権利を主張したいのであれば実名公表のリスクを負ってでも告発するなり方法はあるでしょうに。」

実名を公表したらどうなるかこの年頃の子は知らないでしょうから教えましょう。1968年、四日市海上保安部警備救難課長の任にあった田尻宗昭さんは、石原産業・日本アエロジルとふつうに正面からぶつかりました(その時の話は田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972.04)にて。当時買ったのは第17版です)。




国家機関として四日市の公害に立ち向かったらどうなったか?当時四日市の働き手の勤め先はだいたいこういう工場だったんです。家族ぐるみで嫌がらせです。田尻さんになんと言うんです。公害はしょうがないと?見逃せと?おれはそういうやつがホント大嫌いなんですよね。なんもわかってない。目の前のことを見逃すやつが他のことなんかできませんよ。バカにしてますよね。もしこういうやつが当事者になったら、絶対にこんなこと言ってませんよ。おれは本当にこういう口だけのやつが本当に憎いほどに嫌いなんです。こんなツイートをする奴に責任のある仕事をさせてはなりません。

ツイッターの影響力を考えられないのか、といいますけどね、そういう人はツイッターがなくたって、インターネットがなくたって言うんですよ。ただの権力の狗ですよ。46年経つのにまだこの有様ですか。本当に歴史からなにも学ばない愚かなユーザーだな、と思います。今のコンシューマは46年前の四日市市民と何ら変わらないのです。

「Hegel bemerkte irgendwo, da? alle gro?en weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzuf?gen: das eine Mal als Trag?die, das andere Mal als Farce.(ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲル は、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と)」(Karl Heinrich Marx、市橋秀泰訳『Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)』(新日本出版社、2014.01))???

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まず訴える前にやることがあるだろう、何て言われましたけど、やることやってたってネチネチ言われるんだから、はっきりいって、どいつもこいつも言われたくないだけなんですよ。