Air’s blog

ハイセンスな暮らしをめざして・・・

~Advance interior residence~ 

KY

2007年10月03日 17時16分11秒 | 本の話


いきなり何だ?と思われるかも知れないが、今日は建築とかインテリアからはすっかり離れたお話し。
なので、さらっと読み流してもらえるとありがたい。
いつも訪れてくださっている方はもうお気づきだと思うが、変化をわかりやすくする上でも文章の表現方法が違う。読み返すとなんだか偉そうな感じもしてしまう。そこはどうか大目に見てやってください。


さて、話をもとに戻して「KY」。最近の若者ことばなのだけれど、かなり有名になってきたので、みなさんもご存知だと思う。

KY・・・つまり「空気読めない」

最近の若者(って十分私も若者≪・・・と思っているのは私だけ?≫なのかも知れないけれど)の中では、四字熟語が読めなくても問題はないが空気が読めないことは大問題なのだと、何かの記事で読んだことがある。

「~みたいな」「~感じ」「~なくない?」など、時折大人たちはそんな若者の曖昧な表現に難色を示すが、現代の日本社会で生きる中で、大胆な自己主張をせず、まわりと協調し、みんなが気持ちよく過ごすことのできる彼らの会話術なのかも知れない。

そう。KY・・・つまり空気が読めないために、失脚していった近年のたくさんの大人たちから無意識の内に学んでいるのだろうか。


先日、ある本を購入した。
「王様は裸だと言った子供はその後どうなったのか」

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)
森 達也
集英社

このアイテムの詳細を見る




タイトルを見て興味を持ち、レビューを見て尚読みたくなった。と、いうわけで早速ネットを通じて購入を試みたのだけれど、これがとても時間がかかり、手に入れるまでに約2週間を費やした。

この本は、王様が裸だといった少年を「空気が読めなかった」鈍い子どもだとして展開する「王様を裸だと言った少年はその後どうなったか」という話に始まり、日本の民話やイソップ、ギリシャ神話、ついには仮面ライダーにまで手を伸ばした、簡単に言うとパロディなのだが、そのナナメからというか素直じゃない感じになんだか好感を持ってしまった。


以前に何かのドラマの1シーンでこんなものがあった。


「シンデレラはその後、幸せになったかどうかなんてわからない。これまで生まれ育った環境の違いに、うまくいかないかも知れないし、お姑さんとうまくいかないかも知れない。現実には、結婚した後の生活があるのに、王子様と結婚したことがハッピーエンドだというのはおかしい」

といったようなもの。

その時、うまいこというなぁ。と感心した。


そう考えると、日本の国語教育はやはり若干のムリがあることに気付く。
小学生の頃に学習した、文章の一つ一つから、その登場人物の心情や物語の趣旨を読みとるというもの。
私は、ごくごく普通のサラリーマンの家庭で生まれ育ったのだけれど、何の不自由もなく、どちらかと言うと、というより今から振り返って考えると、相当甘やかされて育ったせいか、全く真っ直ぐ、素直に育った。だから、当時の先生が求めている解答を正確に答えていたし、それ以外の思考が働かなかった。


でも、大人になったいま、考えてみる。
本当にそうだろうか?


そういえばこんな記事もあった。


社会には答えがない。
答えのある学生時代を過ごし、社会に出た20代の前半は、答えを探して不安を感じた。28歳を過ぎた頃だろうか、そもそも社会には答えなんてないことに気付く。そうして見えてくるものがある・・・。

みたいなものだった。
さっきから引用しているものは、どこかでふと目に留まり、私の頭の中でいくらかの時間を過ごしているので、私の主観がふんだんにプラスされ、都合のいいように変化している可能性があるので、これまた真剣にとらえず読み流してもらえればと思う。


というわけで、答えのない社会で生きていることをそろそろ自覚し始めているいま、改めて子どもの頃に触れた物語を読んでみる・・・。
たしかに、矛盾が見えないわけではない。



そう考えると、ふと怖くなった。
もしもあの時の私の過ごした時代背景が62年前の日本だったとしたら・・・。




さて、作者の森達也さんはこの書籍の執筆にあたり、「お伽草紙」を挙げ、時局が戦争やむなしの方向に傾きかけ始めている頃から太宰治が意欲的に選択し始めていたパロディに注目。それは、言論や表現への統制・検閲が強化されつつ時期と重なり、時局が激しく変わりつつある時代背景の中での執筆だったと指摘する。
そして現在、「戦後レジームからの脱却」を時局の変化だと捉えるところから、既成の物語に触発されて創作するというこの手法を僕も試してみようと思いついた。としている。


このあたりで、もうすでに私が意志を持った大人であることに安堵する一方、時局の変化という言葉に改めて不安を覚え、そしてこれを書きながらあることに気付いた。


「戦後レジームからの脱却」って誰が言ったんだっけ?



とりあえず、景観法のドタバタで訪れてうんざりした国交省のホームページを再び訪れてみることにした。期待は空しくそんなには変わっていなかった。記憶が正しければ、あの言葉の文字サイズは随分小さくはなったと思うけれど。


さて、肝心の本の内容なのだけれど、とにかく面白かった。期待通り、というか期待以上。でも、購入前に想像していたものとは随分違う印象を受けた。もっと、ひねくれた捉え方で展開されると思っていたのだけれど、実に筋の通ったお話しだった。



昨日、出張先の松山に向かう列車の中でついに最後のページをめくったのだけれど、最後にはなんだか少し悲しい気持ちになった。そして赤鬼のことが愛おしくなった。


今日も最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。帰りにワンクリックお願いします。
人気blogランキングへ