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サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

人をくったお話

2011年03月10日 | Weblog
     人を食った話
 広辞苑での解説では。「人を小馬鹿かにしたような言動をとる。」とあるが、今日のお話はちょっと違う。平成23年3月5日の高知新聞に。  祖父たちの戦争「命つないだ食料」を読んで、やっぱり噂話ではなかったのか、と思った。戦後いろいろ戦記ものの記事が本になったり、新聞等で報道された。そして復員者の話も色々聞いたが、「人の肉を食った」事をはっきりと言った人、またその事を記事に、活字にしたものを私は見たことは無かった。これを記事にし、新聞に載せた事は勇気?のいった事ではないかと思う。ヒリピン山中で戦友の肉を食ったとかの噂話は聞いた事があるが。こう新聞にはっきり書かれると、ちょっと息を飲む。これは戦後六十何年を経てやっと記事になったのだと思う。
内容はニーギニヤ戦線で餓死寸前の日本兵が敵兵の肝臓を取り出し食らったとの事、これが大変体を元気にしたとの記事。まことにぞっとするお話。私達はこの事実を肝臓(きも)に銘じて、この平和のあることを忘れてはならない。
これは世界史に残る悲惨な戦争の記録となるとおもう。サブロー

草鞋を履いた関東軍       21

2011年02月27日 | Weblog
     草鞋を履いた関東軍     21
   2011-2

汽車は真っ黒な煙を吐いて南へ南へと走り出した。私達を乗せてくれたのは無蓋車なので、その煙をまともに受けながらの旅であった。みな痩せ細った黒い顔に目玉だけが光っている。それでも歩く事を思えばまことにあり難い事、見知らぬ町や村。故郷を思い浮かべながら汽車に揺られていた。これで釜山(プサン)まで行って、そこから船で日本へ、後三、四日で我が家に帰り着けるのだ。嬉しさで胸いっぱい、家の両親兄弟、なんぼか心配しちょるろう、早う帰って吃驚させたい。そんなこと、あんな事思いながら列車は走る、走る。
やがて汽車は夕方近く鉄(てつ)原(げん)(チョルウォン)と言う駅に着いた。こんな小さな田舎の駅にどうして停ったのだろう。暫くすると四、五人、例の自動小銃を持ったソ連兵がやって来て。ここから南へは何人も通さぬと言う。通行の証明書を見せるが。通してくれない。この先にソ連軍と、連合軍と占領しあった境界線が有るらしい。この証明書では通すことは出来ないと言う、これは困った。してみると、どうして朝鮮の公安委員は私達をこの汽車で此処まで送ってくれたのだろう、朝鮮側も知らなかったのであろうか?朝鮮側は出来るだけ日本人を本国に送れば厄介者が居なくなると言う勘定。ソ連側は、わが占領域にとどめて使役にでも使おうとの思いだろうか。とにかくここより一歩たりとも日本人は南へ通さぬ構えのようだ。私達はこんな境界線があるとは夢にも思っていなかった。終戦に関してはなんの情報も、我々は知る事も、知らされることも無かった。
これからどうするか、色々思い思いの事を話し合ったがまとまらない。それもその筈、終戦のこと、朝鮮の事、何の知識も無くここに突き当たったのだ。相談する人も居ない。ソ連兵もどうしろとの指図もない、ただ此処からは南へは行かさないと言う事だけははっきりしている。そうこうしている内に夕闇が迫って来た。すると又ソ連兵が来て、銃を振り回しながら、今度は鉄製の有蓋車貨車に乗れと言う、小さな窓が一つ有るだけの暗闇に全員詰め込まれた、詰めて、詰めて、前の者は銃の床尾板で殴られながら詰め込まれた。この状態で一夜を明かすこととなった。皆横にはなれず重なり合うように座る。それでも疲れていたので、うとうとは眠る事が出来たが、つらい一夜となった。
朝早く頑丈な鉄の戸を開けてくれた。皆トイレに走った。さて今日はどうなる事か。仕方なく引き返す事にはなったが、何処へ行くかが、決まらない。何処か大きな町へ、平壌(ピョンヤン)か、咸興(ハムフン)か、元山(ウォンサン)か、との意見が出た。しかし誰もこれ等の町へ行ったこともなければ、その都市の名前すら今聞くのが初めての者ばかり。しかし何処かに行くしかない。ままよ一番近い元山と決めた。都合よく汽車は私達の言う事を聞いてくれ、夕方近く見知らぬ都市、元山駅に着いた。ここでは、終戦後、直ちに街の有志により戦災避難民の相談、援助、そして、ソ連側や地元朝鮮人の要求する使役の割り当て等、敗戦後の日本人の世話をすると言う、誠に崇高な奉仕の心を持った人々が会を創り活躍していた。私達は有難くもこの会のお世話になる事になった。私達のように集団で満州から避難して来たのは初めての事、又少年ばかりなので世話会も、その取り扱いに苦慮しているらしい。やがて会の人より、突然の事で今日はどうする事も出来ない、今晩はこの駅で泊ってくれ。とのことであった。私達は久しぶり屋根の下で寝ることが出来た、足も伸ばす事ができた。
寒さで目を覚ますと早くも昨夕から世話をしてくれていた、世話会の人々が来て何かと面倒みてくれる。朝飯として大きな魚の丸干しした物を下さる。三郎達は、こんな魚は見たことも無かった。口にするとカスカスとして味もしゃしゃらも無いが空腹に久しぶりの贈り物であった。
少年ばかりのこの避難民、日本人世話会ではいろいろと思案の結果、今元山市内に在住の日本人家庭に引き取り世話をする事になったとの事。ただでさえ苦しい終戦後の生活、そこへ他人を引き取り世話をすると言う事は並たいていの事ではない、敗者となった日本人に対し、ソ連は勿論の事。朝鮮人のお返しは厳しく、自分の家庭を護るだけでも必死のところへ、見ず知らずの少年を抱え込むのだからたまったものではない。やがて三郎も数名の隊員と共に配られることとなり、一人の青白いインテリ顔の小父さんに連れられた。とぼとぼと街中を歩き始める。そして一人、また一人と預けられて行く、各家とはよく話が出来ていてかスムーズに引き取ってもらえる。三郎はなかなか配ってもらえない、最後の一人となった、、、、、、、、、つづく

有難う

2011年02月22日 | Weblog
私のブログ見ていただいて有難うございます。店の暇な時はパソコンに向かっています。拙文ですが見ていただいているとは大変励みになります。また次をこれから思い出しながら書きたいとおもっています、乞うごきたい 信子様      三郎

草鞋を履いた関東軍     20

2011年02月19日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍     20
   2011.2

 真っ先に開放された私達中隊は、日本に帰るのに、どの方向に歩けばよいのか分からない、地図も無ければ、教えてもくれない。ただこの鉄道を南に向かって歩けば朝鮮に出るだろうと思うだけ、この満州に来た時、朝鮮の羅津から汽車に乗ったのだが、ここ東京城(とんきんじょう=トンチンチョン)に着いたのが夜明けであり、沿線の景色も何一つ見る事も無く、この駅に降り立ったので、どちらに歩けばよいのか、また道路が何処にどう通っているのかも分からない、とにかくこの鉄路を南に歩く事に決めた。
 それにしても、あの一緒に収容されていた関東軍の兵隊や、一般開拓民の人々はどうなったのであろう。今になってやっと関東軍の様子が少し分かってきた、日本兵から漏れ聞くところによると、開戦当時、関東軍の主な精鋭部隊は一部を残し南方の戦線へ移動し、その後に現地召集で急ごしらえの新兵をこれに当て、員数を合わせていたようだ。しかし戦闘訓練は出来てなく、また銃さえ無かったそうである。これでは戦さは出来なかったであろう。
そうだ。あの関東軍の大親分は、とうの昔、草鞋(わらじ)を履いていたのだ。わが郷土部隊、朝倉の44連隊も南方や本土防衛に、密かに転戦していたようである。
 しかし一部残された関東軍の精鋭はソ満国境で、又牡丹江の防衛に死力を尽くし奮戦したとのことである。そうだ、その戦いで生き残った兵隊が、我々と先に出逢ったあの草鞋(わらじ)を履いた兵隊であり、沙蘭鎮の攻防で無残な死を遂げていた兵隊さんであろう。
 三郎は今更ながら、その激戦の様子を想像しながら、この図佳線(図門から佳木斯(チャムス))の鉄路の枕木に、わが歩幅を合わせながら一歩一歩日本へ日本へと歩を進めるのである、朝鮮までおよそ400キロ、100里はあると言う。食糧も持たず、先のわからない苦難の旅が始まった。
2キロほど歩くと、この線路より数百メートルほど離れた所に、日本人の婦女子が収容されていた。われわれの通るのを見付けて一人の中年女性が、「待って、待って」と大声を上げながら駆け寄って来た。「どうか私達も連れて帰って」と泣きながら訴える。
しかし私達は人数に合わせての証明書、どうする事も出来ない、その理由を話し、まことに気の毒な事ではあったが、断わざるをえなかった。そこの収容所には女な子供、百数十人が収容されているとの事であった。
夕方近く長いトンネルの入り口に来た。入り口の両側には塹壕を築き銃眼が備えられていた。日本軍がこのトンネルを護る為のものであろう。
私達、今日どのくらい歩いたであろう、開放第一日目の嬉しさもあって、ちょっと頑張り過ぎたか、皆へとへとになった。今日はこのトンネルで寝る事と決まる。食事は各自、ポケットの底にある大豆である。大豆は線路脇の畠で盗んで来たもので、それを空き缶で炒り、ポケットに大事に持っているのである。有難いことに、この時季、満州は農作物の収穫期であった。
暗くなって来たので、皆それぞれ、文字通り枕木を枕に寝る準備をしていると、ゴオーゴオーと地響きの音、「そら‼汽車が来た!」一同あわてて両側の壁に張り付いた。その音が近付いてくる。それは汽車ではなく線路の補修点検用の、手漕ぎの台車であった。我々も吃驚したが、その満人達も危険を感じたのか全力で漕ぎ、逃げるように走り去った。
一夜明け、それからの毎日線路伝いの行軍が続く、橋はことごとく爆破されており、その破壊された部分は枕木を使って、川底から升目に積み上げ補修されていた。駅の在る所は満人の集落が在るので危ない、そこは急いで通過する。満州では駅と駅との間が随分と遠いので、その中間に信号所がある。その信号所には鉄道を護る番人が居り、その宿舎もある。付近にはその人達の生活の菜園場が有った。これは有難い、荒野の中の一軒屋、その周りには西瓜、マクワウリ、ジャガイモ、カボチャ、色々の野菜があり、その主は何処かに避難したのであろう居なかった。これは我々に天から与えられた贈り物、助けであろう。今夜はここで泊ることとなった。それからは、毎日この要領を覚え信号所で泊りながら南へ南へと歩く。
何日歩いたであろうか、その線路の、要所、要所にソ連軍が駐留して警備をしている。そこを通過する場合は勿論通行証明書を調べられる、そして全員のリュックの中を探られる。そしてめぼしい物は全部取り上げられる。時計、万年筆はいの一番に取られた。守備兵全員が気のすむ迄探り終らなければ通してくれない。すべての検問所でこれの繰り返しである。終いには我々から先にリュックの中身を広げて、どうぞ好きな物を取って下さいと提示するようになった。
ある日は守備隊の隊長、カピタンが酔っ払っていて、部下の自動小銃を取り、我々の頭上向けダダダダーとぶっ放す、弾が無くなると、つぎの兵の銃をとり、これをもぶっ放す、一回引き金を引くと70何発かの弾が飛び出す。この酔っ払った将校が、銃口を少しでも下げれば我々は皆殺されていたであろう。気違いに刃物だったが、幸いここでも命拾いすることが出来た。撃って我々を威嚇すると言うより自動小銃の性能を誇示したかったのであろう、日本軍にはこんな性能のある銃は無かった。
線路は次第山深く急勾配で上がっていく、ここは老爺嶺(ろうやれい=ラオイエリン)山脈の中らしい、ここの線路脇に唐辛子を真っ赤に屋根に干してある、朝鮮人特有の集落があった。そこを通っていると、そこの住人達が大勢出てきて我々を遠まきにして近づいて来た。
我々が日本に帰る事を伝えると、いかにも納得し難い表情で我々を見つめていた。この人達も日本の国策によりこの満州に入植して来た人達である。日本が負けた今、この朝鮮人は、どのようになるのであろうか?日本人の様にソ連に拘束はされなかったようであるが、満人はどのように、この人達に対処しているのだろう。落ち行く私達を見て、他人ごとではないと見ているのであろう。
長い事歩いてきた私達の中に、靴が破れたり、靴づれで靴が履けず裸で歩いている者が数人いた、それを見かねてか、この人達、わざわざ新しい草履(ぞうり)を持って来て私達に履かせてくれた。有難いことである。今度は草履(ぞうり)をはいた義勇軍となった。 
日頃朝鮮人をみくびっていた日本人、今此処に日本の少年達に同情の草履を恵んでくれる。誠に有難い、感謝の気持いっぱいで此の集落を後にした。
其処よりしばらくのところに老爺(ろうや)駅があった。この辺りが満州から朝鮮方面へ越す標高最高の峠であろう。見渡す限り山また山、斧鉞の入らない山岳地帯である。この辺りに、山下将軍の財宝が隠されていると言う、この秘宝はマレー半島や、ヒリピン方面での戦利品。山下将軍は先年関東軍、第一軍の司令官としてやって来た。そ際、その莫大な財宝をここに隠匿し、来るべき決戦に備えたとの噂である。
ここは関東軍が朝鮮を護る最後の砦である。この老爺嶺、これに続く長白山脈に立て籠もり、あくまでもソ連の進行を食い止める作戦であったようだ。
鉄道は益々急勾配となり、線路はループ式トンネルとなっていた。その中は何箇所も日本軍が防衛のため爆破していて、今だに汽車は通ることが出来ない、したがって我々も鉄道を当てにして歩いていたのだが此処で線路と別れ、それらしい道を探し、やっとトンネルから出てきた線路へ再び出る事が出来た。頼りはただこの線路のみである。誰もが疲れ、ただただ黙して歩くばかり、すると何と日本の将校が日本刀を引っ提げ、一個小隊くらいの満軍の兵隊を引き連れ、われわれと行き違いとなった。そこでしばらく色々と立ち話をしたのだが、その将校はこれからあの山へ登る。「お前達元気で日本に帰れよ‼」と言って、その兵を引き連れ山に消えた。私達は不思議に思えたのだが、あとに聞くと、毛沢東と、蒋介石が喧嘩を始めたらしい、日本将校は、そのどちらかに雇われての行動であったのではなかろうか。
暫く行くと、今度は突然頑強そうな満人に出会った。向こうさんもびっくり、日本の少年の一団に逢うとは?、片言の日本語で、「此処を動くな、ここで待っておれ」と言って道の下へ走って行った、下の方を見ると数十軒の満人の集落が見えた。我々はこれは危ないぞ、あいつが人を集め追剥ぎに来るつもりだ?「それ急げ」私達小走りにその場を逃れた。日本人に恨みをもつ満人が暴徒となって日本人を襲うと言う話しはよく聞いていた。しかし我々は一番先に解放され南に歩き出したので、暴行するつもりの満人もその準備が整っていなかったのが幸い、事なきをえた。
それから何日歩いたであろうか、国境の街、図門に到着。全員無事、朝鮮に入る事が出来た。見知らぬ街を歩いていると、「あ?日本の日の丸だ‼」皆歓声を上げる。よく見ると大きな建物の上に日の丸の旗が、へんぽんと翻っている。「日本が負けたと言うが、あれを見よ、負けちょりゃあせんぞ!」と、その日の丸を目当てに勇んで近づくと、その日の丸の四隅に何か模様があり、中の赤い丸も変だ、映画で見た、大石内蔵助が討ち入りの際たたいていた太鼓の模様みたいな物見える。こんな国旗見たこと無い。私達は唖然として足がすくんだ。誰かが「ありゃあ朝鮮の旗ぞ?」と言った。皆黙った。そうこうするうち、朝鮮の公安警察がやって来て日本人世話会に連絡し、その人達によっていろいろ世話をしてもらい、この図門から汽車に乗せてやると言う。一同大喜び、しかし汽車といっても無蓋の貨車であった、それでも有難い事、みな疲れきった脚を台車に放り投げ、振り落とされないよう注意しながら、憧れの日本へと発車したのである。が、、、、、、、、、。つづく

草鞋を履いた関東軍

2011年02月08日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍      19
 2011.1


 沙蘭鎮の一夜が明けると、一行長蛇の列は、東京城方面へと連行されて行った。約40キロの行程であった、夕方近く大きな川岸にたどり着く、この川は鏡白湖から流れ出て牡丹江へと続く水量豊かな大川である。そこには大きな橋が架かって居て私達が渡満し訓練所に入所する時も、ハルピンに行った時もこの橋をトラックで渡った事だった。今は日本軍が追手を防ぐ為、橋は壊され跡形も無かった。東京城はもうすぐの所だが今日はこの橋の袂で野営しなければならない、その近くに小さな満人があった。その中に、長い土壁で囲まれた大きな家がある、屯長(村長)の家であろうか。その塀から、見た事もなかった、きれいな満州娘が体を乗り出し我々を珍しそうに覗いている、三郎は初めて見るクーニャンである。お下げの前髪の奥に涼しい瞳が光っている、透き通ったような色白の顔、その衣装といいまるで人形のようである。おそらく屯長の娘であろう、今までは日本人を恐れて我々に顔を見せる事は無かった満人の娘、日本が負けた事を知り、怖いながらも優越感と珍しさをもって我々を見おろしているのであろう。満人でも裕福な階級はこんな生活をしているのだな、と、今更ながら満人の生活の裏を垣間見る事が出来た。
 明けて、この100メートルはあろう川を渡らねばならない。しかも牛を連れての事。これは大変、馬を連れている者は馬にまたがり川に乗り入れた。途中までは何とか行くが対岸に無事たどり着くものは少なかった。途中急流に流され、馬を捨て何とか泳いで渡ることは出来た。ここで何頭もの馬が流されてしまった。さて次は牛を渡す事になった。牛は舟で渡す事になった、人が舟に乗り牛の手綱をしっかり持って牛を泳がしながら渡すと言う寸法である。それにしても三郎の出来る業ではない、困った、困ったと思いながら、昨夜繋いだ川辺に行ってみると、何と、わが「霧島」が居ない、さては昨夜、闇に乗じて近方の満人に盗られたか?三郎の牛だけでなく何頭もの牛が盗られていた。盗られたのは悔しいが三郎は胸を撫で下ろした。とてもあの牛を曳いてあの大川を渡すと言う芸当は自分には出来ないと思っていたので、これこれ、此れで良かったのだ、ひそかに安堵の胸を撫で下ろした。
 全員が無事渡河することが出来た。数頭の牛馬も渡ったのであるが、ここでソ連兵にすべて没収されてしまった。
そして東京城へ向かっての行軍。いつの間にか栗田所長はソ連軍に連行されており、それ以来見る事は無かった。
やがて東京城。ここは8―10世紀ころ、中国東北地方を治めていた渤海王国の首都であった。今は首都とは程遠い落ちぶれた田舎町となっているが。この東京城は多くの義勇隊、開拓団、関東軍の交通の要衝の地である。駅前広場には私達だけでなく、開拓団の人、関東軍の兵隊、一般人等大勢の人で混雑していた。ソ連もこの多くの日本人を捕虜にしたものの何処に拘留するかに頭をかかえて居るのであろう。長いこと待たされる。三郎はあまりの退屈さで駅構内をぶらぶら見て廻る、この図佳線鉄道、今は汽車は通っていないようである。おそらく日本軍が敵の進行を防ぐため要所、要所を爆破したのであろう、駅には幾本かの貨車の引き込み線があり、貨車が何台も連結されたまま停っている。好奇心に誘われて見て廻ると、その中の一台に、何と大きな、大きな大砲の弾が載せられている。その大きさたるや見た事も無い大きさである。一発の弾が一つの木枠に入れられ梱包されている。弾の直径が40センチ、1尺5寸はあろう、高さは自分の背丈くらいある。いつか聞いたことがある。ソ満国境、虎林にそれは、それは大きな大砲が備えてあると。この大きな弾を飛ばすには相当大きな大砲でないと発射する事は出来ないだろう、三郎はその情景を想像しながら、こんなのが有るのに日本は負けたのか?そうだその大砲の弾が之だ、と独りでがってん、この弾が、其処に運ばれていたのだが、残念ここに無念の姿をさらしているのだ。おそらく日本本土から運ばれる途中だったのだろう。
やがて集まれ、集まれの声が聞こえて来る。行って見ると整列させられ、ソ連兵による点呼であるが、なかなか員数の集計が出来ないらしい?点呼が終わると、われわれの前に関東軍の軍医数人がソ連将校に連れられてやって来た、皆将校服を着ているが襟章は除けられている。その中の一番上級らしい軍医が、「今日から皆さんの健康管理をする事になった、安心してもらいたい」と言って各中隊へと分散して行く、しかしこの軍医たち一時間も経たない内に何処かに消えてしまった。これはおかしい、これは国際法に定められた捕虜の待遇の一コマをソ連が演じたのでは?と。その後軍医の現れる事はなかった。
そして我々の目の前で、父親と少年が引き裂かれる場面が見られた、父親は泣きながら訴えていたが許されなかった。おそらく親はシベリヤ行きのクループに入れられたのであろう、少年はどうなって行くのだろう。
私達は数刻ののち、駅から数百メートル程の所の大きな陸軍病院に収容された、この病院は完成したばかりで屋内には何の設備も備品も置いてなかった。中庭には食糧の高粱が幾袋も山積みされていた。これは有難い、ここ数日は食事らしい物は何一つ口にしてなかった。最初の四.五日はこの真っ赤な高粱飯で過ごす事が出来たが、日毎に少なくなり終には一日一回お粥のような物が食器の底に少し有るだけとなった。そして炊事用の薪がなくなった、そこで新築したばかりの建物の、天井の板や壁板をはがし薪とした、毎日の事なので全ての天井が無くなり屋根板がむき出しとなった。塩分も一つも無かった。ところが、誰かが敷地内の一角で日本軍が塩を焼き捨てた思われる真っ黒な土を見つけた、その真っ黒の土を水で溶かし、その上澄みの水を煮詰めると、何と色は黒いが上等の塩が出来た。みな思わぬ塩分の補給をすることが出来た。ところが塩が出来たが、今度は食べ物が無くなって来た、自分の食べ物は自分で工面しなければならない事となった。とはいってもここは日本軍がこの病院を護るため、周囲に深い、深い戦車壕を堀り廻らし、その上に三重の鉄条網を張っていた。要所、要所には自動小銃を抱えた見張りのソ連兵が目を光らしている。この難所を潜り抜けなければ何も出来ない、ここを潜り抜け満人の作ったジャガイモやカボチャを盗りに行くのである。命懸けの仕事である。此処までせっぱ詰まった状態になって来たら団体とか義勇軍隊員として、とか、規律や統制はなくなっていた、誰も死ぬか生きるかの毎日である、三郎もじっとしては居たら飢え死ぬる。ある晩、闇に乗じて三人の友人とリュックを背負い、鉄条網をくぐり四.五メートルもある戦車壕を滑り落ちた。無事脱出する事が出来た。壕を離れると直ぐ其処に鉄路があり、それを伝ってしばらく南の方へ歩くと、其処に壊れかかった橋が小川を渡っていた、全く当ては無いのだが、この橋を渡ればなにか有りそうな、ひそひそ話しをしながら危ない橋を渡る、暫く行くと、幸いジガイモ畠に突き当たった。これこれ、これはしめたもの、薄明かりの畠を手探りで探し、丸々とした芋をしっかりとつかみ。それぞれがリュックに収める。欲張りたいのだが、帰りのあの戦車壕を登り鉄条網をくぐらねばならないと思えばそこそこにして帰ることとした。天の助けか皆無事隊に帰ることが出来た、皆寝静まった中、リュックを床下に隠し、そっと我が毛布に潜り込んだ。これで数日は命が繋げる、人知れずほくそ笑みながら目を閉じた。
退屈なある日の事、中庭でけたたましく自動小銃の音がした。皆駆け寄ってみると、日本の兵隊が無残にも胸から腹へ何発もの銃弾を受け悶え苦しんでいた。そこには赤ら顔をしたソ連兵が銃を手に突っ立っている。聞くと、ソ連兵が日本兵に帯皮を要求したが、それを拒否したため撃れたとの事である。日本兵の帯皮がソ連兵にとっては、それだけ珍しく上等に見えたのであろう、騒ぎを聞きつけソ連将校がやって来て連行していった。日本兵は戦友によって担架で運ばれて行った。
この事件があって数日後、私達義勇隊員は軍人達とは別に、2キロ程離れた小高い丘の上に在る、日本人の開拓団の跡に連行され中隊ごとに分散収容された。ここの我々を監視するソ連兵は粗暴な兵が多く、ちょっと気に食わぬ事があると銃で殴ったり、わが幹部の部屋に怒鳴り込んだりしていた。ある日数百メートル程下に流れている小川に行き洗濯をするよう指示された。久しぶり開放されたような気分で下りて行くと、そこには十数人のソ連兵と数台の車が居並び、見た事の無い大きなカマに真っ白な蒸気を噴かしていた、そのカマに我々の衣服を脱がし、消毒やシラミを駆除するとの事である、私達は褌ひとつにされ、消毒の終わるのを待たされた。小川にはソ連兵も川辺で無邪気に戯れていた、その中の一人が携帯の手榴弾を川に投げ込む、爆発音と共に1メートルほどの水柱が立ち、暫くすると鮒のような魚が白い腹を見せ、あちこちと浮かんでくる。それを拾えと私達に強制する、これを拒むと服のまま川に投げ込まれるのである、幸い三郎は逃れたが数人投げ込まれた、なかでも投げた手榴弾が爆発しなかった。その不発弾を取って来いと、川に放り込まれた隊員がいた。これを見守る私たちも生きたここちはしなかった。やがてこれを無事拾いあげて来た戦友に一同安堵の胸をなでおろしたのである。全く命がけである。
三郎は洗濯を終え二.三人と共に少し遅れて宿舎へ帰って見ると、全員集合されていた。ソ連兵によって隊員を選別している。自分は普段の通り隊列の自分の位置に割り入った。この選別はソ連へ連れて行かれる者と、日本へ帰される者と、背の高さによって仕分けられているようだ、三郎は洗濯から帰るのが遅かった為、わが隊列はすでに選別が終わっていた、ここでも三郎は命拾いをした。
それから何日過ぎたであろう、日にちは全然分からない、そろそろ朝夕秋を感じるようになったある日、東京城駅前に連行された。連行するソ連兵が「ヤポンスキー、トウキヨウ、ダバイダバイ‼」と意味は分らないが、東京、東京と言うことはよく分かる、ひょっとすると開放されるのではないか、と、かすかな望みを胸に駅前に到着。各中隊毎整列、ソ連の将校四.五人がなにやら相談している。やがて通訳より、「これから皆さんは日本に帰れます、中隊毎、20分毎に出発してください」との事、一同喜びのどよめきが起こった。そして一団ごと員数を確認のうえ、なにやらロシヤ語で書いた許可書に大きな三角の印を捺した紙を貰った。わが広瀬中隊はあちこちと満州の中の軍事工場等、小隊単位で徴用されていたので本隊は百名に足らず、愛媛中隊と合同し百十数名の団体を組み出発する事となった。しかも一番先に出発を許された。三郎もこの大満州に骨をうずめる覚悟でやって来たのであるが、今は無念の一歩を、錆びた鉄路の枕木に降ろさなければならなかった。        つづく


草鞋を履いた関東軍           18

2011年01月20日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍      18
  2011.1.

 全く予期しなかった此の有様。先刻聞いた機銃の音は、これであったのか、私達はこの撃たれた戦友達を仮埋葬し、冥福を祈った。戦死者の現場を見たのは初めて、まことに無残なものである。この戦車隊と私達も戦えばひとたまりも無く、数分の内に全滅するであろうことは明白である。戦車から何時火を噴くか分からない状態で、我が幹部達はソ連側と交渉している。やがて幹部より、銃を足元に置くように指示された、さては?と思っていると、ソ連兵が四。五人銃を集めて廻った。武装解除である。小隊長は、銃は取られても弾はいつか必要になる、弾は持って居れ。との事である。銃が無ければ使い物になるまいに‼、取り上げられなかったこの弾が重い、又ポケットに入れる。
交渉が終わったらしく、先方から動きはじめた。大きな戦車の合間を潜り抜け峠へと向かう。行き違いにソ連軍の重戦車スターリン戦車か、カチューシャかは知らないが、無線のアンテナをなびかせながら次々とやって来る、その後に続く歩兵、間近に見るソ連兵、真っこと珍しい。髪の毛、目ん玉、鼻、皮膚の色、体毛、体格すべて初めて見る異国人。ロシア人をハルピンの街で見た事はあるが、こんなに近くで異人を見た事は無かった。三郎はこの珍しい人間をまじまじと頭のてっぺんから、脚の先まで監察?させてもらった。そして装備。服装と言い、持ち物はまことにお粗末である。背嚢たるや、ただの袋に紐を付けたような物、靴は皮の半長靴である。わが関東軍とはてんで比べ物にならん。ドイツ戦線で戦って来た其のままの装備であろうか。勿論草鞋(わらじ)は履いていなかった.
 峠を越えてやや平坦な道に来る、其処で出会った一隊の中には、何と女の兵隊が居るではないか。しかも将校である、軍服をきちっと決め込み、大きなピストルを腰に、金髪をなびかせながら、さっそうと馬で駆ける、その姿は、何と美しいことよ!この最前線に、こんなきれいな女性の兵隊が居るとは、想像もしていなかった。三郎の驚きは脳天を貫いた。日本ではモンペをはいて、竹槍のけいこをしているだろうに、、、。
先頭きってここに侵入して来たのは、ドイツ戦線で活躍した、主に囚人で編成された部隊と聞く。彼らはドイツ戦線に従軍したと言う勲章を自慢して見せびらかす。このソ連軍、ソ満国境で日本軍とどれほど戦ってここまでやって来たのであろうか?。
私達はいつの間にか、ソ連兵の銃口に支配されながらの行進となっていた。これが捕虜と言うものであろう、戦陣訓ではここで自決せねばならないのであるが、その気にはならなかった。まだ負けたと言う事すら感じなかった。
此の当りから次々と馬をソ連兵に取り上げられた。その馬がすぐソ連兵の言うことを聞く。乗馬にたけたソ連兵、畜生だから仕方がないとは言え、今まで可愛がっていた愛馬が、直ぐに敵兵の言うがままになるとは、まことに情けないやつだ。三郎の牛は取上げられなかった、ソ連兵も牛では用事にならんと思ったのであろう。
重い銃が無くなり手軽になった。それにしても、あの草鞋を履いた兵隊さんはどうなったのであろう、会ったのは此の当たりだったのだが?無事本隊に合流出来たであろうか、また山中へ逃げ込む事が出来たであろうか、そんな事を案じながら、青い目をしたソ連兵にダバィ、ダバィと追い立てられながら行軍が続く。暫くぬかるむ道を進むと、道端に日本兵が三人倒れているではないか。そうだ此の人達は二三日前に行き違った騎馬斥候の兵隊さんであろう、無残にも泥道にうつ伏になって死んでいる。私達は捕虜の身、何の手当ても出来ず、申し訳ない気持ちで通り過ごしたのである。
やがて第一日目に野宿した岩盤地帯に戻って来た。雨も降り出した。もともと、雨具、テントは支給されてない私達、わが毛布をテントのように張って雨を凌ぐ、毛布は純毛の上等の品であったから雨を通さなかった。その夜から、我々が通って来た街道を昼夜を分かたず、ソ連の戦車、トラック、各種の火砲、兵隊、パン焼きの車、あらゆる戦略物資を、三日三晩、引っ切り無しに進入して来た。夜は夜で昼のように明るい照明弾をあげながらの進行である。その夜、栗田所長の恩賜の軍刀を、ソ連兵が盗もうとした、所長は副官の日本刀を引き抜き、そのソ連兵を追っかけた、との話が伝わった。捕虜になっても指揮官は軍刀の持参が許されていた。その後どうなったかの話は伝わって来なかった。
 明くる日、私達広瀬中隊の一小隊二十人くらいの者がソ連兵の指示と監視のもと、野菜や食糧を探しに行く事となった。ソ連兵はその場所を知っていたのであろうか、何キロか離れた小高い丘を越えると、其処にはやや窪地になった所が有り、満人の一軒屋が有った。家と言うより小屋である。我々が近付くと、此の家の裏から二人の日本兵が銃を持って飛び出し近くの草むらに伏せた。幸いソ連兵には見つからなかった。ソ連兵二人は馬に乗り自動小銃を胸にぶら下げ、我々の行動を監視しているので、この事には気付かない、草むらからの声「隊長さん、あれを殺(やり)ましょうか、こちらも二人確実にやれますが」我が広瀬中隊長はソ連兵に気付かれないように、何食わぬ顔で「此の二人を殺しても近くにはソ連兵が沢山居ります、逃れる事は出来ないと思いますので、日本軍の本隊に、我々義勇隊員数百名が捕らわれ、三キロほど先の岩盤地帯に拘束されている事を伝えて下さい」と救援を頼む、日本語の分からないソ連兵は知らぬが仏。
ソ連兵は、その小屋の様子を見に近付くと、中からの農夫らしき満人が一人出て来た。なにやら身振り手振りでソ連兵と話している。我々は知らん顔して、此の満人の作った周囲のジャガイモやカボチャ、野菜を沢山頂戴し無事宿営地に帰り、中隊全員に配分した、しかしたいした量では無かったが、久しぶりに野菜を手にする事ができた。その夜もソ連軍の侵攻はものすごいものであって、なかなか眠る事が出来なかった。明くる日は、此処を立ち、元の訓練所、東京城方向へと進む、夕方近く見覚えの有る、沙蘭鎮の街に到着。此処からは、元の訓練所へ四キロほどの地である。訓練所へ帰してくれるのだろうか、ひそかな望みはあったが、今夜もここで野宿となった。ここは此の町を貫く幹道と、北の方向、和尚屯への道が分かれている所である。野営の準備をしていると、丘の上から何とも言へない、ものの腐った臭いがしてくる。さては?と二三人で恐る恐る丘に近付いてみると、何と丘の大豆畑に四.五人の日本兵が倒れている、軍服がはち切れんばかりに腐乱し、丸々と膨れあがっている。襟章の星が黄色く夕日に映え、哀れを誘う。
みな蛸壺から出て死んでいる。おそらくそこらの満人に引き出され、持ち物や銃剣を盗られたのであろう。何一つ身に着けてない。そして、その直ぐ下の斜面を見ると、其処にはソ連兵が五.六名死んでいる。その一人は、胸を撃たれたのか、胸いっぱい白い包帯をしている、又のその包帯の上からも何発もの弾をうけ血に染まって死んでいる。ソ連兵にも癇癪なやつも居ったようだ。ソ連兵も銃は盗られていたが、その頭元に手榴弾が二.三本転がっている、ソ連の手榴弾はボーリングのピンの様な形をしている。さすがこれは危ないと思ったのか、盗られていなかった、それにしてもソ連は勝ち戦、もう戦闘が終わって四.五日にはなっているのに、自分の軍の戦死者をそのまま野ざらしにして居るとは何たる事ぞ‼ 。
あとで聞くところによると、この沙蘭鎮の攻防戦では、わが日本軍七五名、ソ連兵一二〇人の死体が有ったと言う。
我々の後を戦いながら撤退していた日本軍も居たのだな、と、戦闘の様子を想い、ただただ冥福を祈るのみ。この夜、わが戦友四名がソ連兵の監視を潜り抜け、逃亡した。(この人達はついに帰国する事は無かった)        つづく

草鞋を履いた関東軍      17

2011年01月09日 | Weblog
草鞋(わらじ)を履いた関東軍      17       サブロー
2010 12  22

 野宿第一日目の夜が明けた。一枚の毛布に手足を暖かく包んで寝たのだが、初めての野宿とは冷たいもの、急ぎ焚き火をし皆で囲む、そして昨夜の残りものの飯盒を温め朝食とする。
やがて点呼がすむと出発。昨日たどり着いたこの岩盤地帯、まだまだ続く。岩盤の合間には幾筋もの小さなせせらぎが出来、きれいな音を立てながら流れている。又その付近には丈余の木々が深い茂みをつくっている。この長白山には今もトラや熊、それに多くの狼が棲むと言う。まだ平坦な道が続いて居る。8キロくらい進んだ頃であっただろう、わが行く手と逆方向に、我々の隊列を縫うように、日本の騎馬兵が三騎走り去って行った。あれは日本の騎馬斥候だ。みな一様に顔を見合わせる。だとすると、この先には、あの世界最強の関東軍が居るということである。私達は気を強くした。しばらく歩くと山手に差し掛かった。背にしている物がだんだんと重くなる。銃が弾が重い。三郎は此の日より中隊で飼っていた「霧島」と言う名の大きな牛を曳く事になった。昨日本部を出る時は山ほど食糧が積まれていたが、この食糧は昨夜のうちに、他の中隊に配分され、今日は軽い雑貨物が積まれているだけ。
昨日からの逃避行でリュックは重く三郎の肩へ食い込む。肩も体力ももう限界。よっしゃ‼ 牛に負うてもらおう!銃は身から絶対離してはならぬと強く教えられているのだが、もう我慢が出来ない、銃も防毒面もリュックも、何にもかも皆牛に背負って貰った。これこれ、これで楽になった。三郎は小学生の頃、我が家の山田でよく牛を使って田の代掻きなど手伝っていた。その覚えがあるので牛の扱いは慣れている。
 ところが行く手に5メートルほどの小川があり、そこに腐りかかった土橋が架かっている。その土橋を、わが「霧島」が渡ろうとしない、ムチで叩いても、鼻カンを両手で引っ張っても、どうしても動こうとしない。我が中隊はどんどんと先に進み、戦友の姿は見えなくなった。こんな時、人ごとにかまってはいられないのである。みな我が事が精一杯なのだ。三郎は一人で牛の先になり後になりして悪戦苦闘していると次ぎに通りかかった他の中隊の見知らぬ隊員二三人が手を貸してくれ、牛の尻を押してくれた、やっとの事でこの小さな橋を渡る事が出来た。やれ有難う。そしてやっとのこと我が中隊に追いついた。山が益々深くなって来た。此の道は軍が旧道を軍用に改良を加えたのであろう所々新道が加えられていた。暫く登って行くと、そこに何と日本軍のトラックが焼き捨てられていた、しかも重機関銃を載せたまま、おそらくトラックは故障、重機も使い物にならなくなったのであろう。やはり此の道を多くの軍が通過している事が分かった。われわれを置き去りにして軍だけが、お先に失礼と言うところだろうか。
 さらに登ると、これは驚いた。日本兵、関東軍の兵士が三四人ほど道端で休んでいる。どうしたのだろう?立派な軍装はしている。何といっても日本の軍隊は世界一の軍装を着けていると言う事である。襟章を見ると赤地に金筋一本、星は一つも付いて無い。皆同じである。とすると幹部候補生か、又なんか特殊な兵隊であろうと想像される。服装を見ると第一線で戦った様子ではない、しかし皆へとへとに疲れている。そしてその足元を見ると、これ又驚いた。草鞋(わらじ)を履いているではないか、子供の頃私はよく祖父の作った草履(ぞうり)を履いたものだが、草鞋(わらじ)は履いた事も、祖父が草鞋(わらじ)を作っているのを見た事も無い。よく見たのは山開きになると家の下の道を、石鎚さんへ登る白装束の信者が草鞋を履いているのを珍しく見たものだった。その草鞋(わらじ)を立派な軍装をした、関東軍の兵隊さんが履いているのである。草鞋(わらじ)にはちゃんと両側に二つづつ耳(乳(ち))が付いていて、そこに紐を通し後ろの紐とで足にしっかりと結んでいる。足元だけ見ると、まるで戦国武士の出たちである。本ものの草鞋(わらじ)である。世界一の軍装をしているはずの関東軍が草鞋を履くとは? 。ありゃあ?よくよく見ると、背負っている背嚢に予備の草鞋もぶら下げている。さらに立派な軍靴をもくくりつけているではないか、軍靴はあるのだが、草鞋を履いているのだ。又その腰には直径25cmほどの丸い物をつけている。小学校にあった、あの巻尺のような物である。聞くところによると、あれが戦車をやっつける爆弾だとの事、これを持って敵の戦車に飛び込むのだと言う。でも此の兵隊さん戦わずして我々より先に逃げているのだろうか、それとも後方への移動なのだろうか。私達は遠巻きにしてジロジロ見るばかり、兵隊さんに話しかける勇気も無かった。ただ想像で、こんなに疲れていては戦争にはなるまい・・・と思うだけであった。
 それにしてもあの有名な関東軍がわらじを履いているとは?国定忠治でもあるまいに、満州建国と言う大博打に負け、わらじを履いて、親分とも別れ別れとなり長白山へと草鞋を履いたのであろうか。わらじを履いて戦争は出来まいが、逃げるには、あの重い軍靴より幾倍も軽く歩きよいであろう、よく考えたものだ。しかし誰がこの草鞋を作ったのであろう? そして軍もこれを許しているのだろうか。私達義勇軍は夏ではあるが皆防寒靴を履くよう命じられていた。厚いゴム底で布製ではあるが軽くて丈夫であった。
 私達はこの兵隊さん達を後にして山中深く歩を進すめた。1キロほど山の中腹ぐらいまで登った時、東の方角より爆音が聞こえ、一機の飛行機が飛んで来た。私達は満州に来てから初めて見る飛行機である。皆大喜びで手を振る、帽子を振る。その飛行機は、私たち長蛇の如き一団の上空を大きく二三回旋回し北の空へと飛び去った。「おい"あの飛行機には日の丸が無かったねや!」「まっこと、そう言ゃあ日の丸は無かった。」皆顔を見合わせ黙り込んだ。何か不吉な予感、やがて頂点の尾根を越え夕暮れ近く、何処かの開拓団に着いた。五六棟の建物は有ったが家財道具はなく、猫の子一匹も居ない、もぬけの殻であった。私達はこの空き家に分散今宵の宿とした。さっそく夕餉の支度に200mほど下に流れているきれいな小川に、我先にと駆け下り、米を研ぐもの、馬鈴薯を洗うもの、南瓜を切るもの、枯れ木を集め火を焚く者、洗濯しつつ泳ぐもの、久しぶりに明るい声が谷いっぱいにこだましていた。それぞれに腹を満たした、今宵は主の居ない開拓民の空き家で寝ることが出来た。
 明けてそれぞれ自分の朝食を済ます。いいなあー、朝から腹いっぱい自分で勝手に食事が出来る。こんないい事初めてである。まだリュックの米は二三日分は有る。さあ、今日は何処まで行くのだろう。暫くすると、何処から来たのか、何と肩から幾筋もの金モールをぶら下げた日本軍将校が数人現れた。これはどうした事だ。家来(兵)は一人も連れてない。歩の無い将棋は負け将棋と言うが、歩兵の姿は一人も見えない。これでは戦争にはなるまいに?。どうもこの偉い人達は、我々の先を逃げた?あの国境を護っているはずの関東に違いない、この軍装からみると師団長や参謀、司令その他副官たちであはあるまいか。私達の隊長と何やら話している。暫くすると集合ラッパが響いた。皆宿舎の裏側に隠れるように集められ、銃に実弾の装填するよう命じられた。金モールの一人が前に出て「此の先方にて満軍(満軍とは満人を集め日本軍の戦力とし訓練していた)が反逆し、我が軍と戦闘状態に入ろうとしている。此処にも攻めて来そうな情況にある。」「諸君は日頃の訓練通り隊長の指揮に従い行動する事。戦闘になれば、処かまわず伏せなければならない、したがって用便は必ず一箇所に決めて行う事。」なるほどこの用便の事まで三郎達は習った事は無かった。これに感心しながら命令を待つ、愈々実戦か‼。しかし我ながら実戦の怖いという気持ちは起らなかった。まだ敵が見えないからなのか?大勢の友達が居るからなのか、訓練と変ったことはなかった。
待機すること一時間ほど、満軍の姿はついに現れなかった。全員集合、折敷して銃より弾を抜く、此の時三郎と相対し真ん前に居た戦友が、弾倉から五発の弾を抜かねばならないのに最後一発を抜かずに引き金を引き暴発させた。発射音は一同を仰天させた。その弾は三郎の頭を掠めた。幸い訓練の通り銃口を空に向けていたので三郎は命拾いすることが出来た。一発の暴発は大戦争のきっかけになると厳しく教えられていたのに、、、。
 午後になるとあの緊張した空気は何処へやら、自由時間となる。
三郎は連れている牛、霧島に水をやらねばと、二三人と共に丘を下りる、そこには平坦な道があった。何処から来て、何処に続いている道であろうか、とにかく空の開けている方向へと進む、少し行くと其処には北より流れ出た、川幅は100メートルはあろうきれいな川に出合った、両側に川原が有り、中央に浅瀬があり、ここちよい音を立て流れている。此の流れの果てに鏡白湖があるのではなかろうか、そんな感じがする。牛に十分水を飲ませ川岸に繋ぎ。涼しい川風に誘われ故郷のあの川をおもいながら川原を散策すること暫し。すると遠くの方で「中平、中平」と呼ぶ声がする。さては!と走りながら近づいてみると「あの牛はお前の牛じあーないか?」と指をさす、見ると確かに自分の牛だ。二人の満人が霧島を曳いて向う岸へ急いでいる。「あ"そうじや、僕のじぁ」慌てて皆で「こらー、こらーあ」と叫ぶ、しかしどんどん遠くなる。三郎は此の時とばかり持っていた銃に実弾を込め゜「撃つぞー」と大声で叫び撃つ真似をすると。これには満人もおったまげ「アイャマー」「アイャマー」とわめきながら引返して来た、そして銃口の前でぺこぺこと頭を下げる。まことに効果的面。銃は身から放してはならぬ、との教え、身をもって体験したのである。
 その帰り道の事である。聞きなれない自動車の音がする。やがて現れたのが、自分達の見た事も無い車、あの山下将軍が乗って来た車に、似ているが、あれよりももっと頑丈そうな車。その車にはソ連兵らしき者が銃を構え、こぼれる様に乗り、その中に日本の将校が白い柄の日本刀を杖に、胸を張って乗っている。車には白旗をなびかせ、われわれには目もくれず通り過すぎて行った。「ありゃあ、あれはソ連の捕虜ぞ!!、」誰かが言う。そうだ白旗と言い、日本の将校と言い。確かにあれは捕虜じあ、日本が勝つたんだ‼。私達は喜び勇んで宿舎へと帰った。ここでも勝った、勝ったの大騒ぎ。今夜もお互い思い思いの楽しい飯盒炊さん、そして此処での二日目の夜がしずかに更けた。
朝霧を破る起床ラッパ。集合、点呼。隊長より、「日本が勝った、これより元の訓練所に帰る」。その他の諸々の訓示があり一同出発の準備をする。
 尖兵四五人を先に出発させ、長蛇の列は山頂へと動き始めた。山腹まで来たかと思うと、突然山頂付近でけたたましく機銃の音。さて何が起きたのだろう?昨日の満軍に遭遇したのだろうか、やがて頂上付近に近付いてみると、これはびっくり仰天。何とソ連の重戦車が四五台居並び行く手を塞ぎ、銃口を我々に照準している、中には天蓋を開け身を乗り出して機銃を構えている兵もいる。そして道の両側の笹竹の中に、先発の我々の尖兵全員が無残にも蜂の巣のように撃たれ倒れていた。        つづく

あけましてお目でとうございます

2011年01月06日 | Weblog
皆さんよい新年をお迎えの事とお慶び申し上げます

北海道の信子さん、コメント有難うございます
 私は今年こそ元気になって 滝へも川へも行きたいものだと張り切っています、私のガンは高知医大の新しく開発された  wt1-w10^ペプチドワクチンで臨床試験中ですが、此の薬が驚くほど効果があり喜んでいます。必ずや回復出来るものとおもっています他事ながら、、
今日は池川も珍しく朝から雪が降ったり止んだりです。
私の関東軍まだまだ続きますが仕上がったら本にしたいとは思っていますどうなることか。。。では又コメントください    

トイレの神様

2010年12月25日 | Weblog
    雪隠(せっちん)の神様
今「トイレの神様」と言う歌がはやっている。そのトイレの神様が私の家にも居た。三郎が小学生の頃はとてもお正月が待ちどうしく正月が今の十倍も楽しいものであった。年が押し迫ってくるとあちこちの神様にお供えものをするのだが、先ず祖父(慶応生れ)が注連縄をナイそれに裏白のシダ、やまくさ。ワカバ。等を吊るして門に張る。そしてワカバに小さなお供えの重ね餅を載せて各神様に供えるのである。その役は私である。祖父の言う通り、先ずお床の神様。先祖様。水屋の水神様。かまど。倉の恵比寿さん。そしてこれをセンチへ、と言う、毎年の事ながら三郎はおかしいなと思った。センチにも神様が居るんじゃろうか。ここの神さん随分クジ運の悪い神様だな。子供ながら思ったものだった。あれから六十年余り、今日、我が家ではお隣よりワカバを分けてもらいあの子供の時と同じようにトイレを始め各神様にお供えをしました。この風習いつまでも続いてもらいたいと願って、、、、、、、、、サブロー