46わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
もともと、人間は生きる意味も目的もわからず、暗闇の中に生まれ、暗闇の中で死んで行くものでした。しかし、創造主なる神様から遣わされて世に来られた「光であるお方」イエス・キリストを信じる者は、もはや暗闇の中にずっといることはない。
私は、特に体調がすぐれない時など、いつの間にか神から離れて暗闇の方に向かっていることがあるが、それはいつまでも続かない。必ずイエス様が、その私の思い・考え・行ないに光を当てて、変えられるのです。
47だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
イエス様が世に来られた目的は、「さばく」のではなく「救う」ため。
今、イエス様の言うことょ聞いて守らなくても、今、すぐに、この地上で、さばかれることはない。
48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
イエス様の語られた言葉やイエス様のなさった事々をはっきりと否認する者、受け入れて聞き従わない者は、彼をさばく方を今すでに持っている。再臨の時、最後の審判の時には、イエス様の語ったみことばが、彼をさばくことになります。
私は、語られた救いのメッセージ、恵み深い救いの提供を受け入れてキリスト者となりました。その時、一緒に来ていて一緒に洗礼をうけましょうと言っていた方は、結局拒んで教会から去りました。大きな分かれ目でした。彼女とはそれ以来、一度も会ってはいません。どうされているでしょう。
49わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
なぜ、イエス様の話した言葉によって終わりの日にさばかれるのか。それは、イエス様は自分自身で語っているのではなく、むしろ、イエス様を遣わした父なる神様ご自身が命令・戒めを語っているからです。
その命令・戒めとはイエス様が何を語り、何をしゃべるのかを、前もって父なる神様はイエス様に授けておられたからです。
だから新約聖書のイエス様のことばは神の言葉です。また神の言葉である旧約聖書は、そのまま聞き従うのではなく、イエス様を旧約聖書で預言されている救い主であると理解した上で、理解するべき。ここは私のテーマです
50わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
永遠のいのちとは、父なる神の命令に従うこと。
永遠のいのちとは、神の語りかけを聞いて、徹底的に聞き従う生き方をすること。父なる神様に従順に、十字架にまで従い通されたイエス様を信じ受け入れること。
永遠のいのちとは、死んでよみがえられて、今もこれからも永遠に生きておられるイエス様を、心に迎え入れて、父なる神様との交わりの中で生きること。
私は、自分が光の中を、光である方とともに、永遠のいのちを生きることが赦されていることを、はっきり知っています。神の支配の中、天国で今、生かされていることを喜んでいます。
足が痛くて、気持ちが沈んでいましたが、今、みことばにより、引き上げられて、ハレルヤ! 讃美します。
先週、イエス様を信じ受け入れた若いママが、自宅で祈っていると、ご主人が子供には影響を与えないで欲しいと言われたからもう教会には来ないと言われたそうです。よくあるパターンですが、それでも、賢い選択をして、子供を連れて教会に来られますように。
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