ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

神のことばが、長いか短いか

2020-12-02 09:43:56 | 新約聖書
ローマ書12章1-2節を読んだ。アーメンと言ってから、そういうわけでと話が続いている。私は祈りの後すぐに立ち上がって、この世の事を考えていたことを悔い改めた。
 昨日、今日の落ち葉の掃除にしても、神様からの聖霊による語りかけを意識してよく考えて奉仕しようと思った。
 
 へブル書からの信徒説教のためにへブル書を通読しようとした時、実は自分は聖書を読んでいないことに気付いた。目が見えにくいこともありCDの助けを得て一時間近くもかかって読んだ後、これが「手短」に書いたものだとあって驚いた。
その後、鍼灸院のベッドで横に横になっている時に、「手短」という言葉が思い浮かんだ。旧約のことばと自分達で作った律法を守って来た長い歴史を持つユダヤ人たちにとって、この手紙を聞いて深く理解するなら、その神のことば、へブル人への手紙は、言葉どおりに、本当に短いみことばだなと。
 
また、私が22年前に、牧師との面談の中で祈りに導かれた学びの時間を取っていただいたことを思い出す。ほんの手短に福音のポイントを教え祈りに促してくださった。それ以降、ずっと聖書を読み続けることになり、牧師の説教を聞き続けることになったのだから、それ以降にいただく情報量は相当に大きく、長く、丁寧なものだった。あの時は、当時の私が理解できる範囲にしぼって「手短」に伝えてくださったのだなと思う。
 
へブル人への手紙を読んだ人は、それによって旧約聖書のとらえ方がすっかり変わって新約のことばが鮮明になって来て、クリスチャンがどんどんと増え広がって行ったことでしょう。私も福音をきちんて語って、その方の人生が神様によって変えられていくのを見たいと願います。
 
時々、伝道会での牧師の話が長すぎるから短くしてほしいという要望が信徒から出ることがあるが、それは間違いであると思った。それまでの何十年かの生き方についての見方がすっかり変わり、永遠に信仰生活を続けていくことになるためのターニングポイントとなる貴重な時なのだから、1時間、2時間という時間の単位で測れるものではないと思う。むしろ、神が神の時を導いているのだから、時計の時間を見て牧師を止めようとすることは不信仰なことであると思う。
 
デボーションによって考え方が変わり、それが行動にまで反映されるためには、みことばによって深く納得説得させられないと、人間はちょっとした決心や決断では変れず、変わったとしても長続きしない。信徒説教がヤコブ書に移った。これから、メッセージを聞くだけでなく、原典から確認して読み進みたいと思う。また誰かとその学びと応答を分かち合い祈り合って、祈りが聞かれることをともに体験するこができるようにと祈り願った。弟子訓練のテキストを一緒にしている姉妹が原典からの学びに興味と関心を持ってくださることを祈っている。
 
 

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