枯野

写真の楽しみ

株主総会の変貌

2006-06-26 | 雑文


                         アメリカ型の株主総会へ

 大和証券グループ本社の株主総会は、6月24日(土)午前、赤坂プリンス・ホテル(昨年までは、会社本店の会場)で、1,681名(昨年は、375名)の出席者により開かれ、12名の株主から質問があったが、平穏に正午頃終了、その後バイキング形式の昼食が出され、1 時過ぎから総研と堺屋太一氏の講演会があり(この講演会には、約1,100名が参加)、虎屋の羊羹のお土産付で、閉会したということのようである。
 会社の休日である土曜日開催というのも画期的であり(今後は、日曜日開催も考えられる)、また、古来、3月決算会社(上場会社の大部分)の総会は、法的な期限(会社法124条2項)ぎりぎりの6月末日(万一の事態を考慮して、1日の余裕を置いて6月29日午前10時)に一斉に集中して開催される一種の商慣行であったことからしても異例である。もっとも後者の6月29日午前10時集中開催については、総会屋の出席をできるだけ押さえる必要性も、以前に較べるとかなり薄れてきていることもあって、取引所の希望に沿って、かなり分散、回避されてきているようであるが。
 これだけ多数の一般株主の出席者で、広い会場で開催されるということになると、一言物申そうと意気込んで来た総会屋も、いささかシュリンクしてしまうことになろう。これまでとは違った意味での、アメリカと同様なお祭り気分のシャンシャン総会になるのは、必然である。
 このような傾向は、今後ますます強まることが予想される。株主総会の形骸化が日本でもこういう形で定着してくるとは、これまでの日本的風土からして、いささか意外ともいえる。もっとも、上場会社の場合、総会に付議される議案は、議決権行使書(または委任状)により、通常、総会前に事実上、原案どおり承認可決、成立しているわけであるから(会社法311条1項、2項、310条1項)、実際に開かれる総会がどうであるか(決議事項について活発な質疑応答が行われ、十分な審議がなされたか、それとも逆に「異議なし」、「異議なし」の連発で、何ら質疑応答などもなく短時間のうちに閉会となったか)は、いずれにしても総会の目的である決議の成立にはなんら影響するところもなく、関係もないのであるから、さして重要ではないわけである。この点からいっても、和やかに盛大に行われた今回の大和証券の例は、まことに結構なことで、大いに歓迎されるところといえよう。

[リンク] 会社法
[参考文献] 大阪証券代行代行部「アメリカの株主総会」(商事法務研究会)

 

会社法の施行

2006-04-03 | 雑文









                                     (戸越公園にて)
                                                                  (06.04.03撮影)
                                 


               

                             会社法の施行

 いよいよ会社法(平成17年7月26日法律86号)が、来る平成18年5月1日から施行になりますね!! 各社におかれては、必要かつ適当な対応の準備が完了されたことと思います。関係役職員の皆様の労を深く多とする次第です。今後とも法令違反のないよう万全の体制で臨まれることを期待して止みません。

 [リンク] 会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律

桜の道

2005-07-02 | 雑文

                               
                      会社は株主のもの 
 平成15年6月下旬に開催された3月決算会社の定時株主総会では、特に問題会社においては、活発な質疑などが多くみられ、ある程度の時間をかけて審議がなされたところもかなり見受けられたようである。 会社間の株式持合いの解消が進んできた反面、外国投資家をはじめとした個人株主が増加し、投資ファンドなどの機関投資家も増えたせいもあるが、なんといっても、全般に、株主の「会社所有者」としての自覚が高まったのがその大きな原因であろう。
 昔は、会社は総会屋に利益を供与し、総会屋も貰うものを貰いさえすればそれまでなので、総会に出ても議事進行に協力するだけであり、一般株主の出席もないから、すべて総会は、株主からの質疑など全く出ず、「異議 なし!」「異議なし!」で、僅か数分で終了するのが普通であった。 たまに、株主から質門などが出され、終わるまで多少時間がかかった場合は、「荒れた」総会として、社員の事務担当者は、社長から、「しっかり利益供与をせよ」とこっぴどくお叱りを受けることになる。総会屋への利益供与をうまく取り仕切るのが最重要な総会事務であった。 依然として、今でも裏で隠れて巧妙に総会屋に対し利益供与がなされているのかどうかは、はっきりしないが、総会屋のことは、ともかくとして、株主総会が、何らの質疑応答もなく、数分で終了するといったような過去の強い慣行が順次薄れ、株主が実際に大勢総会に出席してきて、曲がりなりにも活発な質疑応答などがなされるようになったことは、当然のこととはいえ、歓迎されるところである。 もっとも、総会の議案は、以前では委任状、今は議決権行使書によって、通常、開会前にすべて原案どおり承認可決されることが事実上確定しており、総会での審議は、議案の成否には関係ない単なる観客なき喜劇に過ぎない。この点は、昔も今も全く変わりはない。

 ところがどうしたことか、原案が否決されたという会社があったという報道も見られたが、これまででは夢にも考えられなかった珍現象である。どうしてこんな絶対に起こり得ない珍現象が起こったのか、不思議であるが、もしかすると、あらかじめ裏でお膳立てをしておいた茶番劇 だったのかも知れないが、そうでないとすると一つ想定してみると、総会に大株主又はその代理人が、実際に出席してきて、原案に反対し、その所有株数が多いためそのとおり原案が否決されてしまったことが考えられる。これなら当たり前のことであり、少しも不思議ではないが、そういう特殊な株主構成の会社で、経営者が事前にそういう大株主の意向を打診してみなかったのは、いかにも独善的というか、無知というか、とにかく株式会社制度のイロハを弁えないお粗末な経営者というほかない。およそ会社は、株主のものであり、総会の決議事項は、その総会での株主の株数による多数決で決定されるという株式会社の制度の根幹を経営者(現在の取締役)がよく認識していないことによるのであろうか。
 いずれにしても、会社は、経営者が何でも思うままにすべて運営することができる経営者の私物ではなく、経営者は、日常の業務執行については、思うままにやってよいが、およそ株主総会の決議事項については、無条件に、あくまでも多数株主の判断に従わなければならないことを改めてよく認識する必要がある。 

 [リンク] 会社法  会社法施行規則 会社計算規則  会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律  (商法) 

 


中学歴史教科書(2)

2005-06-22 | 雑文

                             (戸越公園にて)


           問題の箇所は、どう記述されているか
 
 次ぎに、具体的に各教科書の問題の箇所の記述の一部を、僅かではあるが、記して見よう(詳細は、勿論、各教科書の実物によってご覧戴きたい)。

Ⅰ(朝鮮と台湾)
 朝鮮や台湾では、戦争末期に志願兵制度があらためられ徴兵がしかれました。多くの人々が「日本軍兵士」として戦場に送られ、また、多くの朝鮮人女性なども工場などに送り出されました。
 (空襲と疎開)
 とくに、1945年3月10日の東京大空襲で、一夜にして約10万人の人々が犠牲になり、多くの人々が焼け出されました。空襲がはげしくなると都市部の小学生は集団で地方に疎開しました(学童疎開)。
 (学徒出陣)
 理科系以外の大学生・高等専門学校生が徴兵され、学業なかばで戦場に送り出されました。

 労働力の不足をおぎなうため朝鮮や中国から多数の人々が日本に連れてこられて、工場や鉱山ではたらかされました。多くの朝鮮人や中国人がきびしい労働条件の下で苦しい生活をしいられました。
                   中学社会「歴史」(未来をみつめて)  教育出版
Ⅱ(日本軍と中国民衆)
 とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器をすてた兵士・老人・女性・子どもまで含めた兵士もあわせたこのときの死者の数は、多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどは、この事実さえ知らなかった。こうした日本人の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。
              新中学校「歴史」(改訂版) (日本の歴史と世界) 清水書院
Ⅲ 「東京裁判について考える」
 (国際法からみた東京裁判)
 東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、この裁判は国際法上の根拠を欠いているとして、被告全員の無罪を主張した。しかし、GHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、その他いっさいの裁判への批判を許さなかった。
 東京裁判については、国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見もあり、今日でもその評価は定まっていない。

 (戦争への罪悪感)
 GHQは、日本の戦争がいかに不当なものであったかをマスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後の日本人の歴史に対する見方に影響をあたえた。
                 中学社会 (改訂版)「新しい歴史教科書」  扶桑社
 
 東京大空襲に触れたり、学童疎開とか南京大虐殺、朝鮮人・中国人・台湾人に対する過酷な仕打ちなど、ぜひとも教科書に特筆大書すべき事項を、大体、漏らしていない扶桑社版以外の教科書には、あまり問題はないと思われるが、GHQに煽られて、日本人が戦争の罪悪感を植え付けられてしまったというような記述は、当然、本当は、戦争には全く反省すべき罪悪など存在しなかったのだと主張していることになるわけで、これでは、中国や韓国が反撥するのも当然といえよう。
 
 [リンク]
  学徒出陣
  東京大空襲



                                             (ルオー)
  

中学歴史教科書(1)

2005-06-22 | 雑文

                        (品川区にある居木橋にて)

            問題の箇所は、どう記述されているか
 
 近くの区立図書館に行ったら、たまたま今回検定に合格した新しい中学の教科書の展示会が開かれていたので、ついでに一寸覗いて見た。
 最近、中国や韓国が、日本の教科書の検定に関して、日本が侵略戦争を行って多大の損害と苦痛を与えたことへの反省がなく、歴史認識に問題があると抗議し、総理の靖国神社公式参拝と並んでいわゆる教科書問題として、大きな外交問題にまでなっていることは周知のとおりであるが、現実にその教科書を見ることができて、いまさらながら認識を新たにした次第である。
 その認識を新たにした点は、第一に、どの教科書にも、両国が非難するような、例えば、日本が行った戦争は、中国や韓国がいうような侵略戦争ではなく、自衛のために、また、アジアの諸民族を解放し、アジアに永遠の平和を樹立するために、やむを得ずなした聖戦であって、侵略戦争とは程遠く、かつ、両国に何の損害も苦痛も与えていないというような歴史認識の立場に立って、各歴史教科書が記述されているものと思っていたが、実は、そういう認識に立つ記述は、扶桑社版を除くその他の教科書には、全くなく、普通に、日本が行った戦争は、侵略戦争であり、両国はじめアジア諸国に多大の損害と苦痛を与えたという立場に立って記述している点である。
 このような扶桑社版以外の教科書の記述の中には、或いは、中国や韓国の方から見ると、細部の点には、多少異論を差し挟む余地のありそうな箇所もないこともないかも知れないが、総じて、そういう箇所は、これを針小棒大に取り上げて、外交問題にまでするような箇所とは到底言えず、おそらく両国ともそんな細部の末梢な箇所を、たとえ気づいていても敢えて問題とするようなことはありえないことであろう。
 第二に、問題の扶桑社版であるが、これは想像以上に、こうした他社のものとは、はっきり一線を画した、前記のような立場(「聖戦」観)に立って、いろいろ記述しており、いくら何でもこれでは、中国韓国両国の側からすれば、到底見逃すことはできず、たった1社の教科書に過ぎないとはいえ、いやしくも政府が公式にこの教科書を合格させ関与した以上、大げさではあっても、もはや正規の外交問題として大きく取り上げざるをえないのは当然のことといえよう。

  [リンク]
  扶桑社版教科書に関する声明
  新しい歴史教科書を作る会


  

ニレコ新株予約権発行差止めの東京地裁決定

2005-06-18 | 雑文

                           (御殿山ヒルズにて)   

           ニッポン放送に続き再び新株予約権発行差止め

 6月1日、東京地裁は、ニレコの取締役会が3月14日になした決議に基づいて現に手続き中の新株予約権の発行を仮に差止める決定を下した。これも先のニッポン放送の場合と類似した会社の現経営陣の取締役達が、自己の地位保身を主たる目的として、取締役会で新株予約権の発行を決議したことについて、裁判所がその発行を差止めた第二の事例として注目される。再びこのような事例に、東京地裁の良識が示された点、当然のことながら諸手を挙げて賛意を表したい。
 今回のニレコの事例も、やはりもっぱら現経営陣の取締役達の自己保身を図った取締役会の私物化利用による新株予約権の発行の著しい濫用である点において、先のニッポン放送の場合と同じであるが、ただ違う点は、先のニッポン放送の場合は、現にライブドアの買占めが発生したのを知って、これに対抗して、慌てて泥縄式に取締役会の権限を濫用し、なりふり構わず大量の新株予約権を現在の株主を無視して、フジテレビに第三者割当て発行したのに対し、今回のニレコの場合は、現在は全く会社の経営支配権に争いが生じていない場面において、将来万一、会社の株式の敵対的買占めによって経営支配権を争う株主が出現し、現在の取締役の地位が脅かされることにならないとはいえないことを懸念し、あらかじめそういう事態を想定して、取締役会の決議により、現在の株主に対し、1対2の割合で新株予約権を無償で発行し、将来もし、誰かが、20%以上の株式を保有する事態が発生した暁には、その新株予約権を有する現在の株主は、1株につき1円の払込価額をもって、その新株予約権を行使できるものとした点においてやや異なるところがあるにしても、しかし、これも、まさに明らかに現取締役の地位保身を主たる目的とした事前の買占め対抗策であることには変わりはない。
 したがって、将来、このニレコの新株予約権が全部行使された暁には、この新株予約権の割り当て基準日である平成17年3月31日以降(正確には権利落日である同月28日以降)に、ニレコの株式を取得した一般株主も買占株主もいずれも、持株比率が一挙に約3分の1までに希釈されるという大な不利益を蒙ることになるわけである。こうした買占株主に対する将来に予想される絶大な阻止効果は、ニッポン放送の場合と何ら異なるところはない。
 東京地裁は、この今回のニレコの新株予約権発行差止仮処分命令申立に対して、本件新株予約権は、その発行について株主総会の意思を反映させる仕組みとして欠けるところがないとはいえず、また、新株予約権の行使条件の成就に関する取締役会の恣意的判断の防止が担保される仕組みとなっているとまではいえないし、さらに、その発行により買収とは無関係の株主に不測の損害を与えるものでないということはできないと認定した上で、次のように述べている。
 「会社支配権の争奪は、不適任な経営者を排除し、合理的な企業経営を可能とするという側面も有しており、一概に否定されるべきものではないし、仮に好ましくない者が株主となることを阻止する必要があるというのであれば、定款に株式譲渡制限を設けることによってこれを達成することができるのであり、このような制限を設けずに株式を公開した以上、支配権の争奪が起こり得ることは当然甘受すべきものである。そもそも、不適切な敵対的買収を防止するためには、収益性を改善し、株主を重視した経営を行うなど、真摯な経営努力により企業価値を高めることが重要であり、安易に新株予約権を利用した事前の対抗策を講じることは、かえって企業価値を損なうおそれすらあろう」

 定款に株式譲渡制限を設けていない一切の株式会社(会社法案では、「公開会社」と呼ぶことにした-2条5号)は、その株式が証券取引所に上場されていると否とを問わず、誰でも、何時でも、何株でも、自由に買うことも、売ることもできることが法律(現在では、商法、目下衆議院を通過し参議院で審議中であるが、予定どおり今国会で成立すれば、会社法)で強く保証されていることは、今更いうまでもないところである。そして、そういう時々刻々変動し、固定していないその時々の株主が、株主総会の多数決で、欠格事由のない者である限り、自由に、適任と考えた者を取締役に選任して、日常の業務執行を委任するが、当然、もし適任でないことが株主に判明した場合には、たとい任期中であろうとも、何時でも、理由なく、再び株主総会で解任することができることになっており、したがって、取締役はその時々の株主の多数の意思により、かつ、その時々の株主の多数の意思のみによって自由に選任、解任される仕組みとなっていることが、株式会社の制度の大きな特色の一つであることも言うまでもないところである。 
 したがって、こういう公開会社においては、取締役が、逆に、あつかましくも、その選任母体である株主の適否について、もっぱら自己の地位保身の目的をもって、取締役会の決議を利用し、何らかの影響を及ぼす措置を講ずることは、たといそれが一見取締役会の権限内の決議事項であるように見えても、原則としてすべて本質的に違法とされなければならないわけである。このような基本的な視座から、今回のニレコの事例のような事前買占対抗策の適否が、検討されなければならず、このニレコの事例は、今後に影響を及ぼす大変参考となるものがあると言える。
 (この東京地裁の発行差止めの仮処分決定を不服として申し立てていた保全抗告について、東京高裁は、6月15日、抗告を認めず、東京地裁の仮処分を支持する決定を出した。これを受け、ニレコは、最高裁への特別抗告を断念し、16日から予定していた予約権発行の中止を決めた-6月16日、毎日新聞)。


  

連続と断絶-8.15の意味

2005-06-16 | 雑文

                             権現山公園(北品川)

 

               戦後60年目の8.15   

 丸山真男が、敗戦後、51年が過ぎた8月15日に肝臓癌で82歳の生涯を閉じたのは、偶然とはいえ、戦後民主主義思想を代弁する「進歩的文化人」の最有力な一人であっただけに、いかにも意味深長に思える。戦後の憲法学の一つの理論的支柱として「8月革命説」を提唱した宮沢俊義とともに、8.15を、前者では、「日本帝国主義に終止符が打たれた8.15の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し、今や初めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあった」(「超国家主義の論理と心理」)とし、後者では、「日本の政治の根本的建前が、革命ともいうべき転換を遂げた」と主張された(「8月革命と国民主権主義」)。
 この二人が設定した8.15での戦中と戦後の間の「断絶」こそが、そこをスタートラインとする戦後民主主義の出発点の意味を鮮明に確定し、この二人が、戦後民主主義の代表的な旗手となった所以でもあったわけであるが、実は、その8.15の時点では、二人ともこの決定的な転換を自覚していなかったという指摘がなされている(米谷匡史「丸山真男と戦後日本-戦後民主主義の<始まり>をめぐって」)。 しばらく、この米谷指摘を見てみることにしょう。
 丸山自身が後に回想しているように、戦後初期の彼は、天皇制について、立憲君主制をよしとする戦前の考え方を依然として持続していた(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」)。しかし、次々とGHQによって民主化政策が打ち出され、天皇制批判の自由化によってさまざまな議論が噴出する状況の中で、既存の価値体系の崩壊と民主化運動の胎動を感じとることになり、マッカーサー草案をもとにした「憲法改正草案要綱」が8.15の翌年3月6日に発表されるに至って、丸山自身の中に「転回」が発生したのであった。すなわち、丸山は、戦中から戦後への決定的な転換を戦後初期には自覚することができず、占領軍の民主化政策をいわば後追いする形で自覚し、それを8.15における<断絶>としてさかのぼって提示したのであった。

 こうした事情は、宮沢俊義にも同様であった。宮沢は、根本的な憲法改正は不要であり、明治憲法の部分的修正と民主的運用で十分だと主張していた。そして、政府による憲法改正作業にも参加していた。ところが新憲法草案に触れるに及んで一転し、根本的な転換がポツダム宣言受諾の時点でなされたという「8月革命説」を唱えはじめ、それが戦後の憲法学の支柱となったのであった。これが後に宮沢憲法学の「転向」という江藤淳(作家の三島由紀夫と同類の極右の保守派文学評論家)の甚だ正鵠を射た批判を呼び起こした所以でもあったが、新憲法草案に触れた時点になって、やっと自覚された転換を半年さかのぼって敗戦の時点の<断絶>として提示するものであったという点は、先の丸山の場合と同様であった。
  しかし、このような指摘がまさに正鵠を射たものであったにせよ、それをもって二人の業績が、いずれも俄仕込みの底の浅いものであったと決めつけることは、もちろん早計であろうが、この点に関しては、憲法学についても政治学についても専門外で全くの門外漢であるから、何も論ずる資格も能力もないが、間もなく敗戦60年の記念すべき日を迎えるにあたり、8.15の「連続」と「断絶」を改めてしっかりと自覚することは、とりわけ満州事変前夜を思わせる昨今の危機的情勢に鑑み必要なことではあるまいか。

 

 [リンク] 丸山真男(ウィキペディア)  宮沢俊義(ウィキペディア)  藤田省三(ウィキペディア) ポツダム宣言  降伏文書  玉音放送(ウィキペディア)    終戦の詔勅  旧GHQ本部付近   靖国問題の効用  戦前と戦後の断絶と連続


従軍慰安婦問題の怪

2005-06-14 | 雑文

                         従軍慰安婦問題の怪

 「従軍慰安婦」・「強制連行」の問題については、これまで沢山の書物や資料などが発表されており、いまさら取り上げるまでのものでもないが、これもいわゆる「南京大虐殺」の中国人犠牲者の数と同様に、その強制連行犠牲者の数も確定できないようである。 
 外務省作成資料「いわゆる従軍慰安婦問題について」では、昭和7年にいわゆる上海事変が勃発したころ同地の駐屯部隊のために慰安所が設置された旨の資料があり、そのころから終戦まで慰安所が存在していたものとみられるが、その規模、地域的範囲は、戦争の拡大とともに広がりをみせたとした上で、慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営したケースもあったとし、民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍は、慰安所の設置や管理に直接関与したと述べている。慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍とともに行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられたことは明らかであると明記している。
 業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースが数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースも見られた、ともしているが、しかし、国家の関与は明示されていない。
 一方、こうした従軍慰安婦の存在は認めるものの、売春は当時広く行われていたこと、従軍慰安婦は他の国の軍隊にも存在したこと、従軍慰安婦は日本人及び朝鮮人のブローカーが行った「商売」であること、日本軍の関与がなかったこと、それに元慰安婦の信憑性などの疑点をあげ、従軍慰安婦の「強制連行」を否定し、強く反論も展開されている。これらの反対論者は、個人や民間団体だけでなく、一部の自民党議員によっても主張されており、中山文部科学大臣も、大臣就任直前まで、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の座長として、自虐的で不正確な教科書記述内容を是正するための運動に奔走していた。この会は、87名の自民党国会議員が集まって平成9年2月28日に結成され、初代代表は、中川現経済産業大臣、副代表に中山現文部科学大臣、事務局長は安倍晋三現自民党幹事長代理といった陣容である。
 確かに、「従軍記者」などは、法令に定められた身分に基づき指定の部隊に配属され、軍の規律に服したことから、「従軍」の呼称は、問題ないのに対し、「慰安婦」は、軍属でもなく、業者に雇われた従業員に過ぎない者であるから、「従軍」の名を冠するのは、誤解を招く恐れがあり、適当とは言えないようである。さらに、「従軍慰安婦として強制的に戦場に送りだされた若い女性も多数いた」(東京書籍)等の教科書の表現もいささか不正確な感があることも争えない。
 省みると、平成8年に、中学歴史教科書全7社の本に「従軍慰安婦」の語が登場したが、翌平成9年3月13日の参議院予算委員会で、平林内閣外政審議室長が、政府調査では慰安婦の強制連行を裏付ける資料は発見されず、元慰安婦証言の裏付けも取れていない旨の答弁があり、そして、平成11年には、中学歴史教科書から「従軍慰安婦」の語が消滅したが、高校歴史教科書では依然この用語を使用しており、平成15年検定でも「従軍慰安婦強制連行」と記述した教科書が合格した上、平成16年には、大学入試センター試験問題にも「強制連行」が史実として出題された(高市早苗「教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」という用語が減ってなぜ悪いのか」正論05.03月号)。
 いずれにしても、「従軍慰安婦」問題は、そういう民間業者の経営になる慰安所、その従業員の慰安婦の存在自体が争われているのではなく、軍なり国家なりが「強制連行」に関係したかどうかという点が問題なわけである。そして、ここでいう「強制連行」という用語の内容も正確に定義した上で議論しなけばならないわけであろう。

[リンク] 従軍慰安婦

「侵略戦争」否認論

2005-06-12 | 雑文
                              
       
                           「侵略戦争」否認論
 
 衆議院文部科学委員長、経済産業省副大臣などを歴任し、教科書から、特に「従軍慰安婦」を消すことに奮闘した高市早苗氏(注)によれば、いわゆる「従軍慰安婦」というのは、「軍隊の駐屯地周辺に開設された戦地娼家であった慰安所において接客を生業とする従業員として雇用された者に過ぎない」もので、軍が「強制連行」はもとより、全く関係していなかったとされている(高市早苗「教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」という用語が減ってなぜ悪いのか」(正論05年3月号)。
 同氏は、さらに、日本がなした先の戦争は、侵略戦争ではなかったと、およそ次のように論述している。
 現在の「政府の歴史見解」は、平成7年8月の「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害を与えました......」として、痛切な反省とお詫びで括られた村山談話を踏襲しているが、第一に、この見解は、過去のどの戦争の如何なる行為に対する反省であり謝罪なのかが明らかではなく、第二に、当時の政府でない現在の政府に謝罪の主体者としての権利があるのか疑問であり、第三に、「国策を誤り」というが、当時の国際環境の中で日本が取り得た他の正しい選択肢を示せる政治家などいないと思われるし、第四に、「植民地支配」への反省もしているが、日本の支那における諸権益は、「日支間条約」によって、また、日韓併合は、「日韓併合に関する条約」によって、いずれも適法に実現したものであり、第五に、日本が行った戦争の性質を「侵略戦争」と安易に認定したことこそが、最大の問題であるとする。
 そして、なした戦争が自衛戦争なのか、侵略戦争なのかは、その当時のその国家の「国家意志」の問題であり、まさに先の帝国の大戦開始時の国家意志を表す公文書は、当時の昭和天皇の次の勅語である。「米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、遂に経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う。帝国の存立、またまさに危殆に瀕せり。帝国は今や自存自衛のため決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり」というものであった。次いで、「自国が行う戦争が、自衛戦争であるか侵略戦争であるかは、各国自身が認定すべきものであって、他国や国際機関が決定できるものではない」というケロッグ米国務長官の主張を指摘している。

 先の戦争が、侵略戦争であったことは、米国や中国ほかどの国も、一切全く日本に侵攻してきていない時期に、日本から、わざわざ積極的に周辺諸国に侵攻していったことから容易に説明できるのに対し、侵略戦争ではなかったと説明することは、簡単ではなく、上記の説明は、その一つとして、これに賛成するかどうかは別として、この問題を考える上で大変参考になるものであると言えよう。
(注)奈良2区選出衆議院議員。2007年8月15日に安倍内閣の閣僚達が自粛する中で、ただ一人現役閣僚として靖国神社に参拝した。櫻井よしこらと並ぶ自民党内でも屈指の極右、保守系議員。町村派。 

 [リンク]
 侵略戦争  高市早苗
  

[リンク] 「日本は侵略国家であったのか」   田母神俊雄    A級戦犯は認められるか  「田母神論文」を擁護する人びと  小堀桂一郎  櫻井よしこ   渡部昇一(田母神論文審査委員)   「真の近現代史観」懸賞論文   花岡信昭(田母神論文審査委員)   幕僚長をクビにするより村山談話を見直せ  田母神論文の意味するところ 森本 敏  櫻井よしこ 「麻生首相に申す」   日中歴史共同研究(日本語論文)

靖国問題の効用

2005-06-12 | 雑文

                  (戸越公園にて)      

                             靖国問題の効用
 
 最近、小泉首相の靖国神社参拝問題、教科書検定における歴史認識、A級戦犯の否認など国論を2分する対立が、嘗てなく顕著になってきている。これらの問題は、前からあったわけであるが、最近の小泉首相の極めて強硬な態度が一段と中国など近隣諸国の強い反発を招き、大きな国際問題にまで高まってきているが、この異常とも思える最近の日本の状況は、昔、「全面講和問題」、続く「安保改訂問題」で、やはり、国論を2分する対立が生じたのと、軌を一にするところがあるように思われる。
 1951年の対日講和条約、1960年の安保改訂(樺美智子さんの死、自民単独強行採決)で、日本が対米従属一辺倒の路線を邁進することが、確定され、その後は、明確に、すべてアメリカへの迎合の線で日本の政治、外交が行われることとなった。折しも、米ソの激しい冷戦の進展から、アメリカの対日政策は、戦後初期の日本の軍国主義の再発防止から一転して強固な同盟国日本の再軍備の支援の方向に変わり、日本は、再び軍事大国の道を邁進することになり、周知のとおり、早くも今では世界有数の軍隊、軍備をもつ国となったのである。
 間もなく憲法を改正して、軍隊、軍備の憲法上での公認を得て、名実ともに戦前への完全復帰を達成し、文字どおり軍事大国を完成する日も刻々近づいてきているように見える昨今の情勢であるが、大型公共事業の一つとしての防衛産業の日本経済にもたらす効果はともかくとして、こうした道をスムーズに進むためには、なんといっても国論の一本化を極力図ることが最大の課題である。
 嘗ての戦争を侵略戦争と認識するようようでは、甚だ困るし、ましてこの嘗ての聖なる輝かしい戦争の指導者達をA級戦犯などといういかがわしいレッテルを張って敬遠することは、耐え難い屈辱である。戦前と同じように「日の丸」、「君が代」の下に、「象徴天皇」からいよいよ晴れて「君主」に格上げした正に王政復古の新天皇の下に全国民一丸となって難局を乗り越えることが目下の急務でなければならない。これが、A級戦犯を含めた靖国の英霊に報いる唯一の道である。
 もっとも、日本が以上のような方向に進むことには、周知のとおり、反対する勢力もないわけではない。ただ、それらの勢力は、目下、国民の中では、少数派であることは、多くの世論調査の結果を見るまでもなく明らかなところである。そこで、まだまだ今のところ、戦前と違い、言論、出版、表現の自由が、相当程度認められているようであるから、「鬼のいない間に洗濯」というわけではないが、せいぜいこの点を巡る賛否両論が、少数派にも十分かつ率直な意見表明の機会を与え、衆人環視の下で、激しく論戦を交わすことが日本の将来のために極めて有益である。挙国一致、難局に処するためには、早晩、戦前の明治憲法下におけるように、どうしても言論、出版、結社、思想、学問の自由をすべて完全に抑圧剥奪することが必要となるであろうことは眼に見えており(現行日本国憲法上も、明治憲法と全く同様に、これらの人権は、公共の福祉の名の下にいかようにも制限できると解されている-百地 章・日本大学教授・憲法)、この点からして、今をおいては、二度と来ないかも知れない貴重な機会を逃さないことが肝要であろう。

 このような点からすると、靖国参拝は、なぜ、小泉首相はじめ自民党が必要かつ有益重要な行為と考えているのかの真の理由・背景、ひいては目下の日本の政治の根幹を考察することに結びつく格好な論点、課題が提供された極めて有益なトピックといえる。逆説的ではあるが、小泉首相が更に頑固に、できるだけ最も中国はじめ周辺諸国を刺激する時期を厳選して、靖国神社公式参拝を断固継続することが、日本の将来のために大いに役立つこととなろう。