権現山公園(北品川)
戦後60年目の8.15
丸山真男が、敗戦後、51年が過ぎた8月15日に肝臓癌で82歳の生涯を閉じたのは、偶然とはいえ、戦後民主主義思想を代弁する「進歩的文化人」の最有力な一人であっただけに、いかにも意味深長に思える。戦後の憲法学の一つの理論的支柱として「8月革命説」を提唱した宮沢俊義とともに、8.15を、前者では、「日本帝国主義に終止符が打たれた8.15の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し、今や初めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあった」(「超国家主義の論理と心理」)とし、後者では、「日本の政治の根本的建前が、革命ともいうべき転換を遂げた」と主張された(「8月革命と国民主権主義」)。
この二人が設定した8.15での戦中と戦後の間の「断絶」こそが、そこをスタートラインとする戦後民主主義の出発点の意味を鮮明に確定し、この二人が、戦後民主主義の代表的な旗手となった所以でもあったわけであるが、実は、その8.15の時点では、二人ともこの決定的な転換を自覚していなかったという指摘がなされている(米谷匡史「丸山真男と戦後日本-戦後民主主義の<始まり>をめぐって」)。 しばらく、この米谷指摘を見てみることにしょう。
丸山自身が後に回想しているように、戦後初期の彼は、天皇制について、立憲君主制をよしとする戦前の考え方を依然として持続していた(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」)。しかし、次々とGHQによって民主化政策が打ち出され、天皇制批判の自由化によってさまざまな議論が噴出する状況の中で、既存の価値体系の崩壊と民主化運動の胎動を感じとることになり、マッカーサー草案をもとにした「憲法改正草案要綱」が8.15の翌年3月6日に発表されるに至って、丸山自身の中に「転回」が発生したのであった。すなわち、丸山は、戦中から戦後への決定的な転換を戦後初期には自覚することができず、占領軍の民主化政策をいわば後追いする形で自覚し、それを8.15における<断絶>としてさかのぼって提示したのであった。
こうした事情は、宮沢俊義にも同様であった。宮沢は、根本的な憲法改正は不要であり、明治憲法の部分的修正と民主的運用で十分だと主張していた。そして、政府による憲法改正作業にも参加していた。ところが新憲法草案に触れるに及んで一転し、根本的な転換がポツダム宣言受諾の時点でなされたという「8月革命説」を唱えはじめ、それが戦後の憲法学の支柱となったのであった。これが後に宮沢憲法学の「転向」という江藤淳(作家の三島由紀夫と同類の極右の保守派文学評論家)の甚だ正鵠を射た批判を呼び起こした所以でもあったが、新憲法草案に触れた時点になって、やっと自覚された転換を半年さかのぼって敗戦の時点の<断絶>として提示するものであったという点は、先の丸山の場合と同様であった。
しかし、このような指摘がまさに正鵠を射たものであったにせよ、それをもって二人の業績が、いずれも俄仕込みの底の浅いものであったと決めつけることは、もちろん早計であろうが、この点に関しては、憲法学についても政治学についても専門外で全くの門外漢であるから、何も論ずる資格も能力もないが、間もなく敗戦60年の記念すべき日を迎えるにあたり、8.15の「連続」と「断絶」を改めてしっかりと自覚することは、とりわけ満州事変前夜を思わせる昨今の危機的情勢に鑑み必要なことではあるまいか。
[リンク] 丸山真男(ウィキペディア) 宮沢俊義(ウィキペディア) 藤田省三(ウィキペディア) ポツダム宣言 降伏文書 玉音放送(ウィキペディア) 終戦の詔勅 旧GHQ本部付近 靖国問題の効用 戦前と戦後の断絶と連続
その意味からすれば、8.15時点における認識から、これらの諸改革に刺激されて、徐々に「転回」「転向」がなされたのであった以上、自他ともに「進歩的文化人」を名乗り、いかにも古くから知っていたような顔をして、偉そうに民主主義を説いた人々は、総じてどれもこれも付け刃の俄仕込みの紛い物といっても一向に差し支えないわけである。
ただ、たとい俄仕込みであったにしても、一応曲がりなりにもこのような「転回」「転向」がなされた限りにおいては、もはやそれらの背景は、時効によって消滅しており、不問に付してもよく、このような恥部をいつまでも声を大にして暴露してみるのは、死者にむち打つ非礼に当たることにもなろう。
一方において、8.15の時点でも、民主諸義を以前からしっかりすでに自覚しており、日本のなした戦争が侵略戦争であったことなどをすべて認識していた少数の人々は、大体、このときはまだ治安維持法違反に問われた政治犯として獄中にあり、本格的な娑婆での活動は始まっていなかったわけである。確かにこれらの真性な民主主義者と上記のような俄仕込みのまがい物の民主主義者とは、はっきりした一線が画されるにしても、やはり同様に、後になってその違いを声を大にして指摘してみてもそれほど価値はないことである。
問題なのは、当時、この「転回」「転向」が十分に、乃至は、殆ど全くなされなかった若干数の日本人(今では80歳位以上の高齢者)及び8.15後何年も何十年も経ってから生まれ育った戦争を知らない人々で、たとい戦争について多少知っていたにしても、学校において「大東亜戦争は自衛のための聖なる戦争であったのであり、決して侵略戦争ではなかった」と教えられ、「君が代」を大きな声で歌うのが当然と考える、従って同様に「転回」などという種類のことは夢にも知らない若者達や中高年者達が、8.15から60年も経た今日では、巷に充満してきていることである。
あまり適当な言い方ではないかも知れないが、強いていえば、これらのことが、今日の多くの「諸悪の根元」と言っても差し支えないのではないかと思う次第である。
これに対して、加藤周一は、占領や占領軍による新憲法の「おしつけ」は、占領軍が日本の支配階級に、民衆を解放する政策をおしつけたのであるから、占領には自由なる主体を作り出した側面があり、大多数の日本人はそれを解放と受け止めたのだと指摘していた)(菅孝行:「時代の子」丸山真男の宿命)。
こうした8.15に対する「断絶論」と「連続論」は、今日、改めて、先の戦争は、侵略戦争であったのか、それとも自衛のための聖なる戦いであったのか、という議論に言葉を換えて登場してきており、間もなく60年後の8.15を迎えるに当たり、「村山談話」といったような既製品はさて置いて、各方面で活発な論議が展開されることが、これからの日本のために、大いに望まれるところである。