枯野

写真の楽しみ

「A級戦犯」は認められるか

2005-05-30 | 雑文
                  「A級戦犯」否認論をめぐって
 
 靖国神社に祀られている「A級戦犯」なるものは、そもそものその裁きをした極東国際軍事裁判所が、合法的な根拠を欠き、戦勝国が勝手に作って、戦敗国を一方的に裁いたものであるから、無効であって認められず、少なくとも日本国内では、「A級戦犯」は存在せず、罪人でも何でもないという考え方は、周知のとおり、以前から日本人の間に広く普及してきているところであるが、最近、政府の要職にある自民党議員が、自民党代議士会で、改めてこの多数説的考え方を発言したと報ぜられている。
 今に始まったことではないから、とくに取り上げる程のこともないが、たまたま近時、首相の靖国神社公式参拝が、中国をはじめ近隣諸国から強く反発を受け、大きな政治問題となっている折から、タイムリーかつ歯に衣着せない、同党の本音を率直に表明した時宜を得た発言として注目される。
 首相はじめ閣僚が靖国神社公式参拝することについて、中国等が反対してる唯一の点は、いうまでもなく、靖国神社には「A級戦犯」も合祀されているという一点である。これに対して、首相はじめ閣僚は、一応、かつては戦犯であったかもしれないが、死んでしまった今では、日本のために命を捧げた尊い英霊であり、他の一般の英霊と異なるところはないとしてきているようであるが、前記自民党議員の発言からすると、実はもっと進んで、そもそも「A級戦犯」なるものも始めから存在しておらず、東京裁判そのものが認められないという多数説的考え方こそが、その真意であるのではないかと思われないでもないようである。
 この点についての今回のこの明快な自民党議員の発言は、首相らからは、その特別の立場上、近隣諸国に配慮して、いくらなんでもそこまでは言いたくても我慢して言わないでいたところを、代弁してくれたものと受けとることができよう。この考え方が「多数説」であるという理由は、言うまでもなく、現在、自民党が国民の多数の支持を得て、政権につき、その自民党の議員全員が、この考え方に反対していないことからみて明らかなところといえよう。間接的に言えば、この考え方は、大雑把に計算して、日本の有権者の過半数が支持しているということになろう。
 ところで、東京裁判については、ただ一人、被告人全員を無罪とする立場をとったインドのパ-ル判事をはじめとして、なんと当時の裁判長とか、いろいろの人が、後に疑点を語っており、今からすると多くの問題点が指摘されていることも事実である。この東京裁判の総括的主催者であったマッカーサー総司令官も、後日、「日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、安全保障のためであった」と述べ、東京裁判で裁いた日本の侵略を否定し、日本が行った戦争は、自衛のための戦争であったと認めたとも言われている。また、天皇の責任追及を強く主張していたオーストラリアのウェッブ裁判長すらも、後日、「アメリカもイギリスも、日本が1941年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えていたかも知れない」と述べていたという。日本人が書いた東京裁判を否定、攻撃する文献は、何冊も出ているが、いろいろの東京裁判の問題点については、紙数の関係上、ここでは深入りしないこととしょう。 
 いずれにしても、東京裁判自体を否定し、「A級戦犯なるものは、もともと存在しない」とすることは、ひいては、中国や韓国などが主張している日本の近隣諸国の植民地化や侵略戦争までも否定することに繋がり、あの戦争はやむを得ない自衛的な聖戦であって、決して侵略戦争ではなかったと考えることになり、そして、これがすなわち偏向のない正しい歴史認識でなければならず、よって、必然的に、教科書も扶桑社版のように、しっかりと、自虐的でないこの線で記述されなければならないということになるわけである。そして、それで至極結構ではないかというのが、目下の自民党を含む日本における「多数説」であるわけである。


 [リンク]
 極東国際軍事(東京)裁判  連続と断絶-8.15の意味  旧GHQ本部付近  靖国問題の効用  最高裁靖国判決の回顧

総会屋は減っているか

2005-05-15 | 雑文
               (西の品川神社に対する東の荏原神社)
 
 これまで言われてきた日本的企業風土である終身雇用制、年功序列、学歴偏重などとともに、具体的な経営方法としては、職務権限の不明確からくる稟議制度などに象徴される責任の曖昧さなどの諸点が、最近では、かなり崩れてきて、途中採用に見られる雇用の流動性の増加や学歴無視、具体的な実績に基づく勤務評価による報酬体系の確立など、かなり欧米諸国並の企業風土に変貌しつつあることは、否定できない現実であろう。
 しかし、そうは言ってもまだまだ伝統的な日本的企業風土は、根強く残存していることも確かであろう。企業風土に限らず、どういう分野の風土でも、およそ風土といえる以上は、すべて一朝一夕にそう簡単に変わるものではあるまい。
 ここでは、そういう一般的な問題ではなく、やはり日本的企業風土の象徴の一つと思われるいわゆる総会屋の問題を簡単に取り上げてみよう(欧米には、総会屋はおらず、なんでそんな者に、会社の金を出すのかと言って、欧米人には、いくら説明しても理解してもらえない)。
 昭和25年の商法改正において、政府原案にあった「会社荒らし等に関する贈収賄罪」の規定がそのままでは、安易に総会屋への利益供与に適用されることを危惧して財界が要求した修正、すなわち、「不正の請託」を伴う利益供与がなされた場合に限り適用し、「不正の請託」を伴わない総会屋に対する単純な利益供与には、この規定は適用できないようにした修正を原案に加えて、現行規定(商法494条)が成立したため、爾来、一般に、総会屋に対する利益供与に対してこの規定が実際に発動されて、総会屋も会社側も処罰されることは、事実上まず起こることはないであろうとされてきた。
 そこで、従来からの根強い日本的企業風土の一つであるこの総会屋に対する会社からの利益供与は、半ば公然とますますエスカレートして行ったのであったが、その後たまたま有名な東洋電機カラーテレビ事件で、最高裁が、「不正の請託」を伴う利益供与がなされたとみて、この規定を発動して関係者を処罰した判決を下し、広く会社関係者に強い衝撃を与えたものの、これもこの根強い企業風土に少しも警鐘を与えたことにはならず、一過性の軽い風邪を引いた程度に終わり、その後も引き続きこの慣行はさらに一層エスカレートして行き、再び総会屋への利益供与に対して、この規定が発動されることはなかった。
 しかし、周知のとおり、昭和56年の株主総会の活性化を含む商法大改正の際、今度こそは、本腰を入れてこの慣行を撲滅する姿勢から、前記の適用しにくい規定は、そのままとして、それとは別に、簡単に、直接、会社の総会屋に対する利益供与を処罰することができる新規定を制定したのであった(商法497条)。
 この改正規定は、目算どおり絶大の威力を発揮し、今日まで沢山の違反事件が摘発され、実際の処罰もかなりの件数に登っており、会社も、昭和56年以来、一転、今度は、積極的に真剣に利益供与の自粛を図ってきているが、しかしこの総会屋に対する利益供与は、株の買い占め、会社乗っ取りと同様、現在の取締役の地位の保身にかかる問題であるうえ、長い伝統的風土に根ざした慣行であることから、確かに以前の最盛期に較べると、総会屋も大幅に減少し、利益供与もうんと少なくなってきているように見受けられるが、水面下のことはよく分からないが、まだまだ容易に撲滅するところまでは来ていないのではあるまいか。


           

会社への貢献度

2005-05-14 | 雑文



                              会社への貢献度
                        
 先年亡くなられた日本の商法学の泰斗、鈴木竹雄先生が、監査役制度が話題になったとき、「利益処分で計上している役員賞与は、取締役だけで、監査役は含めるべきではない」と語っておられたが、この持論は、雑誌(商事法務)の論稿中でも書かれていたように記憶している。
 この考え方の根拠は、監査役は、取締役と違って会社の業務を執行しておらず、その監査の仕事は、会社が利益を挙げるのになんら貢献していない性格のものであるからということにある。
 いうまでもなく会社は、営利を目的とした社団法人であり(商法52条、54条1項)、同じ社団法人でも民法上の社団法人が公益を目的としているのと、その目的の点において、大きく相違しているわけである。従って、利益を挙げようとして会社の役職員の全員がそれぞれの部署においてその担当の職務を日々行っているわけで、もし、利益を挙げるのにいささかも貢献しない仕事をしている者がいると分かれば、以後その仕事は即刻やらないこととし、その者は、他の利益を挙げるのに貢献する仕事をしている部署に配置換えすることになろう。すなわち、現に会社で何かをやっている者は、必ず利益を挙げるのに貢献する仕事をしている筈である。
 監査役の監査の仕事が、会社の利益を挙げることにいささかも貢献しないという鈴木説からすると、普通ならそういう無用な仕事をすることは、取り止めて、そのような仕事をしている者は、配置換えするとか、場合によっては解雇、整理するとかすべきことになるが、監査役の設置は、法律が強制していることから不可能であるため、涙を飲んで置いているということになる。
 ところで、監査役のことは、少数の者だけの話で、かつ、従業員には関係なく、大勢に影響はないが、しかし、もし監査役が行う監査の仕事が会社の利益を挙げるのには貢献しないという考え方を進めると、会社が監査役とは別に内部統制機構として「監査室」とか「監査部」とかいったような部署を置いている場合(大会社にはそういう部署が置かれているところも多いようである)、このような部署でも監査役が行う監査の仕事と大同小異な仕事がなされているから、こういう部署の社員は、やはり利益を挙げるのには貢献していないということになりはしないだろうか。そして、通常の給料は仕方がないとしても、やはり利益の配分の性格を持つ「ボーナス」を支給することは、適当でないとうことにも発展しないではすまないのではあるまいか。
 もっと簡単にいえば、監査役が何人もいて、それらの監査役の執務のために「監査役室」が会社のなかの一室として用意され、その監査役の便宜のため社員が配属になっているような場合(大会社にはそういうところも多いようである)、同様な見地からその社員には、「ボーナス」を支給すべきでないということになろうか。
 こういうことを言い出すと、きりがなく、株主総会の招集通知の作成などの仕事に従事している社員などにもやはり「ボーナス」を支給するのは、適当でないということになってこよう。ただし、このような考え方は、あくまでも前記の鈴木説に立脚してのことであって、鈴木説をとらなければ、そういうことにはならなず、どの社員の会社でのそれぞれの部署での仕事は、すべて、会社の本来的な目的である利益を挙げることに貢献しており、従ってすべての社員に「ボーナス」を支給することはいうまでもなく適当であるという常識的な考え方が成り立つわけである。
 こういう常識的な立場に立つとしても、次の問題は、会社の利益の獲得に、各社員がそれぞれの仕事の成果に応じて貢献度が異なると考えて、それに対応する、「ポーナス」の支給額等に差等を設ける場合、従来各社においてそういう各社員の会社への貢献度の査定基準、査定方法について苦心してきていることである。売った自動車の台数とか投資信託の数量といったようなセールスマンのノルマ達成率や研究所の研究者が発明した貴重な特許とかいったような明確なものがない社員の仕事の場合、実績に応じた報酬体系を確立するための会社の利益獲得への貢献度の査定は、大いに難しい問題であろうが、こういう問題に入ると、もう全く専門外のことなので、何ら述べる資格も能力もないから、簡単ではあるが、この辺で終わりとしたい。

                    

会社への忠誠心

2005-05-13 | 雑文



                   会社への忠誠心   

 会社への忠誠心は、日本が世界最低ーという米世論調査会社ギャラップの世論調査の結果が報道されたが(13日朝日)、逆に受け取っていた小生には、以外な感じがした。
 会社への帰属意識や熱意が「非常にある」と判定された人の割合は、わずか9%で、調査した14カ国のうち最低で、「あまりない」が67%、「まったくない」が24%で、4人に1人が「まったくない」とされ、職場に反感や不満を感じているという。
 同社は、「米国は不満があれば転職する。日本は長期雇用の傾向が強いこともあって、相当我慢してるのではないか」と分析しているということである。
 会社の仕事を家に持ち帰ってまでやるとか、夜遅くまで残業するとか、日本の会社員は、世界一勤勉で、会社に対する忠誠心は、世界一かと思っていたが、この調査からするといささか認識不足であったことになる。
 もちろん一概には言えないが、例えば、会社の事務部門では、営業部門での自動車の販売数とか投資信託の販売量などのノルマ達成率のような明確な指標、成果といったものがないこともあって、自然、就業規則上の5時頃に女性社員が一斉に退社した頃から、ぼつぼつ何かやり始め、9時頃まで「外形残業」(external overtime work)をするといった商慣習が定着しているところも少なからずあるのではあるまいか。もっともこれも、係長が何かやり始めたのに、先に退社するわけには行かず、やむを得ずお付き合いする、課長も部下の全員が何か忙しそうに残業に入ったのに、やはり自分だけ先に退社するのも気が引けるということから、悪貨は良貨を駆逐するということで、自然発生的に蔓延したということであろうか。たまたま何かの都合で、社長なとが夜9時ごろ帰社してきた際、こういう残業をしている部署を通過して、「あの課の連中だけはよくやっているようだから、ボーナスを特にうんとやるように」などと指示することも、一層このような傾向を助長させているのではあるまいか。
 会社員の多くは、特になにか資格を取ろうとして会社から帰ってから勉強するとか、パソコンを自作するとか、いいブログを投稿しようと毎日会社から帰った後張り切っているとかいうような者を除いて、大体、会社を終えた後、特にどうするとか、どうしなければならないとかいうことはないので、昔はマージャンがはやったが、同僚と一杯やるとか、家に帰ってもテレビで野球を見る位のことしかすることはなく、前記のような「外形残業」をして会社に居残っても、結局同じことになり、かつ残業代(管理職を除く)も貰えて一石二鳥ということにもなるーこういう一つの裏側からすると、日本の会社員が、全員勤勉であって、会社への忠誠心が強いとは必ずしも言い切れないと見るのも当たっているのかも知れない。





 

最高裁靖国判決の回顧

2005-05-05 | 雑文
                           

                                        最高裁靖国判決の回顧


 憲法は、門外漢であり、かつ、憲法記念日も過ぎてしまったから、学説なども研究しないで、いい加減なことを書くのは、すこぶる気が引けるが、憲法づいたついでに、お粗末な私見を記す次第である。
 周知のとおり、平成9年4月2日の最高裁大法廷判決は、県が靖国神社等に玉串料等を県の公金から支出して奉納したのは、憲法20条3項(国・その機関の宗教的活動の禁止)、同89条(公金等の宗教団体への支出の禁止)に違反するとした。その根拠としては、靖国神社や護国神社は、宗教上の団体に当たるとした上で、玉串料等の支出は、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によってすでにその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまではいえなということにある。
 そこで、問題としては、第一に、宗教法人である靖国神社等が、前記憲法89条における公金の支出等が禁止される「宗教上の組織もしは団体」に該当するか否か、第二に、玉串料等の支出が、同20條3項にいう「宗教的活動」といいうるか否かの二点が重要であろう。とくに、第二の点は、非常に難しい問題点というべきであろう。玉串料等の奉納は儀礼的な意味合いの濃いものであって、まさに慣習化した社会的儀礼にすぎないから、たとい公金であっても、また、宗教団体に対するものであっても、その奉納は、違憲ではないという立場も大いに成り立ちうるであろう。たしかに、学説上は、この最高裁判決に反対する議論も十分可能ではあろうけれども、裁判所の判例としては、なにしろ確定した最高裁のものだけに、この最高裁の考え方は、類似した事例において、下級審で採用される余地は大いに考えられよう。
 全く同じではないが、類似した問題として、古くは、1985年に当時の中曽根首相が、靖国神社に公式参拝したことについて、3件の損害賠償訴訟が起こされ、いずれも請求は退けられたが、1992年2月福岡高裁は、首相が公式参拝を繰り返すならば、違憲となると指摘し、1992年7月大阪高裁も、宗教的活動にあたる疑いが強く、憲法に違反する疑いがあると述べている。
 小泉首相の靖国参拝訴訟としては、東京、千葉、大阪(2件)、松山、福岡、那覇の6地域、7件の違憲訴訟が起こされ、大阪地裁の2判決のうち、一方は、損害賠償請求は退けたが、参拝は、総理大臣の資格で行った公的参拝であったことを認めるとしている(他方は、憲法判断を回避した上で、参拝を私的なものと判断している)。さらに、2004年4月の福岡地裁判決は、慰謝料の請求については棄却したものの、参拝は、職務の執行に当たり、憲法違反であるとはっきり断定し、下級審の判決ではあるが、一般の注目を呼んだことは、記憶に新たなところである。この福岡地裁判決を受けて、小泉首相は、「私的な参拝といってもいい」と語り、公私の区別をあえて曖昧にしてきた従来の姿勢を転換させた。しかし、「おかしいねえ。なぜ憲法違反か分からない」と述べている(従来、こうした憲法違反の問題があるところから、参拝は、私的なものであるというのが政府の公式見解であるようだ)。
 私的な参拝であるとすれば、お彼岸にお寺参りするのと同様なものになり、日本国内でもアジヤ諸国からでも強く抗議される根拠が失われる理屈になるかも知れないが、しかし、あくまでも強気の公式参拝としなければ、国内の支持母体との関係上、到底収まりがつく筋合いのものでないことは、大いに同情に値するところである。
 いずれにしても、この参拝問題については、今のところ、下級審の判例面では、参拝者にとって旗色はあまり芳しくない雰囲気のようであるが、しかし、最高裁の判断は、示されていないのであるから、その確率は極めて低いと思われるが、しかし、もしかすると玉串料とは違って、公式参拝でも違憲ではないとする結論が出ないとも限らず、今後の推移が注目されるところである。


 [リンク] 最高裁靖国判決   靖国神社問題   

憲法9条改正論議

2005-05-04 | 雑文

                        (北品川の権現山公園にて)

 憲法記念日の3日の朝日新聞に掲載された同社が行った世論調査の結果を見ると、9条の改正に反対は、51%であるが、自衛隊は、今のままでよいが、ただ、憲法を改正してその存在を明記すべきであるとする意見が、58%に達しているということのようである。つまり、実績を重ねた自衛隊を普通の軍隊にすることには躊躇するが、今の自衛隊を憲法にきちっと位置づける方がよいという結論になるわけである。
 憲法については、門外漢であるから何ら私見を述べたりする資格も能力もないが、折りしも国会の憲法調査会の報告書が発表されたこともあって、ずぶの素人ながら俄に興味と関心が寄せられる次第である。前記世論調査の結果とあわせて、前記調査会の調査報告を読むと、問題点が浮き彫りにされ、どういう立場に賛するかどうかは別として、不勉強な者にとっては、非常に啓蒙させられるものがある。
 やはり目下の憲法改正論議の中心をなす重要問題は、戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めた9条改正の是非及び自衛隊をどう考えるかの点であろう。もともとこの9条については、これまでも各種の解釈や意見が錯綜してきているようであるが、ただ、昨今では、自衛隊は、9条からみて違憲であるとする見解は、極めて少数になっているようで、逆に、9条は、自衛のための戦力の保持までも禁止しているものではないから、自衛隊は違憲ではないとする解釈が、定着してきているように見受けられる。
 そうだとすると、自衛隊は、違憲でないことを明らかに示す意味から、むしろ積極的にこれを公認するための明文規定を憲法に設ける必要があるという考え方が浮上してくるわけであり、9条は、そのままにしておいて、この方の改正こそが急がれるという点が、問題となってこよう。
 前記調査会の報告書では、他の点についても同様であるが、無理に一つの立場に集約した意見を示してはおらず、各種の違った立場の意見とその動向を紹介するに止めているようであるが、かえって、それだけに貴重な資料を提供してくれたわけである。そこで、自衛隊の問題については、「自衛権及び自衛隊の憲法上の根拠を明らかにするための措置をとるべきであるとする意見」、「自衛権の行使や自衛隊の法的統制に関する規定を憲法に設けるべきであるとする意見」、「自衛のための必要最小限度の武力の行使を認めつつ、9条を堅持すべきであるとする意見」、そして、最後に「自衛権の行使としての武力の行使及び自衛隊に否定的な意見」の各種の意見の詳細な内容を開示している。
 そこで、9条は、そのままにして、自衛隊を憲法上公認すべきであるという前記の調査において示された世論での多数意見について考えてみると、調査会報告書に記されているとおり、この立場を根拠づける理屈としては、自衛隊が保持する実力は、自衛のための必要最小限度のものであり、9条2項で保持が禁ぜられる「陸海空軍その他の戦力」には当たらないという解釈を前提とした上でのことになろう。そして、その具体的な自衛隊の憲法規定は、どうなるかが次に当然問題となってくるわけである。
 何ら憲法改正の必要はないという立場に立つとすれば何もすることはないが、何らかの改正が必要であるとする各種の立場に立つ各種の憲法改正条文の案をそれぞれについて順次詳細を詰めて行くことが次の課題であろう。



予防的買い占め防衛策

2005-04-22 | 雑文

                         (南品川の東海禅寺にて)   


                          予防的買い占め防衛策

 21日、東京証券取引所は「敵対的買収防衛策の導入に際しての投資者保護上の留意事項について」と題する文書を各上場会社に送付した。
 先のニッポン放送事件において、買占めが出現した場合に、現経営者の取締役が、その買占めが成功したときに自己の取締役としての地位が失われることを危惧して、現に会社の経営を任されていることを奇貨として、このような自己の利益のために何か有益となる会社の行為をすることができるか、その一つとして取締役会において大量の新株予約権の発行を決議して、買占めの進行を阻止することができるかが、大きな法律上の問題として浮上したが、このように買い占めが出現したのを機に、その対抗策として前記の目的から合法的にどんなことをすることが可能かという泥縄的問題からさらに進んで、将来買い占めが万一発生した場合に、同様の危惧から、あらかじめ事前に、現に経営を任されていることを奇貨として、会社の行為として何か自己保身に役立つ予備的な防衛策を設定しておくことができるかに問題が移行してきた。
 周知のとおり、アメリカにおいては、古くから敵対的買占めの問題は、苦い長い経験を積んできたところから、この問題については、今日では立法・判例の面でも実務上の面でも、とっくにほぼ解決済みとなっているといっても過言ではないが、日本においては、これまで本格的な敵対的買占めの経験に乏しいことから、やっとこんどのニッポン放送事件を機に各方面でこの問題が、真剣に取り上げられるようになったわけである。
 しかし、各方面といっても、実はその大部分は、買い占めの脅威を誰よりも強く自分の問題として意識している現経営者である取締役ないしはその直接間接の関係者が、前記の目的にかなったどのような方策が、立法をはじめとしていろいろな面で可能であるかという観点からとり上げているようである。
 誰も各自の自己の立場から問題をとり上げ、自己の都合のいい方向で問題を解決しようとするのは、当然のことであり、それらの多くの相反する立場の総合の上で、客観的に妥当な結論を模索することが民主社会での基本ルールであることはいうまでもない。このような点に鑑みると、この買占め対抗策の問題は、元来株主の所有物である会社を、たまたまその委託を受けて委託者である株主の利益のために最善を尽くす義務のある受託者の立場にある取締役が、この義務に反して、あたかも会社が自己の所有物であるかのように私物化して、もっぱら自己個人の利益(取締役としての自己の地位の保身)をはかる目的の買占め対抗策をとろうとするところにあり、それは会社の所有者であり、委託者である株主に対する背信行為に相当するわけで、その犠牲者となりうる株主の立場からの強い牽制がとりわけ必要なことになる。
 誰が株主になってもよいか、誰が株主になってはいけないかを取締役が自由に介入決定できる会社運営組織としては、定款で、株式の譲渡は取締役会の承認を要する旨を規定したいわゆる譲渡制限会社の制度が用意されているから、そうでない公開会社にあっては、そもそも誰かが会社の株式を大量に買ったからといって取締役がそれについて介入し、とやかくいうことが許される筋合いのものではないわけであるが、現実には、往々気に入らない株主への移動を阻止するため、事前に、無差別に株式の大量取得を押さえようとするこうした株主の利益ないしは株主平等の原則に反するおそれのある取締役による過剰違法防衛策が講ぜられ勝ちであり、このような動きを委託者であり会社の所有者である株主の立場から牽制警告する側の代表的な見解の一つとして、今回発表された東京証券取引所の上場会社の代表者宛てに送付された前記の文書が、大いに注目されるところである。
 東証については、下記の東証のホームページをご覧戴くことにして、ここでは長くなるので、これ以上述べないこととしよう。
   東京証券取引所 


                                            (ルノワール)

ライブドアのニンポン放送への取締役送り込み

2005-04-07 | 雑文

                    (東海禅寺の北品川にある墓地にて)

 6日の日本経済新聞の報道によると、ライブドアは、ニッポン放送に対し20人の過半数に相当する11人の取締役を送り込む方向で、株主提案を送付する準備を進めているということである。
 株主総会で議決権の過半数を制することが可能と思われることから、その提案は、6月総会で賛成多数で承認可決されることは、既定の事実といっても差し支えないであろう。衆議院で過半数を占めた政党が、総理大臣を出し、全閣僚もその総理の思うままの者を宛てさせるのと全く同じことである。
 このことは、取り立てて話題にするほどのこともないが、折角なので、外野席から野次を飛ばそう。
 まず、第一に、最近はかなりの大会社でも取締役の総数は、可能な限り少なくする傾向にある。少ないほどいいというものでもないだろうが、終身雇用の論功行賞として従業員に報いるため、また、元部下の従業員なら社長の押さえがきくことから、つい従業員から経営手腕の有無とは関係なく、多数取締役に抜擢し、そのため取締役の総数は、膨張する一方であった。もっとも取締役という肩書きがあると対外的に商売がやりやすいという利点もあって、商社や銀行、証券会社などは、50人以上もの取締役を抱えていたものであった。
 ニッポン放送では、いままで取締役は、20人置いていたようであるが、同放送の内部事情のことは外野席からではさっぱり分からないが、昨今の傾向からすると、10人でも多すぎるようなな感じがしないでもない。そうだとすると、いい機会だから、この際6月総会で、今後は、例えば、総数10人前後の少数精鋭の取締役を置くことに改めることにしてはどうだろうか。
 蛇足ではあるが、ニッポン放送も多分定款では、「取締役は、20名以内とする。」というふうに規定されているはずで、「20名とする。」といつたふうには規定してはいないと思われる。「××名」と規定してしまうと、1人でも死亡したり、辞任したりすると、急遽臨時総会を開催して補充選出しなければならなくなり、時期によっては、面倒になることから、どの会社でも確定数とはせず、上限を定めるに止めているのが普通である。この限度内で何人とするかは、そのつど総会で、3人以上なら如何ようにも任意に決めてよいわけである。いうまでもなく20名が任期満了により退任となるからといって、同数の20名を選任しなければならないというようなことは、毛頭ないわけである。 
 次に、今後のニッポン放送のこれらの取締役を誰にするか、また総数を何名にするかは、勿論ライブドア側がいかようにも思うままに決めることができるわけであるから、極端な場合、総数を10名程度に半減することとし、かつその全員を自派で独占しても何ら差し支えないわけであるどころかむしろその方が筋であるといえようが、上記報道によると20名の過半数ぎりぎりの11名の取締役を自派から送り込むに止めるかのようである。取締役会の決議は出席した取締役の過半数で決するのであるからこれで最小限ことは足りるわけであるが、反対を押し切って強引に採決に持ち込んだりするのも、国会ではあるまいし、やや角が立つばかりでなく、取締役の中に他派の者が交じっていると、取締役会での議論やその他の事情がすべて筒抜けになり、やりにくいことも起こりうるであろうから、他派の要求や意見は、取締役会の外でじっくり承ることにして、閣内には入れないようにするのも一考に値しはしないだろうか。また、この際、従業員様や取引先様、出演者様の動揺を避ける意味からも、これらの方々から適当な人をそれぞれ1人づつ取締役に入って戴くことも考慮してはいかがなものであろうか。
 

条約の条文中の誤訳(続き)

2005-04-05 | 雑文

                         (品川小学校の校門です)       

 「日米友好通商航海条約」第8条第3項では、次のように、公益事業活動について、相互に、内国民待遇及び最恵国待遇を与えると規定している。
 第8条
3 いずれの一方の締約国の国民及び会社も、他方の締約国の領域内で学術、教育、宗教及び慈善の活動を行うことに関して、内国民待遇及び最恵国待遇を与えられ、且つ、その活動を行うため当該他方の締約国の法令に基づいて団体を組織する権利を与えられる。
 従って、この条項からすれば、アメリカの国民及び会社は、日本民法34条(公益法人の設立)の「学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる」とする規定に基づいて、日本国内で公益法人を設立することに関して、日本人と同じ待遇を受け、主務官庁の許可の可否について、アメリカ人だからという理由だけで差別されることはないことになる。
 しかし、これらの営利及び非営利の事業活動について、内国民待遇(非営利の場合には、さらに最恵国待遇も)を与えることについて、同条約第7条第2項で、次のように、制限が可能であると規定している。
 第7条
2 各締約国は、外国人が、その締約国の領域内で公益事業を行う企業若しくは造船、航空運送、水上運送、銀行業務(預金業務又は信託業務に限る。)若しくは土地その他の天然資源の開発を行う企業を設立し、当該企業における利益を取得し、又は当該企業を営むことができる限度を定める権利を留保する。但し、いずれか一方の締約国が、その領域内でそれらの事業を営むことに関して外国人に内国民待遇を与える限度について新たに行う制限は、その実施の際その領域内でそれらの事業を行っており、且つ、他方の締約国の国民又は会社が所有し、又は支配している企業に対しては、適用しない。更に、いずれの一方の締約国も、他方の締約国の運送事業、通信事業又は銀行業を営む会社に対し、その会社が行うことを許される本質的に国際的な業務に必要な機能を営むための支店及び代理店を維持する権利を否認してはならない。
 よって、造船、航空運送、水上運送、銀行業務(預金業務又は信託業務に限る。)若しくは土地その他の天然資源の開発を行う企業についてだけは(別にさらに業種を追加する特別な条約がある場合は、それらの業種も)、例えば、外国人はそれらの事業を営む株式会社の利益(「株式」?)の20%以上を取得できないといったような限度を定めることが許され、また、公益事業を行う企業についても、同様なしかるべき限度を定めることが許されるわけである。
 いずれにしても、上記の条文中の「....当該企業における利益を取得し、」という箇所は、「....当該企業における持分を取得し、」の誤訳ではないかと思われるが、各位のご教示を承りたい。 
   

条約の条文中の誤訳

2005-04-04 | 雑文

                              (北品川にて)

 以下の「日米友好通商航海条約」第7条第1項中の「.....他方の締約国の会社における過半数の利益を取得し、」とある中の「利益」というのは、「持分」の誤訳ではないかと思われますが、各位のご教示を戴きたく存じます。英文では、「interest」という用語が使われています。他の条文にも同様な部分があります。
 第7条
1 いずれの一方の締約国の国民及び会社も、直接であると、代理人によってであると、又は何らかの形態の適法な団体を通じてであるとを問わず、他方の締約国の領域内ですべての種類の商業、工業、金融業その他の事業の活動を行うこと、従って、(a)支店、代理店、事務所、工場その他その事業の遂行のため適当な施設を設置し、及び維持し、(b)会社に関する当該他方の締約国の一般法に基づいて会社を組織し、及び当該他方の締約国の会社における過半数の利益を取得し、並びに(c)自己が設立し、又は取得した企業を支配し、及び経営することに関して、内国民待遇を与えられる。更に、当該国民又は会社が支配する企業は、個人所有の形式であると、会社の形式その他のいずれの形式であるとを問わず、その事業の遂行に関連するすべての事項について、当該他方の締約国の国民又は会社が支配する同様の企業が与えられる待遇よりも不利でない待遇を与えられる。