枯野

写真の楽しみ

「A級戦犯」は認められるか

2005-05-30 | 雑文
                  「A級戦犯」否認論をめぐって
 
 靖国神社に祀られている「A級戦犯」なるものは、そもそものその裁きをした極東国際軍事裁判所が、合法的な根拠を欠き、戦勝国が勝手に作って、戦敗国を一方的に裁いたものであるから、無効であって認められず、少なくとも日本国内では、「A級戦犯」は存在せず、罪人でも何でもないという考え方は、周知のとおり、以前から日本人の間に広く普及してきているところであるが、最近、政府の要職にある自民党議員が、自民党代議士会で、改めてこの多数説的考え方を発言したと報ぜられている。
 今に始まったことではないから、とくに取り上げる程のこともないが、たまたま近時、首相の靖国神社公式参拝が、中国をはじめ近隣諸国から強く反発を受け、大きな政治問題となっている折から、タイムリーかつ歯に衣着せない、同党の本音を率直に表明した時宜を得た発言として注目される。
 首相はじめ閣僚が靖国神社公式参拝することについて、中国等が反対してる唯一の点は、いうまでもなく、靖国神社には「A級戦犯」も合祀されているという一点である。これに対して、首相はじめ閣僚は、一応、かつては戦犯であったかもしれないが、死んでしまった今では、日本のために命を捧げた尊い英霊であり、他の一般の英霊と異なるところはないとしてきているようであるが、前記自民党議員の発言からすると、実はもっと進んで、そもそも「A級戦犯」なるものも始めから存在しておらず、東京裁判そのものが認められないという多数説的考え方こそが、その真意であるのではないかと思われないでもないようである。
 この点についての今回のこの明快な自民党議員の発言は、首相らからは、その特別の立場上、近隣諸国に配慮して、いくらなんでもそこまでは言いたくても我慢して言わないでいたところを、代弁してくれたものと受けとることができよう。この考え方が「多数説」であるという理由は、言うまでもなく、現在、自民党が国民の多数の支持を得て、政権につき、その自民党の議員全員が、この考え方に反対していないことからみて明らかなところといえよう。間接的に言えば、この考え方は、大雑把に計算して、日本の有権者の過半数が支持しているということになろう。
 ところで、東京裁判については、ただ一人、被告人全員を無罪とする立場をとったインドのパ-ル判事をはじめとして、なんと当時の裁判長とか、いろいろの人が、後に疑点を語っており、今からすると多くの問題点が指摘されていることも事実である。この東京裁判の総括的主催者であったマッカーサー総司令官も、後日、「日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、安全保障のためであった」と述べ、東京裁判で裁いた日本の侵略を否定し、日本が行った戦争は、自衛のための戦争であったと認めたとも言われている。また、天皇の責任追及を強く主張していたオーストラリアのウェッブ裁判長すらも、後日、「アメリカもイギリスも、日本が1941年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えていたかも知れない」と述べていたという。日本人が書いた東京裁判を否定、攻撃する文献は、何冊も出ているが、いろいろの東京裁判の問題点については、紙数の関係上、ここでは深入りしないこととしょう。 
 いずれにしても、東京裁判自体を否定し、「A級戦犯なるものは、もともと存在しない」とすることは、ひいては、中国や韓国などが主張している日本の近隣諸国の植民地化や侵略戦争までも否定することに繋がり、あの戦争はやむを得ない自衛的な聖戦であって、決して侵略戦争ではなかったと考えることになり、そして、これがすなわち偏向のない正しい歴史認識でなければならず、よって、必然的に、教科書も扶桑社版のように、しっかりと、自虐的でないこの線で記述されなければならないということになるわけである。そして、それで至極結構ではないかというのが、目下の自民党を含む日本における「多数説」であるわけである。


 [リンク]
 極東国際軍事(東京)裁判  連続と断絶-8.15の意味  旧GHQ本部付近  靖国問題の効用  最高裁靖国判決の回顧

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4 コメント

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歴史の彼方に (谷 敏夫)
2005-06-03 10:39:16
 靖国参拝がどうとか、戦犯は存在しないとか、侵略戦争であったかなかったかとかいう議論も、すべて戦前の日本のことを踏まえての問題であるから、今20歳代とか30歳代の人々にとっては、何のことやらさっぱり分からない遠い歴史上のよく知らない一事件に過ぎない問題である。

 だから、日本がどこの国とどういう経緯からどういう戦争をし、その結果勝ったのか負けたのかというようなことは、今では何の関係も影響もないどうでもいい単なる昔話であって、そういう昔のことで、今更大騒ぎしても始まらないわけである。

 まして、戦前の日本において、民主主義なんてものは、ひとかけらもなく、基本的人権とか言論の自由などは、これっぽつちもない徹底した軍部独裁政治であって、一途にアジア諸民族の永遠の幸福のために、アジアの恒久平和を確立するため、大東亜戦争の戦線を拡大していったことを当時の日本の中にいて、つぶさに体験したわけではないそういう年代の人々が、かりに多少本などて読んだり、お爺ちゃんから聞いたりしたことがあったとしても、到底十分にはこれらの事情を理解することはできないのは当然である。

 高齢者の患者が死期が迫っているのに突如ベッドに土下座して謝り始めたとか、中国語で何かを言っているとか、廊下をわめきながら走り出すといった事例に、若い医者は、どんな理由でこのような行為をし出すのかさっぱり分からないということについて本に書いてあったのを覚えている。いずれにしても、戦後長年月を経た現在、こうした若い人々(必ずしも20歳代、30歳代に限らない、50歳代でも大同小異である)に、靖国問題とか侵略戦争でなく正しい自衛のための戦争であったとかいやそうではなくやっぱり侵略戦争であったとかいってみても、どだい無理な話であろう。
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謹んで訂正 (谷 敏夫)
2005-06-03 12:42:29
 前記コメントで、「....アジアの恒久平和を確立するため、大東亜戦争の戦線を拡大していった」は、「....アジアの恒久平和を確立するためと称して、大東亜戦争の戦線を拡大していった」のうっかりした誤記でした。

 謹んで訂正いたします。
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日本人が受けた被害 (かりや)
2005-06-05 20:37:01
 中国人の哲学者許伝音なる人が、「私は1937年に日本軍の南京攻撃の時南京におり日本軍の手中に陥って後も市中に残留しました。.....私の最善の推定によれば南京市内外で陥落後かつすべての抵抗が止まって後に日本兵の手によって殺戮された中国人一般人の総数は20万人内外であります」(極東国際軍事裁判、検察側証拠書類第1734号、法廷証拠番号205号)と証言している。

 他方、当時、日本軍の南京攻略に参加したという生き残りの日本人を苦労して探し出し、それらの老人に面接調査したところ、「南京大虐殺など無かったと思う」と口を揃えて言っているという新聞記事を読んだことがある。

 0と20万では大違いであるが、ここで言いたいことは、日本の侵略戦争で近隣諸国に迷惑をかけたことを率直に反省するとした政府首脳の談話で「心からお詫びする」と言明したことも何回かあった一方、国内では、これと正反対に、「戦犯は存在しなかった」とか、「大東亜戦争は、自衛のための正しい戦争であった」とか「中国に屈するな」とか大いに気勢を挙げ、そして国民の半数以上が、「その通り!」、「異議なし!」と喝采していることである。

 中国など近隣諸国へ迷惑をかけた日本の戦争指導者の責任もさりながら、日本人にとって、最も問題なのは、前記の児玉和幸様がコメントで指摘されておられるように、日本内地における空襲、艦砲射撃、はては原爆、また沖縄では直接の陸上の戦闘に非戦闘員の住民達が、多数巻き込まれ、中には、例えば、塹壕に逃げ込もうとする住民を日本兵が受け入れなかったため、死んでいったような住民すらあったともいわれているそうした諸々の日本人が受けた被害に対する戦争指導者の責任が強く問われなければならないことである。

 原爆はアメリカが投下し、空襲などもアメリカがやったのだから、なんら責任がないということにはならない。戦争開始の責任がある以上、これらの戦争による国民の受けた被害の全部について戦争指導者の各人に対してそれぞれの個人的責任が、徹底的に問われなければならない。事実、軍人や一部の被害者のような仲間達などに対して、戦後、政府が 正式に援助しているが、空襲などによる一般人の被害などはどうでもよく全く無視されている。

 「国体を護持する」と称して、自分達戦争指導者だけの保身に明け暮れ、一般国民のことなど眼中になかった降伏時の悪足掻きは、その悪質な正体が万人の目に明らかにされた象徴的な事実と言えよう。

 しかし、こういう遠い過去のことを知っており、また問題とする人々も最近では非常に少なくなってきているが、これらの過去のことが、実は非常に重要な現在に繋がる正に現在に関する問題であることに鑑みると、そろそろ「歴史は繰り返す」時期が近づいてきているようである。
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戦前との連続 (Yuki)
2005-06-08 12:12:15
 6月は、昭和20年(1945年)、文字通り帝国陸海軍が全滅した沖縄戦終焉の月として、終戦の8月とともに日本人には永遠に夢にも忘れることができない月でなければならない。

 5月22日、米軍は那覇市内に突入。第32軍は軍主力を沖縄島南部に後退決定。陸軍病院看護婦に徴用された「ひめゆり部隊」(沖縄師範女子部150人)と「おとひめ部隊」(沖縄県立第一高女生50人)は、砲弾の降る雨中を島の南部へ移動。

 6月4日、米軍は、沖縄小禄地区に上陸。同地区の海軍部隊8,900人は13日までに玉砕(全員戦死)、バックナー中将は牛島軍司令官に降伏勧告。

 総攻撃の前に出された解散命令を遅れて知った「ひめゆり・おとひめ部隊」は、別離の演芸会の直後、壕内に手榴弾を投げ込まれ、兵士とともに49人が惨死。「ひめゆり・おとひめ」部隊は23日にかけて多数自決。6月23日、摩文仁の壕で牛島軍司令官ら自決。沖縄守備隊全滅(戦死9万人、義勇兵約2万人、そして実に一般国民10万人が死亡)。7月2日、米軍は沖縄作戦終了を宣言。

 沖縄戦は、全島が戦場化し、全県民が戦争に巻き込まれた。そして、事実は、住民は軍と一体になって戦ったのではなく、むしろ軍が住民を文字どおり楯にし、排除し、ときには拳銃で殺傷し、あるいは集団死(集団自決)を強いた正に日本軍が日本住民に銃を向けた戦争であったことを銘記すべきである。

 当時の沖縄戦を体験した一般住民の多くは、たいてい軍によって「壕追い出し」、「食料強奪」などの経験をしているが、今では、当時の生存者も数少なくなり、現在の沖縄の人々でも、多くはもはやよく知らない古い過去の物語になってきているようである。

 この戦争を再び、「大東亜戦争」と呼び、そして、侵略戦争などとはほど遠い自衛のための正しい聖なる戦争であったと再認識しようとする現在の風潮によく象徴されているように、日本では、ドイツと異なり、戦前とのはっきりした離別がなされていないことが、すべての問題の根元にあるわけである。

 最近、「天皇は終戦時に退任すべきであった」とする論も一部に出ているが、当の終戦時には、天皇退位論は、激しく論議されたが、結局、天皇を利用して初期の占領政策を円滑に遂行しょうと意図した米国発案の「象徴天皇制」の憲法が成立することによって、曲がりなりにも天皇制が残存していくことになったわけであった。

 そして、やはり米国の政策転換により、残りの戦犯の釈放などが行われ、その釈放戦犯中から、なんと総理大臣になるものも出たり、さらには、自衛隊の発足など、蕩々と戦前復帰が急速に進展し、今日ではほぼ戦前復帰は、完成の域に近づいてきたといっても過言ではない。米国は、今では、日本が憲法を改正するなりして、さらに強大な軍事大国になることをむしろ歓迎しているなど、情勢は、戦後間もなくの頃とは、180度様変わりしているわけである。

 こうしたドイツと異なる戦前との断絶のない、いわば「終戦」という「特異点」のない微分可能な一価連続函数のような延長線の存在する背景を正確に認識することが現在の急務といえよう。 
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