この第一生命ビルから財閥解体、農地改革、東京裁判、公職追 放、天皇の神格否定、主権在民、男女平等、封建的家族制度の廃 止、労働組合の法認、女性参政権、基本的人権の付与、日本国憲法草案の作成を始めとした数々の日本民主化のためのGHQの占領政策が打ち出されたのは、今ではもう、誰もあまりよく知らない単なる遠い過去の歴史上の出来事の一つに過ぎないものとなってしまった。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く(日本国憲法第1条)。[大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(大日本帝國憲法第1条)]。
(米国政府は、天皇を処刑せず、生かしておいてむしろ利用することで、安定的な降伏後の日本再建をはかるべきことを、終戦の1年以上前の1944年5月に、各省連絡委員会で覚書を作成して決定していた。この天皇の戦後利用の決定にあたっては、戦時情報局長エルマー・ディヴィスや国務省知日派のジョセフ・グルーら穏健保守派の天皇利用の主張と、オーウェン・ラティモアやハーバード・ノーマンらの、「混乱があっても天皇に戦争責任をとらせるべきである」とする改革派の主張とが対立したといわれている)。
日本の憲法の改正は、あくまでも日本自身で行うべきものであり、GHQや極東委員会の許可を得る必要はなく、ただし、重大事項であるから、立案過程でGHQが日本政府と接触をもつのは当然であるとしながらも、日本政府がやろうとしている日本の憲法改正作業を単に見守っていたに過ぎなかったGHQであったが、1946年2月1日、日本政府の憲法改正試案(松本試案、実は、宮沢私案)なるものを毎日新聞がスクープ。この案では、若干の用語を修正するだけで、内容は、明治憲法を引き続き、殆ど改正せずそのまま継続させて行こうとするものであった。
これを知ったGHQは、本意ではないが、日本政府と接触した後、急遽(僅か9日間)、日本の憲法改正の草案を作成し、同年2月13日、外相官邸で日本側に手渡した(日本側の出席者は、吉田茂外相、松本丞治国務相ら)。民主主義とか主権在民、基本的人権などの考え方を一切全く知らなかった日本側は、全員、この案を見て、顔面蒼白、震えが止まらなかったといわれている。なかでも特に吃驚仰天したのは、男女平等、女性にも男性と全く同様に選挙権・被選挙権が与えられることであった。こんなことでは、日本が滅びると日本側全員が真剣に危惧したのであった(しかし、同年4月10日、新選挙法に基づき第22回総選挙が行われ、共産党が合法政党として認められたのと同時に、婦人参政権が認められた初の総選挙であったが、幸いなことに、危惧されたような日本の滅亡、崩壊は起こらなかった)。
「中国への侵略戦争などに反対し、逮捕された治安維持法の犠牲者は数十万人といわれる。小林多喜二ら、拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194に上る。これら犠牲者のうち、確認されている生存者は全国で106人。そのうち1人は私である。
同じ第2次世界大戦の敗戦国のドイツやイタリアは、戦犯追及と共に、戦争犠牲者やレジスタンス参加者に対して救済や顕彰を行っている。だが、日本ではいまだに無視され続けている。
日弁連の1993年の人権擁護大会で「(軍国主義に抵抗した治安維持法犠牲者は)他の戦争被害補償に先んじて補償がなされなければならないのに、放置されている」と指摘があった点に注目したい。
治安維持法犠牲者の生存者の平均年齢はすでに90歳を超えている、という。国に一日も早い謝罪と補償の実施を求めたい。それが実現するまでは、戦争は、まだ終わったとは言えないだろう。」
(10.01.09 朝日新聞 「声欄」)