新・アドリアナの航海日誌

詩と散文、日記など。

ワンデイライブ

2011-07-31 23:52:50 | フォト・ポエム


どんな日も
一日かぎりのライブ

踊り子は踊る
歌い手は歌う

喝采を浴びても
浴びなくても

見つめられている日も
忘れられた時も

カーテンがあがるならば
カーテンがあがるかぎり

どんな日も
二度と帰らない一日だけのライブ














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祭の夜2

2011-07-28 22:12:54 | 写真・日本
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祭の夜

2011-07-28 22:04:36 | 写真・日本
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我と汝

2011-07-19 21:24:35 | 今日の気になることば
『我と汝』(マルティン・ブーバー・岩波文庫)の中から。

 ひとりのひとにたいし、わたしの<なんじ>として向かい合い、根源語<われーなんじ>をわたしが語るならば、そのひとは、ものの中の一つのものではなく、ものから成り立っている存在者でもない。
 そのひとは、他の<彼><彼女>と境を接している<彼><彼女>ではない。時間、空間から成り立つ世界の網に捉えられた一点ではなく、また経験され、記述される性質のものでもなく、いわゆる個性と呼ばれるような緩い束のようなものでもない。それどころか、そのひとは隣をもたず、つながりを断ち切っている<なんじ>であり、天を充たしている。<なんじ>以外の他の何物も存在しないというのではないが、すべて他の一切のものは、<なんじ>の光の中で生きるのである。
 メロディは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが<なんじ>と呼ぶひとの場合にもあてはまる。私はそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや<なんじ>ではなくなってしまう。

人間は<なんじ>に接して<われ>となる。

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白い夏

2011-07-13 21:35:40 | 写真・日本
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テエブルの上の月

2011-07-13 21:34:09 | 写真・日本


あかりは
あかりのままには
おわらない
ガラスのてえぶるに
降り注ぎ
屈折し
反射し
照り返し
その豊穣なひかりを
放散させる
部屋のなかの
小さな小さな
闇にまで
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ひまわり

2011-07-05 22:09:31 | 写真・日本
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2011夏・長居公園12

2011-07-02 23:26:04 | 写真・日本
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2011夏・長居公園11

2011-07-02 23:25:11 | 写真・日本
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2011夏・長居公園10

2011-07-02 23:21:31 | 写真・日本
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