『我と汝』(マルティン・ブーバー・岩波文庫)の中から。
ひとりのひとにたいし、わたしの<なんじ>として向かい合い、根源語<われーなんじ>をわたしが語るならば、そのひとは、ものの中の一つのものではなく、ものから成り立っている存在者でもない。
そのひとは、他の<彼><彼女>と境を接している<彼><彼女>ではない。時間、空間から成り立つ世界の網に捉えられた一点ではなく、また経験され、記述される性質のものでもなく、いわゆる個性と呼ばれるような緩い束のようなものでもない。それどころか、そのひとは隣をもたず、つながりを断ち切っている<なんじ>であり、天を充たしている。<なんじ>以外の他の何物も存在しないというのではないが、すべて他の一切のものは、<なんじ>の光の中で生きるのである。
メロディは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが<なんじ>と呼ぶひとの場合にもあてはまる。私はそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや<なんじ>ではなくなってしまう。
人間は<なんじ>に接して<われ>となる。