一人の人がイエスに近寄ってきて、ひざまずい
て言った。
「主よ、私の子をあわれんで下さい。てんかん
で苦しんでおります。何度も何度も火の中や水
の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子
の所に連れて来ましたが、治して頂けませんで
した。イエスは言われた。
「その子をここに私の所に連れてきなさい。」
イエスがおしかりになると、悪霊は、その子
から出ていった。その子はその時にいやされた
。
弟子たちは、密かにイエスの元にきて言った。
「私達は、どうして霊を追い出せなかったの
ですか」 するとイエスは言われた。
「あなた方の信仰が足りないからである。
もし、からし種一粒の信仰があるなら、この
山に向かって「ここから、あそこへに移れ」
と言えば、移るであろう。(マタイ17章)
「この類いは、祈りによらなければ、どうして
も追い出す事はできない」(マルコ9ー29)
からし種は小さな種ですが、命がります。
祈りや信仰は目に見えませんが、その先には
全能の神様がおられます。
祈りや信仰は、神様へ伸ばされた手です。
大きな電車も、小さなパンタグラフが無ければ
大きな電気エネルギー獲得できず、走る事が
出来ません。
「朝まだき暗き程に、イエス起き出でて寂しき
所に行き、そこにて祈りいたもう」(マルコ1-35)
イエス様は、朝暗い内に祈り、父なる神様と交
わりをもっておられました。ここから力を得て
おられました。はたして弟子達は出来ていたで
しょうか。
人が神への態度のなかに、価値において、祈祷
に比較する事のできるものは無い。全く価値の
ない様に見える祈祷であっても、最上のものは
最上である。(祈祷の生涯より)