聖書と共に

福音と律法

今日は、昨日の続きです。

パイサイ派のキリスト者から、
「異邦人も割礼と律法を守らなければ、救わ
れない」との問題で、パウロらと紛糾します
。 ここから、
バックストン「使徒行伝講義」からです。

その問題とは、純粋な福音を宣べ伝えるべき
か、どうかという問題です。
神様の恵みを伝え、罪人は代価なしに、儀式
を行わなくても神様に近づいて永遠の命を
得られるか、あるいは、いくらか儀式を加え
るかという事です。パウロは後に同じ問題に
ついてガラテヤ教会に書き送っています。

「あなた方は、そんなにも愚かなのですか。
御霊によって始まった、あなた方が今、肉に
よって完成されるというのですか。」
割礼を行う事は、信仰の道から離れて、肉に
よって全うしようとする事なのです。

「律法は、私達をキリストに導く養育係と
なりました。それは、私達が信仰によって
義と認められる為です。信仰が現れたので
私たちは、もはや養育係の下にはいません」

神様が立てて下さった儀式(律法、割礼)は
養育係の様なもので、私達にキリストを
示し、信仰の道を教える為のものでした。
けれども、今、既に、信仰の道を発見したの
で、養育係の助けは必要ではありません。

「キリストは自由を得させる為に、私達を
解放して下さいました。ですから、あなた方
は堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされ
無いようにしなさい。」
儀式的な考えで古いものに従えば、奴隷の
くびきを負わされる事なのです。

「もし割礼を受ける、すべての人に、もう
一度はっきり言います。…律法によって義と
認められ様としているなら、あなた方は
キリストから離れ、恵みから落ちてしまった
のです。

今でも、罪人は神様の救いを得る為に、色々
な儀式を行おうとします。
私達は、神様の救いを得る為にも、恵みを
受ける為にも、唯一の事、すなわち信仰の
のみが必要である事を、十分に覚えたいもの
です。

エルサレムでの協議で、ペテロはコルネリオ
の家で行われた神様の恵みについて論じます。
「…異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて
信じる様にされました。割礼を受けず、律法
に従っていない異邦人にも、自分達が受けた
恵みを、同じ様に神様が与えて下さった。」

「そうであるならば、なぜ今、あなたがたは
、先祖達も私達も負いきれなかったくびきを
、あの弟子達の首に掛けて、神を試みるの
ですか。」
これは、恐ろしい罪です。
神様を試みるのですから、大きな罪です。
パリサイ人は、割礼を命じる事は神様を喜ば
せる事であると思っていましたが、ペテロは
かえって神様を試みる事で、神様の前に罪を
犯す事であると、述べました。

「イエス・キリストを信じる事によって、
信じる、全ての人に与えられる神の義です。
そこに差別はありません。」(ロ-マ3-22)
「ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません
、同じ主が全ての人の主であり、ご自分を
呼び求める、全ての人に豊かに恵みを、お
与えになるからです。」(ロ-マ10ー12)

すると、全会衆は、静かになった。そして
バルナバとパウロが、神が彼らを通して、
異邦人の間で行われた、しるしと不思議に
ついて話すのに、耳を傾けた。

主イエスはパリサイ人のパン種を戒められま
した。いつの時代においても、ただ主イエス
の恵みにより頼んで救われたと確信するのは
難しい事で、パリサイのパン種を受け入れ
やすいのです。私達は、それぞれ自分の心を
探り、パリサイのパン種があるか、どうか
深く省みなければなりません。

   *************

私達、人間の救いの為に、主イエス(神様)が
血を流されたのです。

これに人間の業を持ち込む必要はありません。





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