聖書と共に

罪を宣告する職、対、義を宣言する職

今日は、Ⅱコリント3章です。
「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)から抜粋し
記します。

パウロを悩ませたのはユダヤ教的クリスチャン
であった。彼らは、エルサレル教会の推薦状を
コリント教会の人々に見せて、パウロではなく
我々こそが正統な教師である、と言っていた。

又、彼らは、
「パウロの福音は、律法を否定する者だとし、
神の前に許されざる者だ」と言って、コリント
教会の人々を惑わした。

そこで、コリント教会の人々が、パウロに
対して、エルサレム教会の推薦状を持って来る
様に言った。

それに対して、パウロは
「私の推薦状は、あなた方なのである。」と言
った。
コリント教会の人々こそが、キリストの推薦状
であり、その文字も、キリストご自身が彼らの
心に書かれたものである、と言った。

パウロはユダヤ教的クリスチャンとの違いを述
べる。
①神は我らを新約の使途とされた。
②文字に仕える者ではなく、霊に仕える者とさ
 れた。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
 文字による死の務めが栄光の内に行われたの
 なら、まして、霊の務めは、はるかに栄光
 あるものである。
③罪を宣告する務めが栄光あるものなら、
 義を宣言する務めは、はるかに栄光に満ちた
 ものである。
④消え去る者に栄光があるなら、永存すべきも
 のは、はるかに栄光のあるべきものである。

私達が清くならなければ、神を見る事は出来な
い。では、どうしたら、清くなれるか。
それは、精神潔斎して、邪念を捨てる事では
なく、「主に向く」事である。
主は十字架の血潮で私達を清くせられた。この
主に向かう事が、清くされ、かつ、主にまみえ
る唯一の道なのである。

エジプトの奴隷から脱出した、イスラエルの民
が荒野にあり、律法が与えられた後、
ある人が、こっそり安息日に薪を集めていた。
神は、その人を「石で打ち殺せ」と命じられた
。いくら安息日でも、たかが薪を集めたぐらい
で殺す神。まさに怒りの神である。

その神は、今どうなっておられるのだろう。
年寄りが子供を可愛がる様に、神は厳しさを
止められ、穏やかになられたのか。

そうではない。その怒りを、神はイエス・
キリストの十字架の上に打ち付け、燃やされた
のである。本来なら私達に降りかかって来る
怒りが、十字架のキリストの上に降りかかった
のである。

この事によって、私達が許され、今、こうして
いるのである。
主イエスが沈むこと無しに、私達は浮き上がれ
なかった。その恵みに目を注いでいく時に、
私達は栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えら
れて行くと、パウロは語るのである。

   ***************

「実に、彼は我らの病を負い、我らの悲しみを
担った。しかるに、我々は思った。
彼は打たれ、神に叩かれ、苦しめられたのだと

しかし、彼は我々の咎めの為に傷付けられ
我らの不義の為に、砕かれ、みずから凝らしめ
を受けて、我らに平安を与える。その打たれた
傷によって我らは癒された」 (イザヤ53章)

「木の上にかかりて、みずから我らの罪を
自分の身に負われた。」  (Ⅰペテロ2-24)

「我らのために、のろわれる者となられた」
             (ガラテヤ3-13)










名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る