聖書と共に

祈祷の生涯

「祈祷の生涯」(佐藤雅文著)という本があります
。祈りは、キリスト者にとって、生涯にわたって
継続され、学ばれるべきものです。
 しかし、時として、祈りが困難で、無味乾燥な
時もあります。
著者の佐藤雅文師は次の様に言っておられます。
「祈祷は楽しいものである。けれども、それは
祈祷の困難を通過したあとに味わうべきものであって、言い換えれば、祈祷の楽しさとは戦勝の喜びであって、困難を通過した者にのみ、祈祷の甘美が味わえるものなのである」

○時間を定めて祈祷の習慣を作れ
朝、一定の時間を定めて、この時間は何がなんでも祈る事と決めてかかり、これを毎日、繰り返している内に、いつの間にか祈祷が毎日の良き習慣となってくる。毎日毎日、怠らずして励むとき、
自然に「祈り手」が出来上がってくる。

○みことばを握りつつ祈れ
 確信は我らの努力からは生まれない。上よりの
ものである。それはみことばによって、上から与えられるものである。それ故に、祈る前に、みことばを頂いて祈るという順序を忘れてはならない。
みことばは、天に結びつける力を持っている。
すなわち、生命があり、能力がある。
祈祷は、みことばによって、生命づけられ、
みことばも、又、祈祷によって発芽する。
この二つの相互的な力が祈祷において働く時、祈祷が祈祷としての能力を発揮するのである。

「私のことばが、あなた方に留まっているならば
」とは祈祷において味わうべき句ではないか。

バウンズも
「祈祷の活力が、みことばにより、供給されるのでなければ、祈祷は、その切願において、熱心、
大声であったとしても、実は弱い気抜けした避くべきものである」と言っている。そして
「祈祷における生命力の喪失は、神のことばを
常に供給する事をしなかった為である。」

祈祷の熟練者とは、小事を神に神に結び付けるものである。大事はもちろん、あらゆる日常の平凡な事を、一つ一つ神に結びつけて、その結果を
天的なものとしてしまうものである。

「ただ、事ごとに感謝をもって祈りと願をささげ
、あなた方の求めるところを、神に知って頂きなさい。そうすれば、人の全ての考えに勝る神の
平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエス
にあって、守ってくれます。」 (ピリピ4-6)

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