聖書と共に

コリント教会とエペソ

今日は、「輪郭的聖書」(ロバート・リー著)を
参考にし記します。

コリント伝道(1年半)が終わった後、パウロは
シリヤのアンテオケ教会に帰ります。
彼が、コリントから帰った時に、第一コリント
の手紙を書いたが、それは失われて今は無い。
そこで第2の手紙が第一の手紙と呼ばれ、第三の
手紙が第3の手紙が第二の手紙と呼ばれる。

次の第三回伝道旅行はエペソ(トルコ西部の港町
で大都会)にて3年間、伝道します。
この間に、コリント教会の不始末を聞き、その
答えてとして、Ⅰコリントを書き、Ⅱコリントの
手紙は迫害を逃れてピリピで書かれた。
3年間の奉仕の終わり頃に書かれた。

Ⅰコリントの手紙はテトスに託して送った。
パウロはテトスから手紙によってコリント教会
の人々がすっか悔いめた事を聞いた。

しかし、テトスは、又、新しい危機について
知らせを持ってきた。それは
エルサレム教会の紹介状で身を固めた、ユダヤ
人のニセ教師がコリント教会に来て、異端の
福音を宣伝し、パウロが使途である事を非難し
つつあるという事、その結果、パウロに敵対す
る党派が勢いを増しているとの事である。

そこでパウロはⅡコリントの手紙を書いた。

パウロのエペソでの伝道によって、リバイバル
が起こり、アジアに住む者は、ユダヤ人も
ギリシャ人も、皆、主の言葉を聞いた。

しかし、反対運動も起こります。
エペソ人は「アルテミスの大御神」を拝し、
その銀細工人による大暴動が起こります。
パウロはここで、殺されそうになりました。


Ⅱコリント1章8節以下に、その当時の事が書い
あります。
「兄弟よ、我らがアジアで遭った艱難を、知ら
にいてもらいたくない。私は極度に耐えられ
ない程、圧迫されて、生きる望みさえ失って
しまい心の中で死を覚悟し、自分自身を頼み
としないで、死人を甦らせて下さる神を頼み
とするに至った。」

プリスキラとアクラが特に命をかけてパウロを
助けたのは、この時だったかも知れません。
「二人は私の命を救うために、自分の命を
危険にさらしてくれました」 (ロ-マ16-3、4)

「キリストの苦難が私達に満ち溢れている様に
私達の受ける慰めも又、キリストによって満ち
溢れているからです。」  (Ⅱコリント1-5)



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