聖書と共に

顔おおい

今日も、前回と同じⅡコリント3章です。

「我らは、モーセの様にはしない。モーセは
消えていくものをイスラエルの子らに見せない
様に、顔おおいで顔を覆った。

キリストによて、顔おおいが廃れる事を悟らな
いと、今なお、旧約聖書を読む時に、その顔
おおいは、残ったままである。

しかし主に帰る時に、その顔おおいは取り除か
れる。主は御霊です。主の御霊のあるところに
は自由があります。
私達は皆、顔おおいを無くして鏡に映る様に
主の栄光を見て、栄光から栄光へ進み、主であ
る御霊によって主と同じ形に変化する。」

モーセの栄光と、キリスト者の栄光が対照され
ている。
モーセは、神様から十戒を受けて、それを
イスラエルの民に与えた。
律法は善で正しいものであるが、人は、それを
守る事によって義とされず、かえって罪が明ら
になり、罰せられる。

律法は神の正しさを教えるが、神に近づく道は
備えてくれない。
それだから、顔に「おおい」をかけた状態で
神を知るのである。

これに対してキリストの贖(あがな)いは、罪か
らの救いだけでなく、律法からも解放する。
キリストによって罪赦され、神に近づく事が
出来る事を、顔おおいが、取り去られた状態
という。

私達は神を信じたと言っても、神を十分に
分かった訳ではない。
それでも、みことばに示される神を仰いでいる
と、神の子は変えられていく。
キリストに似た者に姿変わりするのである。

  ***************

「神は、あなた方を彼と共に生かし、私達の
凡ての咎を赦し、かつ
私達を責める規の証書を塗り消して、これを
中間より取り去りて十字架に付け…。」
             (コロサイ2-14)
律法には、その違反の証書があり、私達の罪
告発している。しかし、主は、その証書を
塗り消し、十字架に付け、律法を終わらせた。



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