ロシアで学ぶ万年学生の越冬生活

日々思った事を、徒然なるままに書いていきます。

日本の教養:ドストエフスキーより愛をこめて

2010-01-01 00:00:00 | Weblog
 ドストエフスキー文学の日本を代表する研究者。
 東京外国語大学学長、亀山郁夫氏と爆笑問題の対談番組がNHKで再放送されていたので観ていた。

http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20091117.html


 番組中にも会ったのだが、「罪と罰」は現代社会の閉鎖的な若者に共通して持っている心の闇を今から150年近く前にラスコーリニコフを媒体としドストエフスキーは今も伝え続けているのかもしれない。温故知新とはまさにこの事。


 孤独からの本当の救いとはなんなのか。
 救いのチャンスはどうつかむのか?どう与えられるのか?
 チャンスを掴んだとしても、活かすも殺すも結局は自分次第。自分が全ての心を素直に開放し、救われたいと思わなければ救われないし、成長もあり得ない。
 今の自分があるのは、過去から途絶えることなく過ごしてきた記憶であり人との出会い。その中に必ず答えはある。良い思い出も悪い思い出も含めて必ず自分を解決へと導くものがある。


 一昨年前の夏、モスクワ留学を志した時に大学時代のロシア文学の教授に必読と言われた文学書にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』があった。

 熟読はしていないが、一部どうしても忘れれれない部分があった。



エピローグでアリョーシャが子供たちに語りかける部分


『何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、

その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。

きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、

子どものときから大事にしてきたすばらしい神聖な思い出、

もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。

自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、

人は一生、救われるのです。

もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、

いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです』  


『もしかしたら、ぼくらはこれから悪い人間になるかもしれません。

悪いおこないを前にして、踏みとどまれないときがくるかもしれません』


『どんなに惨たらしい、どんなに人をあざけるのが好きな人間でも、

そう、かりにそんな人間になったとしての話ですよ、

いまこの瞬間、ぼくらがこれほど善良な人間であったことを、

心のなかであざけることなんてできないでしょう!

それどころか、もしかするとこのひとつの思い出が、人間を大きな悪から守ってくれて、

思い直してこう言うかもしれません。

『ええ、ぼくもあのときは善良だったんです。大胆で正直な人間でした』と、ね』


『どうか人生を恐れないで!なにか良いことや、正しいことをしたとき、

人生ってほんとうにすばらしいって、思えるんです!』


(カラマーゾフの兄弟 エピローグ 亀山郁夫訳)



 世界を始め日本にもに多大な影響を与えたロシア文学者を育んだ、広漠としたロシアの大地。稀代の天才文学者、ドストエフスキー。彼が未来へ残した警鐘は頭でっかちや直情的になり、接続を切る事は一時的な快楽や解放と引き換えに孤独になる事。そう考えると現代社会に繋がりえる。直情的に自分にとって都合の良いか悪いかを判断し、消去するよりも、まずは自分の「罪と罰」を振り返らないと同じ事を無駄に繰り返す。

 日本人とロシア人確かに文化的背景は異なるのに、なぜか近いものを感じてしまう。それは共に共通する文化的背景がどこかにあったからなのだろう。日本もロシアも共に大地に根付いた宗教観や神話を持っていたからなのかもしれない。戸辺 又方著作の『ロシアの言語と文化』を読めば、いかにロシア人が自然に密着していたかがわかる。

 自分がどこか感じていた、ロシア人に対しての親しみやすさ。人との繋がりを重視する人間臭さ。でも、それは現代日本人が失いつつある、大地に根付き、地に足をつける事の重要さを彼らから教えてもらっているからなのかもしれない。


 誰かを憎んでいる時、誰かを嫌いになった時。そして、自分が本当に救いを模索している時。苦しみもがいている時にロシア文学は一つの解決のきっかけを与ええるのかもしれない。


 「罪と罰」・「カラマーゾフの兄弟」モスクワに戻った時に原文で購入しようと思う。

 だいたいのあらすじはこちら
 http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/kids-t.html

 


 ロシア語やロシアに関して教養を深めるチャンスに恵まれた。
 大学時代からしてみれば全く違う方向に進んだのだが、これはこれで正解だったと思える。掛け替え無く、忘れられない貴重な出会いと思い出ばかりの学生生活だった。


 恐れる事無く、素直であれ! 
 恥ずかしがらずに、人間臭くあれ!


 ロシア語はあまり上達していないが、この二つはロシア語とロシアに携わって得たのである。

 モスクワに戻るのは1月19日なのだが、もっと早く戻りたいと思ってしまっているのは、自分が居心地の良さを感じ、より多くの人との関わりを渇望しているのは日本ではなくロシアになりつつあるからなのだろうか・・・。




PS:修士課程1年時に教授からもらった2通のメールを探しだし、読み返してみた。


ロシア文学推薦書


19世紀の作品
プーシキン『エヴゲニイ・オネーギン』
レールモントフ『現代の英雄』
ゴーゴリ『外套』
ツルゲーネフ『父と子』
ドストエフスキイ『罪と罰』
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
チェーホフ『かもめ』


20世紀の作品
ザミャーチン『われら』
パステルナーク『ドクトル・ジヴァゴ』
ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
ソルジェニーツィン『イヴァン・デニーソヴィチの一日』
ペレーヴィン『チャパーエフと虚無』

おまけ
ナボコフ『ロリータ』


そして、以下の文面を読み、まだまだ未熟だと感じさせられた。


ロシアの知識人にとってロシア文学は常識ですから,やはりある程度は親しんでおいた方が良いと思います。特に中級以上のクラスですと,文学史的な内容も外国語の授業に組み込まれがちです。詩の韻律(ヤンプ,ホレイなど)も,常識として知っておいた方が良いです。

モスクワにはロシア中から優秀な学生が集まってきます。留学生の場合も,世界中から優秀な学生が集まってきます。そして,彼らはたいていの場合,ロシア語会話が上手です。ロシア語の会話能力以外の部分,たとえば文学や映画やクラシック音楽などについてどれだけ語れるかによって,尊敬されるかバカにされるかが決まります。人間関係の広がりが違ってきます。ロックやアニメなどオタク的な趣味は,たぶんあまり歓迎されません。

ということで,ロシアの小説も,(たとえ面白くなくても)とりあえずは読んでおいた方が良いと思います。ミニマムの12冊(+1冊)を選んでみました。モスクワに留学するつもりがあるのであれば,一通り読んでください。



2通目


自分の周囲の「勉強しない学生」や「ダメな教員」を批判したり、意識したりするのもやめましょう。昔からその手の発言が多すぎます。たぶんあるゼミで植えつけられた行動パターンかもしれません。私が昨日、言いたかったのは、そのパターンだと結局、自分をスポイルしてしまうということなのです。「意識しない」ということは、「言及しない」と同義です。自分より偉い奴のことだけ語っていれば良いのであって、くだらない奴のことは語るべきでないのです。


君にとって身近な大学や大学院が全てではありません。旧帝国大学や地方国立大学の大学院に進み、誰もからそれなりに尊敬される道(学者ではありませんが)を歩んでいる先輩も1人や2人ではありません。彼らは甘い環境でも決して自らをスポイルすることなく、日本全体のスタンダードに耐えうる能力を身に付けました。そういう先輩のようになれるか、それとも「負け犬の遠吠え」を続けることになるのかは、これからの君次第です。



以上


かなり厳しい事やお叱りの内容だったので当時は目を通すのすら嫌だった。しばらくは読み返すのすら嫌だった記憶がある。けれども、今読み返して自分にとっては必要だった事、足りなかった事だったのだなと反省できる。都合が悪く嫌な思いをするメール程、残しておけば教訓や道しるべとなり成長のキッカケになるのだなと思った。


都合が悪いから、読み返したくないから、痛い事を書かれているからと直ぐに削除する人間がいるのだとしたら、そういう輩は自分が関わるべきでも、意識するに値する人間でもないのだと思う。自分の上には上がいるし、そのさらに上もいるのだから、自分は上だけを見て頑張ればいい。


誰にも言える事かもしれないけれど、努力しても頑張っても先が見えにくいし、答えが出てくるのか、見つけられるのかすらわからない。今はそんな時代でも社会でもあるけれど教養や高尚な人格など身につけていく為に努力した事は絶対に無駄にはならない。諦めてしまってはそれこそすべてが無駄に終わる。自分の研究分野なんて模範解答なんか絶対に出てこないし、現状の一般論をどれだけ残せるかでしかない。

以前は確かに自分も多くの人との関わりをめんどくさがっていたり、避けていた時期もあった。全ての人間が自分と合うわけでもないし、都合がいいとは限らない。けれど、今は自ら積極的に関わろうと意識転換できつつある。それだけでもこの数年で変化してきたのかもなと自分自身を慰めたい・・・。

そして、更なる高みを望み、まずは1月中旬以降の3ヶ月、モスクワで駆け抜けてみたい。


前期の3ヶ月は自分でもそれなりの成果に結び付ける下準備(人との関わりの中で意識調査)ができたと思えるから、これからの中間期は図書館や学術機関で文献や資料探しに力を費やせるだろう。


今年もまずは半年間頑張ろう!