なんと!免許不要、しかも20万円以下のお金で4人乗りの船外機付のお船が買えのですョ~。

スクーター、パソコンと同金額程度で、規制緩和のおかげで免許無くとも、船外機付のお船のオーナになる事が出来た。その航海記。

H24年7月下旬利根川下流航海2

2012-07-25 15:44:53 | 利根川下流域

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H24年7月下旬利根川下流航海1続き。前回成田空港ほぼ真北の滑川簡易マリーナで1晩野宿したところまでが前回。で騒音に寒さで浅い睡眠しか出来なかったが、朝5時起きしてしまい6時前にはここを発った。

 本来1日目の目標は香取市佐原駅周辺だった。滑川からは約18㎞距離がある。しかし昨日書いた様に強烈な川を遡る波や風で、船足が時速7㎞~8㎞しか出ないのが痛く到着出来なかった。川下りの場合、速ければ12㎞以上出る事だってあるのに。

しかも本来私はリハビリを兼ねてる。パドルで水を掻いて舟を漕ぐ。これが運動となる。しかし今回はパドルで漕いでも風波に負けて漕げなかった。でも代わりに怖い三角波が続く今回の航海は、舵取りで常に力が入っていて、そういう意味では良い運動にはなった。その原因は舵とりバーが折れた事。兎角あと3日で銚子に行くには天候回復が前提で、急がなければいけない。よって佐原まで居眠りしそうなところ仮眠したいの我慢して先を目指した。

 3時間近く経過して佐原の港付近までやって来た。佐原の港とは江戸時代とかで言えば上記地図の水色のラインのが線路あたりから町中を通過する付近全体。あちこち高瀬舟(ここでは「さっさ船」というらしい)係留の河岸がある。今でいう港なら道の駅に付帯する施設、水の駅水の郷さわらの係留施設等だろう。ここまで来るのに長かったな~。で水の駅水の郷さわらの傍にゴムボートの醍醐味で以下の様に上陸するw

で佐原の写真の説明。下左1枚目は「道の駅水の郷さわら方面から見た利根川」。2枚目「道の駅さわら近くの小野川河口の水門。これさかのぼると地図の様に旧市街地。」3枚目「水門通過中」。4枚目「東日本大震災の爪痕がまだ残る佐原の町の風景。建物や護岸修復をしていた。この辺は震度5強だったが、軟弱地盤考えると6弱行った気がする。液状化もこの付近の市町村でもあったので、ここもあったと思われる。」

   

下。旧市街地中心部。街自体は京風というか小江戸って感じが売り。あとここは幕末チョイ前に伊能忠敬という中年の星的偉人さんが生まれた地で、NHK「4万歩の男」と言うドラマにもなりました。幕末シーボルト事件で国外持ち出しをされた地図作りに関わった人。当時測量技術が未熟なこの時期に、現代地図とほとんど変わらない精度のこの地図は国家最重要機密の部類に属した訳。で写真のそばに彼の生家があります。

船をこの辺まで進めてトラブル発生。水草が船のスクリューにからみ、スクリュー空転。エンジンが焼けないようにスクリューに異常圧力がかかると、安全装置が働らき空転するのだ。為に空回りし推進力を失った。なので写真はエンジンをこれから修理の為に取り外すため、上にあげている。

で自力修理を試みる。この手の事は割とあるとあることで、為に交換部品も携行してる。でスクリューを外したら・・・安全装置のシャーピンというピン状部品が変形しメインシャフトから抜けない。さあ困ったああああぁぁ~~。私はこの状態を1度経験済みで、その時は電動グラインダーでピン削って取り出したのだが、私はそんなの船に積んでい無い。しかたなく車整備工場、バイク屋等々を観光案内所の協力を得て調べて、駅前の板金屋さんに症状を伝え、少し渋りがちな声ではあったが、車関連工場でも十分手が打てることを伝えて、現地まで来てもらった。そしてすぐ板金屋さんは来てくれた。地獄に仏だ。とりあえずミノとハンマーでピン叩き抜こうとした。苦戦。こりゃアカンと思った私は、グラインダー研磨をお願いした。したらエンジンを車に積んで板金屋さんは「じゃ待ってて」と去って行った。待つ事15分程度で彼は帰って来た。そしてピンは抜けていた。ありがたや。で「有難う御座います。お代は?」と問うと「2千円です。」という。「え?出張料コミでそれは安良くて申し訳ないです。」というが板金屋さんは「大したことしてないから2千円で。」という。私はご厚意に甘えさせてもらった。

次は外したスクリューにシャーピン付け直して、取り付け作業を開始。その中を下の画像の様に観光船が行き来する。船頭さんとかお客さんとかにも励まされ、少し恥ずかしかったwしかし柳に和風建築物に和服の船頭さんとさっぱ船、情緒あります。

で、観光案内所で言われたのだが、ここは千葉県指定最重要保護生物の 『ナガバコウホネ 』が自生しているから、気をつけなきゃ駄目と言われちゃった。しょぼん・反省。ちなみにこの佐原市内地の小野川は、観光船が上記の通り行き交うので、カヌーの大群とかは面倒な事になる。大渋滞で。もしここ来る場合は短船にすべきだろう。もっとも観光船のピーク時には水門閉じてしまうそうな。

そうしている内にもう夕方近く。私のこのミニボート(11フィート以下)は、船検いらない代わりに、日没後の夜間航行が禁止なので、船とめる所探して利根川そばまで下った。この日も利根川本流の波と風は相変わらず。そして舵の故障・・・今日のトラブル。銚子までは今回やめておこうと決断した。

で探したのが地図の係留地。ここは運動公園の一部らしいので、私有地ではなさそう。なので一旦ここに船をつなぎ、船に鍵かけて一路JR佐原の駅を目指す。ちなみにこの周辺は水郷とあるだけあってウナギ料理屋が多い。で私も店に入ったのだが、昨今うなぎ不良で値段がウナギのメッカですら上丼で5千円とか!今回色々エンジン壊したりトラブルも多く、お金節約したかった私は、ウナギさんは次!と思い今回はぐっと我慢の子であった。昔なんか割烹で1万とかのウナギ食った事もあるのだが病気休業中の私は船のって外出するだけで既に贅沢。我慢。でも次は予算組んでリベンジ食いだ!wで今回はその代りワカサギの天ぷら定食を750円で頼んだ。いやーでもこれも美味い。てかこの店高いだけあってやはり揚げ方からコメの炊き方流石のプロでした。

話それたが佐原駅に行く為には1,8㎞。30KGの荷物持って歩くかタクシーか・・・したら道の駅にバスが来るというではないか?そこで運よく時間あまり待たないで駅まで行く市内循環観光バスに乗れた。これ週末のみらしく運が良かった。でJR佐原駅からJR成田駅経由、我孫子線に乗り換えて一路出港地で車泊めたJR木下駅をおり、約1キロ歩き車にたどり着いた。外は明るかったが19時過ぎてもう夜である。で木下を出て佐原に車で向かう。船を回収する為。で45分程度で到着。コンビニで夕食とって船の分解作業する。1時間ほどで作業終了。こうして佐原を21時には出たのだが、ちと鹿島に寄り道をしたので、鹿島たったのがもう翌日2時だった。襲ってクス眠気。こりゃ死ぬ。やばいと思い利根川河川敷に車を止め、今度は寒さに震える事無くグースカピー眠った。次の日の10時半まで寝てた。で佐原経由して千葉県北西部まで帰る訳だが、途中色んな川やボートショップを偵察しながら次の航海を頭に浮かべつつ、寄り道しながら帰ったので、この日帰りは夜近かった。そして車から荷物合計で50キロ以上もあるのを家に運び込み・・・はい、みなさんお分かりですね。私は疲れ切りました。で今回の旅を終しまい。

追伸・昨日エンジン修理の為に隣の市の船外機修理工場に持って行く。修理中はエンジン無しのただのパドル推進ボートとして重量は激減。渓流下りなどやるときは、ラフトと同じでパドル以外の装備品など付けないで川を下る。そうだ、そういう感じで来週また佐原行って気候次第風向き波次第だが、銚子行第2弾やりに行くかもしれない。とりあえずH24年7月下旬利根川下流航海2はお終い。

追伸・私は佐原は3回位遊びに来ている。これからはもっと来ることになるでしょう。その理由は日本第二位の大きさの湖沼である霞ヶ浦筆頭に、北浦・与田浦・外浪逆浦といった湖沼群をアマタの水路網と、いくつもの川が結び、その筆頭が利根川です。しかしこの利根川、元々は江戸湾に注いでいたのです。それを江戸時代に、当時太平洋に注いでいた鬼怒川と合流させ、今のルートに付け替えるという大工事があって、現在の利根川~江戸川ルートでの船便での輸送が激増し、それで元々武術道場などでの神棚で有名な「香取神宮」と「鹿島神宮」を周辺とした地域の内陸港として発展したのが佐原やイタコの~イー太郎~♪と歌われた潮来(イタコ)の町が出来たんです。そしてその関係で銚子と利根川沿いの野田は全国的な醤油の街となったのです。その辺少し私自分のHPで書いてますのでご参考に・・・昔利根川下流域は、とてつもなく大きな内海であった事を知らない人がかなりいますので・・・。

http://www.h6.dion.ne.jp/~awroom/Chiba/page003.html#sawara

佐原の街自体は京風というか小さな江戸で小江戸って感じが売りです。あとここは幕末チョイ前に伊能忠敬という中年の星的偉人さんが生まれた地でして、NHKで「4万歩の男」と言うドラマにもなりました。幕末のシーボルト事件で国外持ち出しをされた地図作りに関わった人です。当時測量技術が未熟なこの時期に、現代地図とほとんど変わらない精度のこの地図は国家最重要機密の部類に属した訳です。

 

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