80k700m タイトルはまだ考えてない(旧 安全靴をはいたタヌキのホームペヱジ)

自称“流川市民”の、鉄道橋梁&トンネルと北海道の国鉄(JR)廃線跡が好きな人間がブログに挑む。(最近は迷走の日々…)

JR天北線 第4鬼志別川橋梁・第5鬼志別川橋梁

2013年02月26日 | 鉄道―宗谷本線・留萠本線周辺廃線調査
 かつて、在来線の駅間距離最長区間を誇っていた天北線の小石・曲渕間は、17km660mもの距離があり、鬼志別川に架けられた第2鬼志別川橋梁手前の100.17km地点付近から鬼志別川沿いに12.5/1000の上り勾配を上り始めて、第3~第5鬼志別川橋梁を経て、107km地点付近で25/1000勾配に変わり、更に650メートル少々進んだ107.65km地点付近で上り坂は終わっていた。
 道道138号からだと、線路跡は鬼志別川をはさんだ対岸に位置している為、線路跡の様子を確認する事は難しいが、峠を越える辺りで、眼下に線路跡が確認出来る。

第5橋梁の遠景写真のコマの間に道道138号の26キロ地点のコマが入っていた
(定点撮影を意図した撮影場所のメモ代わりに撮影したと思われる)




 この辺りは列車の撮影地のひとつで、雑誌や書籍に除雪列車や急行列車が掲載されているのを何例か見かけており、参考資料としている「日本鉄道名所 勾配・曲線の旅」にも、第4鬼志別川橋梁付近を走行していると思われる急行天北のカットが掲載されている。
 この区間の線路工事は困難を極め、多数の犠牲者が続出した為、鬼志別川沿いの道道138号に慰霊碑が建てられていたそうだが、道道拡張工事によって撤去される事となったので、小石地区の開拓者として小石の集落の共同墓地に奉られる事となった。

 第3鬼志別川橋梁は未確認で、2003年05月の第4次調査で初めて調査した第4鬼志別川橋梁は、塗装表記の退色で、一部の数字が0なのか3なのか6なのか8なのか判別できず、橋梁の位置は、音威子府から10-km1-4m0-地点としか判読できなかった。
 また、塗装の剥離が見受けられた第5鬼志別川橋梁に至っては、1998年10月の第3次調査の段階で10-km-14m82としか判読できず、2003年05月の調査では、更に剥離が進んでいた。

 さて、第5鬼志別川橋梁の上路式ガーダーの支間について、1998年10月調査で9m80と記録していたが、写真を見返すと、第4と第5のガーダーが同一に見える事から、6m70の間違いだったのではないかと疑問を抱くようになった。
 調査時の記載ミスなのか、塗装表記のミスなのか、再調査の必要があるが、天北線の線路一覧略図を何としてでも入手したいところである。
 写真を見返してもうひとつ気付いたのは、ガーダーの中央に取り付けられた添接板(この場合は2枚の鋼板をつないでおり、リベットが沢山打ち付けられている)であり、添接板の形状からガーダーの形式がわかるのではないかと思ったのだが、20100系文庫様のホームページに掲載されている達第540号式(設計荷重クーパーE33)と達第94号式(設計荷重クーパーE40)の図面を見た限り、添接板はどちらの形式のガーダーでも40フィート桁以上のサイズの桁にしか取り付けられておらず、しかも、添接板の形状が図面と異なっており、わからなかった。
(これは製造会社を特定する材料になるのだろうか?)


第4鬼志別川橋梁

遠景



全景 その1



全景 その2



塗装表記 その1



塗装表記 その2



製造銘鈑



音威子府側橋台 翼壁



音威子府側橋台



音威子府側橋台 翼壁



南稚内方



音威子府方




第5鬼志別川橋梁

遠景 その1



遠景 その2



遠景 その3



全景



南稚内側橋台



南稚内方




第4鬼志別川 橋梁 (10-km1-4m0-)

6m70 上路式ガーダー×1
 銘鈑紛失の為、製造年・製造会社及び設計荷重その他不明
 ※設計荷重はクーパーE40か?
 197-年8月 塗装
 ※1973年8月塗装か?

コンクリート製橋台(コンクリート製翼壁)

特になし(第4次調査時)


第5鬼志別川 橋梁 (10-km-14m82)

9m80 上路式ガーダー×1
 ※6m70の可能性あり(調査ミス?)
 銘鈑紛失の為、製造年・製造会社及び設計荷重その他不明
 ※設計荷重はクーパーE40か?
 1974年1-月 塗装
 ※塗膜剥離等により、塗装会社その他不明

コンクリート製橋台(コンクリート製翼壁)

桁の塗膜剥離が激しい(第4次調査時)


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