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九条ねぎの種を狐の禰宜(ねぎ)が九条村に持ち込んでいた。伏見稲荷大社の物語 18話 お笑い歴史小説

2022-09-13 09:17:09 | 日記
九条ねぎは浪速で自生していた。その浪速からの狐の禰宜(ねぎ)が九条村に持ち込んでいた。九条ねぎの鴨鍋が稲荷神社名物になった。伏見稲荷大社の物語 18話

 長岡京から平安京へのお引越しが秒読みになったころの京都盆地では淀川の山崎の港へ、浪速、堺方面からの船便が集まっていた。ここで陸揚げされた荷物は西国街道を通って長岡京、そして平安京へと大八車で運ばれていた。狐の世界でも旅行が大ブームでこの船の荷物の中に潜り込み京都観光をする狐も多かった。また新天地を求めて移民する狐一族もいた。

 狐は稲荷神社のお使いだとされているが、各地の祠に棲んでいるが狐の世界にも一般の狐と神職の狐がいた。狐の場合は宮司ではなくその祠の責任者を禰宜(ねぎ)という位で呼ばれていた。この当時は稲荷信仰が大流行でもう全国に○○稲荷神社というのが数千か所も普及していた。そうなると神社の責任者の禰宜狐も人手不足で全国に募集されていた。

 その一匹の中に禰宜の資格を持つ狐の源(げん)が京都の九条にある稲荷神社を紹介されていた。この源狐は浪速に棲んでいたために船の荷物の中に紛れ込んで山崎へ、そして港から歩いて九条の稲荷神社に赴任していた。その神社はまだ名前がなく「正一位稲荷大明神」とだけある。源狐はとりあえず長い旅の疲れを取る為に祠の下にある穴で寝ようと思ったが、まだその穴も掘られていなかった。そこでやむを得ず土の上で寝ていた。そしてこの禰宜狐は村民に慕われて「九条の禰宜さん」と呼ばれていた。

 それから半年後に官営の東寺が建立される土地の視察団がこの地にやってきた。一行は桓武天皇と設計士、宮大工の棟梁、それにこの東寺の柱などの調達役の稲荷神社宮司の荷田生成など約50名の大視察団。一行は南大門、金堂、講堂、食堂の建設現場を視察した後に西門予定地まで来ていた。そこから西を見るとそこには朱色の稲荷神社があった。

 ほう、こんなとこにも稲荷神社があると桓武天皇は感心して拝んでいくといった。そんなことを知らない源狐は頭を穴に入れ尻尾を外にだして呑気に昼寝をしていた。そして天皇は、
「あれはなんじゃと」指をさしている。この村の村長は狐の尻尾のことだと思って、
「あれは九条の禰宜です」
「ほう、九条ねぎか?」

 天皇が指を指していたのは祠の周りで長く伸びた葱でその先には葱坊主があった。天皇は生成になぜ?ここにこんな珍なる植物があるのかと聞いている。生成もこれが何かとわからず、この昼寝中の狐をおこして聞いている。
「これはお前が育てているのか?」
「これ?ああ、私も名前は知らないが浪速の村では稲刈りが終わった冬にかけて自生しています。この地の百姓はなんでも鴨の肉と一緒に煮ると旨いといっていました」
「その旨い野菜がなぜここにある?」
「ああ、これは私が浪速の畑でネズミを追いかけていた時にこの種が私の毛の中に入っていたのが落ちてここで芽がでたのです」

 天皇はこの九条村の村長に、
「この九条ねぎの葱坊主をすべて採取して九条の畑で育てよ!そして鴨川で鴨を獲って予に持って来い」
 と命令していた。当時は米にしか年貢はかからなかったので稲刈りが終わった冬場の作物として九条村の農民はこぞってこの「九条ねぎ」を栽培していた。そして冬が来て鴨川や桂川には鴨がやってきた。

 稲荷神社の直営の茶店の名物は雀の焼鳥、稲荷寿司、鯖寿司だが、冬は雀も獲れない。鯖も若狭の峠が雪で通れないために冬場の名物がなかった。そこて生成は「九条ねぎの鴨鍋」を売り出したところこれは予想外の大人気になった。やがてこの九条ねぎの栽培は京の都の洛外の九条村から鳥羽、伏見、淀、吉祥院、久世まで広がっている。今でもこの九条村の禰宜狐と勘違いされたままの「九条ねぎ」は1200年の歴史があるということはもう誰も知らない。

………この「小説伏見稲荷大社の物語」は98話まで書けています。………音川伊奈利

 この九条村では今でも葱農家の屋号として「葱常」「葱秀」「葱伊」として残ってやはり九条ねぎを栽培している。そのきっかけとなった当時西門前の稲荷神社は今でもその地にあるが、その神社にはまだ名前がなく「正一位 稲荷大明神」とだけある。そして葱狐の源というのはその辺りの町名「源町・げんまち」として残っています。
(東寺西門上がる一筋目西入)