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京都歴史秘話・長岡京造成・沼の中のオアシス狐塚(宇賀塚)・宇賀神社、新宮神社、坂上田村麻呂

2022-09-05 09:57:09 | 日記
京都歴史秘話・長岡京造成・沼の中のオアシス狐塚(宇賀塚)・宇賀神社、新宮神社、坂上田村麻呂、伏見稲荷大社の物語

 長岡京造成の責任者だった武将の坂上田村麻呂はある日馬に乗って狩りをしていた。この長岡京予定地の西には桂川が流れている、その浅瀬で一頭の鹿が渡っているが、その鹿の毛色は金のように光っている、それに立派な角はそれこそ金で夕日に反射してピカピカ光っている。

 田村麻呂はその鹿を仕留めようと桂川を鹿と同じように浅瀬を渡り追跡した。その金色の鹿は東へと東へと逃げている、そのころ愛宕山から黒い雲が沸き立ち嵐になった。この辺りというより人が住めない湿地帯になっているので一度雨が降ると馬も前へ進めないほど水かさが増える。日はどっぷり暮れて西も東も分からず田村麻呂はもはやとれまでかと立ち往生していた。

 その時、前方にぼんやりと光が見える。そしてその光は田村麻呂においで…おいでをしているようにも感じて馬をその光の先へ進めるとそこには沼の中に島のようなものがあり田村麻呂はそこに上陸をしていた。すると先に避難していた葛野郡の漁師もいて話を聞いている。その漁師は、
「この島は宇賀塚(狐塚)といって大昔から漁師や猟師の避難場所になっていてここに住む狐たちがキツネ灯で遭難している人間たちを誘導してくれている、そこからこの塚をわしらは狐塚といっている」
「キツネ灯…キツネ灯とはあのゆらゆらした光のことか?」
「そう、お武家さんもあのキツネ灯で…」
「なぜ?獣の狐が我々人間を助けるのか?」
「そら~ここの狐は伊奈利神社のお使いで、その伊奈利神社の宮司の伊呂具さまの家来ですから…日ごろから狐と人間は仲良くしなさいと教育しているそうです」

 この京都盆地は湿地帯と沼でできていた。そこには鯉やうなぎ、なまずを獲る漁師、それに鹿や猪を獲る猟師の生活を支えていた。漁師は西山系原住民の農民の副業が多く、猟師は騎馬民族賀茂族系(下鴨神社、上賀茂神社)、同じく騎馬民族系の藤族(藤森神社)が多かった。いずれにしてもこの地に都ができれば漁場も猟場も失うことになる。

 田村麻呂はこの狐に助けられたこと、宇賀塚の話を桓武天皇に話をしていたが、この桓武天皇と伊呂具はもう顔なじみでそんなことには驚かなかった。そればかりか田村麻呂が金の鹿を弓で殺そうとした行為を非難した、
「田村麻呂よ!、その金の鹿は神のお使いかもわからない、その神のお使いを殺そうとしたお前を神のお使いの狐が助けてくれた。漁師も猟師も生き物を殺すが、それは必要な分だけだ、お前は狩という遊びで鹿を殺そうとした」

 そのことがあってから田村麻呂は伊奈利神社に参拝して伊呂具に鹿を殺そうとしたこと、それに狐に助けてもらったお礼をいっている。そしてあの宇賀塚に伊奈利大明神の末社の社殿を建立したいと申し入れいた。伊呂具は、
「あの宇賀塚も鴨川の改修工事が終われば陸の中の塚になる。その周りには田畑が広がり村ができる。村ができれば神社が必要になるからとこの申し入れを受けていた。

 これが現在の宇賀神社(南区東九条)になるが、実際にはこれより少し北の小さな祠がこの話の狐塚という説もある。そこで宇賀神社の真横の車も通れない細い路地を北へ歩いて200メートルほど行くと西側に小さな「新宮神社」という社殿があった。一応、鳥居形の赤い絵馬と石の鳥居はあったが、前の道路は幅約1メートルほどの狐の通り道になっている。本殿の中を覗くとそこには社の大きさに似合わない大きなキツネが二匹こっちを向いて鎮座している。

 湿地帯の沼の中の塚だからそんなに大きくはないことを考慮するとこの小さな神社が奈良の武将、坂上田村麻呂が建立した伊奈利神社かもわからない。なにはともあれ伊呂具の予言通りに此の地は東九条村として田畑が広がり主に九条ネギが盛んに栽培されている。もちろんこの辺りの農民、住人は1300年前から伏見稲荷大社の氏子であり祭の神輿の担ぎ手でもある。

画像は、
宇賀神社 新宮神社




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