心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

アメリカ・コンプレックスからの脱却の失敗。消費という誘惑!

2012-02-04 11:36:37 | 現代日本および世界

こんにちは、心理カウンセラーののほせんです。

この前にブログを書いてから、のほほんとしていたら、あれれ、もう二月に入っていました。
まあ、知る人ぞ知るこのわたしの、のほほんぶりは、相変わらずというわけです。
親切な読者から、どうしたというご心配までいただき、恐縮するばかりです。
どうもしないのですが、のほほんの本領発揮ってわけで、あいすみませんでした。
さて、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

このまえ、「オールウェイズ・三丁目の夕日64」という映画を観ました。
作家・茶川竜之介(名前どおりの物書き)と夫婦になったヒロミが出産し、
集団就職で鈴木オートに住み込む六子が善良を絵に描いたような青年医師と結婚するという
ほのぼのとした昭和三十九年(1964年)頃のハッピィエンドの人情映画でした。

この年は、戦後の繁栄をつっ走る都のシンボル・東京タワーに、東京オリンピックと新幹線がそろって、
ときの国民をついぞなかったような高揚感に染めていった。 それは
ずうっと捨ておかれたままの地方の人たちも、あるいは都会のなかで切り捨てられた人たちでさえもが、
繁栄への羨望と同時に、 ある種の勝ち誇った感覚を
日の丸ナショナリズムのかたちで共有しようとしたほどの興奮を呼びおこしたことがこの映画にもあらわれている。

それはいったい、誰にむかっての勝利感なのかというと、 昭和二十年の
おもいもよらなかった< 神州日本の敗戦 > によって受けた屈辱感からの脱却の契機と感じた人たちが、
戦勝国とその国民にむけられた“ 日本復活 ” のバンザイコールにほかならなかった。

文字どおり、復活という意味において、
この東京オリンピックという “祭典” は、
国民大衆の意識のなかに、無邪気な日本ナショナリズムの再起と、個々の自己喪失感からの回復という
両面の意識作用が同時に起こったという意味において、
敗戦以来の最大のターニングポイントだったといえよう。

戦中戦後と、知識層の転向の後ろめたさと無縁ではあったとはいえ、
神州日本のために、戦争の狂気をくぐらされてきた生活者たる国民大衆にも、
ぬぐいきれない敗戦コンプレックスがおのおのの胸にかかえられたまま、
アメリカコンプレックスの裏返しとしてアメリカナイズに勤しむという屈折の日々のなかで、
東京オリンピックという「単純にして明解な」世界的認知をえたことで、
ひとびとの共同意識のうえに、傷んだ自尊像がようやく回復したとみることができよう。

いや、ほんとうのところは話は逆で、
都会の繁栄や余暇と無縁なだけに、敗戦コンプレックスが余計に身に沁みていた地方の大人たちほど、
自己喪失感からの回復のためには、無理やりにでも「日本復活」の共同意識を必要としたのだという方が正しいだろう。
東京オリンピックはそのための格好の「祭典という名のたたかい」の契機であったのである。

- だが、これ以後の日本が、国家として、
先進資本主義世界の一員として経済的にトータルな繁栄の道を上りつづけるにつれ、
東京タワーの下の市民たちの世代をまたいで、やがて息つく間もないほどの超消費社会の波がおしよせてくる。
知ってのとおり、貧しい者でも容赦しないという意味では、異常ともいえる心的な強迫性をもたらす、
一億総買い物症候群たる消費社会の形成にむかってあきることなくつきすすんでゆくことになる。・・

この現代の国民的な一種の精神の危機が、だれも自覚しないうちに、なぜ形成されたのか?

それは、最終的な夢の買い物としての「家」に、とうとう国民大衆がいきついたことと符合する。
とうとうついに、“ 次に買うべきモノが見えない ” 時代を迎えてしまったときからである。
あとにのこされた消費とは、
どんな形をとろうとも、病理的な消費行動をあらわすものでしかなくなっている。
すなわち、『超消費社会の固有の病理 』が発現される契機がおとずれたということである。

アメリカ発・プラグマティズムのどんづまりである 《 モノ社会の虚無の時代 》 が、
いよいよ本格化してきたのであった。・・

カウンセリング的に言いなおせば、
“ 憧憬という美化の妄想イメージさえも、そのリアリティを維持できなくなった鬱の時代 ”
のはじまりを意味している。

この頃には、中村うさぎさんのような、意味を喪失した買い物を止められないという病理のひとたちが、
病理を露出することによって、あやうい時代を告発するように登場してくる。

- しかし、さすがにしたたかな国際金融資本と米国政権は物を買わなくなった日本に目をつけてくる。
電通的広告が通用しなくなって破綻したあとの消費社会をフォローするかのように、
国際金融資本が投じてきた金融自由化という最終ツールの登場によって、
またしても日本中が「ひと相場」にさそわれて手ひどい目にあうことになる。
バブルとバブル崩壊である。・・

東京オリンピックの宴のあとに、
鈴木オートの家族や町内の連中たちが、はたしてどのような生き方をしていったのかはおよそ想像がつく。
なぜならそこはだれもが通ってきた道でもあるからだ。
タバコ屋はなくなり、雑貨屋もなくなり、電気屋も、駄菓子屋も消えてゆき、
辛うじて車の整備屋はほそぼそとつづいているかもしれないという時代をむかえる。
よりスマートで小ぎれいな見知らぬ町にそっくり変わったときに、
あの町の連中は、どうなったでしょうか?

他方の地方の情況はどうかといえば、旧態依然の土建行政さえもその恩恵はなくなり、
なつかしの政治屋道路と立派すぎた町会館だけが日本中に遺物のようにのこされているだけだ。
映画 「悪人」の孤立きわまった若者たちが、
東京オリンピックの当時の世代から何を背負ってきているのだろうか?
日本ナショナリズムはまだわずかに胸中にあるものなのか?
親たちの自尊回復が、いつのまに消費社会のなかで切り裂かれてしまったのか?

- いままだこの国では、あきもせず、米国流のプラグマティズム思考に毒されつづけた結果が、
人間の 《 個の存在の普遍性 》 からどんどん離れてゆき、
個性という美名に商品化された微々たる < 個の差異化(あるいは差別化)の再編成 > という
詐術の世界におよがされて、自己崩壊をうけいれてゆくものたちであふれかえっている。・・・

こうした現代の情況において、
映画 「大阪ハムレット」の世界への契機は見いだされるのか?
それはまったくおなじ人情世界の光景のようではあっても、前者のオールウェイズとちがって、
時代的タブーを解体する意志において、 また
すべての人との < 関係性>の普遍的な受容の意志において、
そしてなにより、「個の尊厳と自由」を表現しつづける意志において、
すぐれて革命的であるといえよう。・・・

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今回も読んでいただきありがとうございました。
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