心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

昭和精神史の孤独なリア王・蔵原惟人

2012-01-18 18:17:12 | 映画「大阪ハムレット」は時代を解き放つ

こんにちは、のほせんです。

じつは、この冬のかかりから正月過ぎまで、あちこち身体に故障がでてきて、わやでした。
夜更の喘息からはじまって、治まったとおもったら突発性難聴におそわれ、
これも特効薬で早期回復できたとおもったら、もう年賀状が届き、それではと
年賀に行って酒を過ごしては、また風邪をこじらせているうちに、なんと戎っさんがおわってました。

相方のいわく 「安物のぼっちゃん」に育ったもので、
寒さに弱く、ヒートテックのシャツとタイツは飯より大切!
だから近所の、左隣の兄ちゃんと、右隣の婆さんが、年中素足でいるのが信じられないわけです。
きっと自分が貴種の人で、素足の隣人が土着の人にちがいないと古代史ロマンでなぐさめることにした。
まあせいぜいはずんだたところで、素足の人は源平武士どまりにちがいない。(ふむ)

そういうわけで(なにが)、きょうはのっけから調子外れのスタートになっていますが、
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

さてようやく、左脳がぼちぼちはたらくようになって、
- 「小林秀雄対中原中也という気質の対立は蔵原惟人対中野重治という対立にも、
日本近代史の地層のうちでは深く結びついていたと思われる。」-
という、磯田光一氏の渾身の評論を読んでいるときに、

まったく無作法に、携帯メールの着信音が鳴り響いたのであります。

- 「御幣島から帰り 地下鉄のパスで乗れる市バスに乗ったが 
JRに乗ったことにして160円儲け 春から縁起のエエことヤ~」-

というなんとも読みづらい、わかりづらいメールで、
田原先生なら、主語も無くまったく破綻した文なりと、病人扱いで一蹴するところだ。

だがなにを隠そう、このメールの発信人は齢還暦にとどく、古くからの地元の知人である。
きっと、一日の通勤手当てを浮かせたことがうれしくて、わたしにも知らせてくれたのでしょうね。

いやこの知人、まことにセコすぎていて、たまにこのようにギョッとさせられますが、
またこれが、なんとも可愛い生き方のようにおもえて、
屈託だらけなのに屈託なきがごとくあるがままにあることに、ある種羨望さえ禁じえない。
カウンセラーという立場からみれば、
あまりにも恣意的なものの考え方を固持した偏向性が、ときに社会的な適応と相容れないため、
その生来の屈託だらけの性格形成にメスを入れたくなるところですが、
なぜかちかごろは、むしろそのちっぽけな屈託だらけの意固地さを、
そのセコイ生き様を、ひたすらいとおしくおもえてならない。

とにもかくにも、
かれはかれなりに、フリーターではあっても自立していて、
おおむね心的な破綻をみせることもなく、
いってみれば映画『大阪ハムレット』の住人のひとりのように、
のほほんとかわいらしく生きている。
それをとやかく言えるものなど、いるわけもない。--

さてと、
読みかけの『蔵原惟人論』(磯田光一氏の「昭和への鎮魂」)をテキストにしてなにごとかを学ぶことにしましょう。

磯田氏はもとよりなんの確執ももたない蔵原氏についてつぎのように語っている。
- 「私自身は日本共産党とは何の関係もないし、蔵原氏の政治思想には対立する側に属している。
半世紀にわたって“党”と運命を共にしてきた蔵原氏を、政治思想のレベルでどう批判することもできる。
しかし、そうしたことで裏切られた父性の孤独が埋められようはずもなかった。
私には、昭和左翼の父たる蔵原氏の運命は、“狂気に耐えているリア王”にみえる。
これは政治思想の問題ではなく、昭和精神史の自己確認にかかわる問題なのである。・・

蔵原氏の生まれた明治三十五年は、小林秀雄氏の生まれた年でもあった。
“東京っ子”として育った蔵原氏は、その文学的青春を小林秀雄氏と同じ府立一中のなかで体験していた。・・」

- 「読者はここで、蔵原氏と小林秀雄氏が、地方出身の中原中也に惹かれながらも、
そこにある種の鬱陶しさを感じていたことを想い起こすべきかもしれない。・・

おそらくこの“小林” 対 “中原”という気質の対立は、“蔵原” 対 “中野重治”という対立にも、
日本近代史の地層のうちでは深く結びついていたと思われる。
日本封建制の“血”と“遺恨”とを体現していた中野重治氏にあっては、
その血と遺恨とを通じて日本封建制を撃つという、逆説にみちた風土の刻印が運命となった。・・

中野重治氏が意識の表皮の下で求めていたのは、
“ムラ ”の否定ではなく、“もう一つのムラ ”の再生であったようにみえる。

江戸伝来の文化を失った(関東)震災後の東京は、
次第に地方人の吹きだまりのような近代都市に化していった。
この都市の冷たい風にさらされたとき、“ムラ ”の血をもった地方青年たちの心には “ムラ ”の睦まじさ、
あの“連帯”という名の熱い友情にたいするひそかな希求が芽ばえてこずにはいなかった。
“鉄の規律 ” は “村の掟 ”の再生ですらあった。 そして “旧い日本”は、
マルクス主義という新しい象徴を掲げて、左翼急進主義の熱狂として蘇生しつつあったのである。・・・

だが一方、
すでに短歌に共感する絃を所有せず、象徴派の孤独を領有してしまった蔵原氏にとっては、
“歌のわかれ ”は別の形で訪れてこざるをえなかった。
もしここで小林秀雄氏がランボーに出逢ったように、蔵原氏がランボーに出逢ったならば、「緩徐調(アダヂオ)第一」という自意識の閉鎖は、異なる運命をたどったかもしれない。
だが蔵原氏の前にランボーはあらわれなかった。
そして蔵原氏は、異なる形で “歌のわかれ” を歌わなければならなかった。
当時モスクワに在った蔵原氏は、大正デモクラシーを葬ると同時に
“詩人・蔵原惟人” をも葬る文章を書いたのである。
それが大正十五年一月十一日執筆日付けをもつ「詩人セルゲイ・エセーニンの死」であった。・・」

- 「想像するに、ロシアは西欧の栄華にたいして嫉視と羨望とを抑えることができなかったにちがいない。
十九世紀にみられる西欧思想の移入が、そのままロシア的熱狂をともなう急進主義を生んでしまったという事態は、
ドストエフスキーが繰り返し述べているとおりである。
“西欧資本主義を否定する西欧思想 ” というべきマルクス主義は、
ロシアの知識人のナショナリズムにとって、最も適合しやすい契機をもっていたと思わずにはいられない。
国家の建設のためには、母なる大地さえも否定せざるをえなかったというディレンマは、
ほとんど明治時代の日本のディレンマを想わせる。
この要請を背負ったソヴィエト連邦にとって、“最後の田園詩人”たるエセーニンの死が、どれほどの意味をもつことができたであろうか。
蔵原氏はスターリンの孤独を理解しえた数少ない人物の一人である。・・」

- 「氏の周囲には、血気にはやるマクベスたちの群れがあった。
だが醒めきった蔵原氏が、いまさらマクベスの役割を演じることができたであろうか。・・

昭和の幕が開かれたとき、蔵原氏は “公的な言語 ” によって生きるリア王、
血気にはやるマクベスたちを率いるリア王、
つまり “私的な言語 ” を捨てきった“言葉なきリア王 ” に変身した。・・」-

ずいぶん長文の引用になりましたが、 ただ、ここまでは
蔵原惟人氏の、「昭和左翼の父」としての有り様を、
昭和精神史の「リア王的な父性」性としてみとめるという、
かつてだれもとりだしえなかった蔵原氏の父性の孤独を、
このうえない誠実さで、 あざやかに指ししめしているようにおもえます。

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