心理カウンセラーの眼!

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性同一性障害(その2・エロス覚)

2011-01-31 17:20:38 | 性同一性障害の根拠

こんにちは、のほせんです。
霧島の新燃岳のとつぜんの大噴火は、多大な降灰被害をもたらす一方、
わたしたちに地球の活性との繋がりを思い起こさせる機会でもありました。

現代社会の強迫性に追いたてられる時代に、
<自然 > の実在系のなかの人類という感覚を
不意によびさませる風が吹き渡ったようにおもわれましたが、
みなさんは、どのように感じられましたか?

さて、今回ひきつづき「性同一性障害」についてお話しするに際して、
もっと根源的な、
<人間の心身が成長する過程 > から見ていこうとおもい、
『母型論 』(吉本隆明・著)をテキストにして考を深めていきたいとおもいます。

やさしい言葉だけども難解な吉本さんの論考をもとに
わたしごときがお話してゆくのは、浅はかなこととはおもいつつ、
できるかぎり伝えられるようにと願いつつ、
さてさっそく、はじめましょう。

- 『母型論 』のはじめには、

- “ 母の形式は子どもの運命を決めてしまう。” と述べられていて、
なおかつ、
“ この主題が成り立つ場所は、ただひとつ、
  出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場だとみなされる。”とある。

すなわちこの時期に胎乳児の《無意識の核 》 がつくられるという。・・

ここで総論的な『母型論 』の章をひとまずおいて、
より繊細な部分にふみこんでいる『連環論 』の章に目を向けてみると、

- 「 生誕のあと一年未満の乳児の過程に異和がうまれることが、
乳児の前言語の状態に何をもたらすのか、
そして前言語の状態とはほんとは何か」、

- 「そのために乳児が母親と栄養からもエロスからも接触する
ただ一個の器官といっていい口(腔)と周辺の鼻(腔)」などが、
「その異常にかかわりをもつとみなすことにする。」 -とある。・・

* いきなり、刺激的な思考がジャブのようにするどく迫ってきます。
つづけて読みすすめるとしましょう。

- 「乳児の口腔と舌、もっている味覚が
そのまま性についてのエロス覚と融けあう理由は発生的にどこにもとめるべきか。
このばあい、じかに性の感覚の対象になっているのは、母親の乳首だといっていい。

発生的にいえば、
口と舌とは鰓腸管の入り口に位置して食べもの(栄養としての乳汁)をとりこんでいる。
これにたいし生殖性器は腎管の排出口に位置し、
腎器の末端のところで、体壁の筋肉や神経によって管の壁からつくられたものといえる。」

「するとわたしたちは性器を感覚によってかんがえれば、ふたつに大別される。
ひとつは腎管から発達した内臓感覚に支配される内性器とその排出感覚、
もうひとつは体壁の筋肉や神経の感覚(接触 )に支配される外出器の部分とである。

性的な感覚(エロス覚)はこのふたつの感覚の融けあった
排出の解放感と接触の快美感とからできている。」・・

* ここでは、わたしたちの先験的な性器への概念が気持ち良いようにふっとばされてしまいます。(笑)
しかし、吉本さんは手をゆるめずにたたみかけてきます!

「だが(性的な過程=性交)これを
共時的におこる内性器による精子の受容とその排出としてかんがえれば、
広義の栄養の受容と食行為とみることができる。

性的な行為と栄養を摂取することで生命を養う行為とが同致する行為とみなせるとしたら、
ここでしかかんがえられない。
また逆にここでは性は、
生命の持続を分離した雌性と雄性のあいだで分担する行為として
食と等価だという言い方も成り立つといっていい。

また感覚的な言い方をすれば、ここでだけ味覚とエロス覚とは同調するともいえる。」

* まったく、吉本さんの思考のダイナミックなことに感動します。
 つづいての補足がこれです。・・

- 「乳児が母親から乳頭を介して栄養を摂取する行為は、
そうしなければ生命が維持できない最小限度の本来的な過程だ。

だが母親が環界のすべてであるような場で乳頭を口のなかに挿入し、乳汁を吸う行為で、
受けいれるものと与えるものとの行為の関係からみれば、
内性器がもたらす内臓感覚と外出器に擬せられる母親の雄性の乳頭と、
雌性である乳児の口と舌は、
性行為とみなすことができよう。
乳児はじかに乳汁を摂取する行為において、性の行為との同調をとげているのだ。」・・・

* わたしたちは母親と乳児との授乳の行為が、
このようにあざやかに性の行為と同調しているものとして洞察されていることに驚嘆させられる。

授乳において、母親の乳頭が男性器とみなされ、
乳頭から乳汁を吸う乳児が雌雄にかかわらず雌性であるほかないという考察には、
《倒錯 》ということへの契機がたしかにしめされている。

そしてこの根底的な考察にみちびかれるように、
さらにつぎのような《倒錯 》 の世界への考察に足をふみいれることになる。

- 「よく知られるようにフロイトは精神神経症の状態でのエロス覚の異常や倒錯を
乳幼児の性の振る舞いのなかにみられる倒錯や異常に似たもの、
あるいはそこに退行したものになぞらえた。
倒錯とか異常とか呼んでいいとすれば、
乳幼児の日常の振る舞いは、すべて性的な振る舞いと分離することができないし、
またその振る舞いはすべて性として異常とみなくてはならない。」・・・

* ここではわたしたちの性の倒錯や異常の概念が、
ほとんど用をなさない恣意的なかんがえであるとして退くしかないほど、
根源的な位相でのとらえ方がもとめられている。

それゆえに、現代の性の問題を声高にいうものは、
はたして本当はどの程度の深刻さを持っているのかどうかを、
それぞれが逆に問われることになるだろう。

(この稿は、次回につづきます。)
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今回も読んでいただき、ありがとうございました。
もうしわけないですが、
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