心理カウンセラーの眼!

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電通=マス広告の終焉

2011-01-24 19:01:04 | 現代日本および世界

-- 病理的超消費社会の日本の先にあるもの? (プラグマティズムの病理)--

こんにちは、のほせんです。
年末以来、ずうっと厳しい寒気がつづいていますが、
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

さて今回は、
前々回のブログ『「広告」=超消費社会の案内人』のお話のつづきをいたします。

『電通とリクルート』(山本直人氏・新潮新書刊)をテキストにして、

- “「憧れの生活」が絵空事になってしまった ” 現代。 そして
電通とリクルートは、いま、なぜ
消費社会にたいして
「ミスファイヤー(点火しない)」におちいったのだろうか?-
というところまで見てきましたが、

ここで日本の広告産業の巨人、電通とリクルートの興隆について
筆者の記述にそっておさらいしてみると、・・

- 電通が戦後すぐに、
読売新聞社を筆頭に新規の利権にめざとい財界といっしょになって、
民間の商業放送設立に奔走し、日テレ開局に貢献したことはよくしられている。

それによる広告営業シェアの独占的確保は、
「広告収入だけで経営できる放送ビジネス」モデル構築を可能にしたといわれる。

電通は日本の高度成長期に伴走し、その隆盛をきわめることになる。
ところが1980年代に入って、この圧倒的なマス広告が
かえって、大衆にとっては過剰な情報の氾濫と認知されてきたときに、

それと前後して、
住宅情報、人材募集、海外旅行、中古車などに整理された情報を提供していったのが
リクルートにほかならない。
セグメント情報の優越性がそのころから認識されていたのだ。

筆者がいうように、これをいいかえれば、
「モノの豊かさへの美しい幻想」をふりまいたマス広告=電通と、
「もっとリアルな現実生活との闘い」をサポートしてきたリクルートという具合に、
両者の役割は明確に分けられる。

マス広告が単純な「拡声と伝達」の時代から、
カラーTVの普及に呼応して、
『金曜日はワイン』、
『クリスマス・エキスプレス』、
『ディスカバー・ジャパン』等、
「人びとの心の中の辞書を書き換える」ことで、
消費を呼び起こす手法が受け入れられた時代までが、
電通の黄金期だったといえよう。

筆者はこの変遷と転機について、
日本社会が成熟期をむかえて、消費に「自分への納得を求めはじめた」時代になったという。

本の冒頭にも、こう書かれている。

- 「企業が頑張ったからといって、
そう簡単に人々が影響されて世の中が動いているわけでもないのである。
広告をつくる側が情報を発信して、世の中の人々をリードする。
こうした一方的なモデルを無邪気に信じる人は少なくなった。」・・

ここには「広告の影響力」というものが現場の目から冷徹に表現されている。
筆者はこうも言っている。

人々は「広告に踊らされる」のではなく、
「踊ってもいい曲を待っていて、これならばという時に踊るのだ。」という。

まったく言い得て妙で、
大衆の消費行動と広告との相関関係がよくとらえられている。・・

- そして戦後のマス広告からちょうど三十年を迎えるようになった1984年に、
『さよなら、大衆。』(電通藤岡プロデューサー著)が出版され、
1985年には、
『「分衆」の誕生~ニューピープルをつかむ市場戦略とは 』(博報堂生活総合研究所刊)が、
注目を集める。-

そこに語られている、
“ 次に買うべきモノが見えない ”
“ 社会は『 際くずれ 』を起こす ”などという言葉には、

じつは、とうとうついに
『超消費社会の固有の病理 』が発現される契機がはっきりと示されていることがわかる。
あとにのこされた消費とは、
どんな形をとろうとも、病理的な消費行動をあらわすものでしかなくなった。・・

そして、
人々が消費行動に途惑いをもつようになったのと軌を一にして、
カッコいいトレンディドラマもまた受け容れなくなり、

「広告」も人々の変化に途惑い、
美的な憧憬イメージを立てられなくなったのである。
《 モノ社会の虚無の時代 》がいよいよ本格化してきたのである。・・

カウンセリング的に言い直せば、
“ 憧憬という美化の妄想イメージさえも、そのリアリティを維持できなくなった鬱の時代 ”
のはじまりを象徴している。

その後の広告が、
「あいまいな憧憬」が消えて、
「リアルとの格闘に役立つ」情報にシフトした、
「購買ガイダンス広告」に徹してみても、

すでに、消費に対する快のイメージを喪失した人々が、
その案内人たる広告(産業)への不信をつのらせたのは自然なことであろう。

もはやそこには、
「モノの情報の意味を人々が決めていく」という、
主導権の主客の転倒にあせる広告側の悪あがきしかのこされていない。

マス広告が消費社会において、
完全に「ミスファイヤー(点火しない)」におちいったのである。

ここにいたって、
マス「広告」の巨人・電通は超消費社会への案内人としての役割を終え、
その歴史的な意味をも喪失したとかんがえてよいだろう。・・

- にもかかわらず、2009年の秋に、
電通は『幸福の方程式』という本を出版している。

“ 車や家を持つことも、ブランド品やグルメに興じることも
もはや幸福とはなりえないことを知ってしまった今、
新しい幸福の物語が始まっている!” といい、

「幸福のペンタゴンモデル」として、
「時間密度」「手ごたえ実感」「自尊心」「承認」「裁量の自由」をあげ、
さらに、消費の物語に代わって、
「自分を極める物語」「社会に貢献する物語」「人間関係のなかにある物語」が、掲げられているという。

これを総括して筆者は「持てるものの幸福論」だと
大まじめに的外れな揶揄しているのだが、・・。

それにしても、この「幸福」本。
安っぽい童話のような、自己実現の「幸せ探し」が露呈する醜態は、
どうみても、消費の物語よりまだいっそう悲惨であるというしかあるまい。

これはまたしても米国流のプラグマティズム思考に毒された、
個性という名に商品化された < 個の差異化(あるいは差別化)の再編成 > でしかない。

- 個人をも置き代え可能な商品価値におとしめる《 消費社会の魔力 》については
以前のブログ(「貧困と超消費社会の日本の病理Ⅱ」)にも記述していますが-

それは人間の《 個の存在の普遍性 》 とはほど遠い、

「自己実現」という自己意識の美化の妄想を動機にした
「より細分化・差別化にむかったモデル(商品化)化」なのである。・・

エセ心理学っぽい言葉を切りとって、貼りあわされただけの文字面が、
まだなにか妄想を喚起してくれそうな風をよそおっても、

それらの言葉はただ、
孤立意識に根ざした触覚的快感の欲求のあらわれで、
わたしたちにとって本質的な意味を有していない。
病理からの言葉、記号としての広告文字にすぎないのだから。・・・

ここで、わたしたちは声をあげて言わなければならない。-

- 『そのあやしげなレシピで、まな板にのせられるのはごめんだぜ。
それこそ、おおきなおせっかいというものさ。』

『 こんなバイアスのかかった自己観念の夢(妄想)を見るために、
  営々としてはたらいてきたわけではない!』 と。・・・

参考ブログとして、「感動をウリにする第5次ビジネスの正体!」 を揚げておきます。

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1 コメント

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日本が病んでいる (秋あかね)
2018-09-17 09:39:23
じつに凄い論説で、
日本社会を見事に解剖されていて
こわいくらい!
こんな社会だから、わたしたちは
とにかく息苦しいのね😫
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