昭和29年制作の初代ゴジラを生んだ映画監督・本多猪四郎氏のウェブサイトがあります。
本多猪四郎(ほんだ・いしろう 1911年~1993年)
1911年5月7日、山形県・朝日村に生まれる。
ゴジラ・スーツアクターの中島春雄氏と同郷です。
亥年生まれの四男で、『猪四郎』と名づけられたようです。
1921年、家族と共に上京。
この頃より映画をよくご覧になっていたそうで、
その後日大芸術科映画科に進学。
1933年、22才で東宝の前身P.C.Lに入社、
翌年より助監督として山本壽次郎監督に師事。
1935年より3度の召集を受け、終戦まで合計8年間、
中国大陸で前線任務に就く。
1946年3月に復員し、1951年、『青い真珠』で監督デビューとなりました。
1953年、『大平洋の鷲』で円谷英二と初のコンビを組み、
翌1954年に監督した『ゴジラ』が大ヒット。もう、お馴染みです。
その後も円谷とコンビで
『空の大怪獣ラドン』『ガス人間第一号』『マタンゴ』『妖星ゴラス』など、
多くの特撮映画を演出した。
また1970年代には『帰ってきたウルトラマン』『サンダ-マスク』などの
テレビ作品も監督。
1975年『メカゴジラの逆襲』を最後に現場を離れる。
1984年、助監督時代からの親友、黒澤明の演出補佐として現場に復帰、
『乱』『八月の狂詩曲』『夢』『まあだだよ』で手腕を振るった。
残念ながら1993年2月28日永眠。
詳しいことは、本多氏のサイトをご覧ください。
本多猪四郎(ほんだ・いしろう 1911年~1993年)
1911年5月7日、山形県・朝日村に生まれる。
ゴジラ・スーツアクターの中島春雄氏と同郷です。
亥年生まれの四男で、『猪四郎』と名づけられたようです。
1921年、家族と共に上京。
この頃より映画をよくご覧になっていたそうで、
その後日大芸術科映画科に進学。
1933年、22才で東宝の前身P.C.Lに入社、
翌年より助監督として山本壽次郎監督に師事。
1935年より3度の召集を受け、終戦まで合計8年間、
中国大陸で前線任務に就く。
1946年3月に復員し、1951年、『青い真珠』で監督デビューとなりました。
1953年、『大平洋の鷲』で円谷英二と初のコンビを組み、
翌1954年に監督した『ゴジラ』が大ヒット。もう、お馴染みです。
その後も円谷とコンビで
『空の大怪獣ラドン』『ガス人間第一号』『マタンゴ』『妖星ゴラス』など、
多くの特撮映画を演出した。
また1970年代には『帰ってきたウルトラマン』『サンダ-マスク』などの
テレビ作品も監督。
1975年『メカゴジラの逆襲』を最後に現場を離れる。
1984年、助監督時代からの親友、黒澤明の演出補佐として現場に復帰、
『乱』『八月の狂詩曲』『夢』『まあだだよ』で手腕を振るった。
残念ながら1993年2月28日永眠。
詳しいことは、本多氏のサイトをご覧ください。