
【連載】頑張れ!ニッポン(51)
スカイラインGT-R生産停止の衝撃
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
▲GT-R生誕50周年記念車「GT-R 50th Anniversary」(Car Watchより)
日産がスカイラインGT-R(正確にはスカイラインから独立したR35GT‐R)の生産中止を発表した。これで日本メーカーが製造するスポーツカーは完全になくなったという。最近は自動車に関心を持つ人は多くないと思うが、自動車産業が日本を支える重要な産業である事は大方の認めるところである。
▲栃木県の工場でのGT-R最後の1台(NHKより)
▲日産GT-R(de.wallpapers.comより)
ところで、日産のスカイラインGTR神話を知る人はどの位いるだろうか。私の年代で多少は車に関心を持つ人ならば知っているに違いない。スカイライン神話のひとつは、1990年代初頭にR32型GTRが海外のレースイベントに出場した際、ヨーロッパの名門ポルシェを一時的にリードし、その圧倒的な速さを世界に示したことである。最終的には2位となったが、日本車が欧州の強豪と互角に戦った象徴的な瞬間として、今でもファンの間で語り草となっている。
▲ポルシェを抜いた伝説のGT-R(ベストカーWebより)
それより遡る1970年代のレースでは、圧倒的なパフォーマンスと耐久性で無敗神話を築き、国内外のファンを熱狂させた。特に「R32型」GTR(1989年登場)は、「グループA」で29連勝という金字塔を打ち立て、「スカイラインGTR=最強」のイメージを決定づけた。
GT-Rは「モンスターマシン」とも呼ばれ、先進的な4WDシステムやターボエンジンによって、市販車でありながら当時のスーパーカーを凌駕する性能を誇ったことも神話化の一因である。このような背景から、スカイラインGTRは単なる自動車を超え、世代を越えて語り継がれる伝説的存在となった。
スポーツカーを買う日本人が減った
栄光に輝いたスカイラインGTRのDNAを受け継いだ「クルマ」の生産中止に追い込まれた日産の苦衷は察して余りある。私は日産再建の足掛かりにならないかとひそかに期待していたが残念至極だ。それにしてもスポーツカーを買う人が減ってしまったのがなんとも寂しい。
今はSUVなど家族で利用できる実用的な車しか売れないのだろうか。スカイライン神話が誕生した1970年から80年までは、夢を追いかける人が沢山いたように思う。あれから半世紀が経ち時代はすっかり変わった。夢を追いかける人は減り、すっかりデフレマインドが身について節約生活をモクモクと送っている。
話がそれたが、マイカーブームについて振り返りたい。
▲「ハコスカ」と呼ばれた1970年代のスカイライン(pinterest.jpより)
1960年代からオイルショックの起こる1973年頃までは、高度経済成長が続き所得水準が向上した。国民の消費が「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」から自家用車へと移った。ところで、「高度成長期」とは今から俯瞰してみた時にそう呼んでいるだけで、当時社会に出たばかりの私などが「今は高度成長期だなあ」なんて感じるはずがない。
また話が横にそれたが、1966年にトヨタからカローラが、そして同年日産からサニーが発売された。これを切っ掛けにファミリーカーが普及し始め、本格的なマイカーブームが到来した。
楽観できない日本の自動車産業
それ以前から政府は自動車の普及を目指しており、高速道路の建設も進めていたのである。1回目の東京オリンピックが開催された1964年、わが国初の高速道路である名神高速が開通し、次いで1969年に東名高速道路が開通した。それまで一部の富裕層しか保有していなかった車が庶民にまで普及したのだ。
またまた話がそれるが、私は大学生時代の昭和36(1961)年に運転免許を取ったが、当時は車に乗るあてもなく、10年近くペーパードライバーの時代が続いた。そして結婚して住まいを求める時、マイカー通勤を前提に家を探したのだった。
以来、福岡、関西、首都圏を何回か転勤を繰り返したが、いつもクルマ通勤を前提にして家を探したものである。現在も郊外に住んでいるので、車が無いと随分不自由するだろう。
今や車が一家に一台の時代から地方都市では一人に一台の時代に移っており、生活の必需品となっている。上述のように1970年代はオイルショックがあり、排ガス規制も強化され自動車産業にとって厳しい環境となった。
しかし、日本のメーカーは燃費の向上や排気ガス低減などの課題に真正面から取り組み、見事に困難を乗り越えたのである。その結果、日本車の優秀性が世界中で認められ、特に米国市場ではアメリカ車を押さえ日本車のシェアが大きく伸びたのである。
その結果、米国との間で貿易摩擦が激しくなった。当時の自動車を巡る貿易摩擦については既にこのブログで述べたので、ここでは省略する。トランプ政権になって、またもや自動車を巡る貿易不均衡が問題になっているのは残念だ。
以上日本自動車の健闘ぶりを述べたが、自動車産業はいま大きな転換期に差し掛かっていると思われる。これからの日本の自動車産業がどうなって行くか気になるところだ。私は決して楽観する事は出来ないと思っている。それについては次号で述べたい。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)