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早田ひな「特攻資料館に行きたい」発言の波紋 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(64)

2024-08-17 05:30:01 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(64)

早田ひな「特攻資料館に行きたい」発言の波紋

 

東京(日本)

 

▲メダルを手に記者会見に応じる早田ひな選手

 

 8月15日正午、一人で黙祷した。そしてその数時間後、博覧強記で知られるダーツ仲間のK氏からメールが届いた。パリオリンピック卓球日本代表のメダリスト早田ひな選手の「特攻資料館に行ってみたい」発言についてだ。
 早田は帰国後の会見で、行きたい場所を聞かれると「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と発言したという。
 普通、「アンパンマンミュージアムに行きたい」で話は終わり、練習や試合の時の厳しい顔とは別の可愛らしい横顔」と言ったコメントで記事が締め括られるのだろうが、続く彼女の言葉に思わず私は居住まいを正した。
 早速、インターネットで関連動画や記事を漁ってみたら、彼女の発言は国内のみならず海外でも注目を集めていた。SNS界隈では賛辞や肯定的意見で大変な盛り上がりを見せているが、何故か新聞、テレビなどの大手メディアの殆どは、お得意の報道しない自由を駆使して、静観するか無視を決め込むかだ。TBSなどはこの発言部分を削除して放送したという。

 今回の彼女の発言は、映画『あの花の咲く丘で、キミとまた出会えたら。』の影響という見立てもあるようだが、早田は、昔から、歴史、戦争に関心を寄せていた。2017年に池上彰の番組に出演した際には、「なぜ戦争は終わらないのでしょうか?」と質問し、池上を慌てさせている。
 当時既に卓球選手として活躍していた彼女は、世界中で遠征試合に出場していたが、戦争や紛争地域出身選手たちは卓球道具が揃えられなかったり、練習場がなかったりとハンディキャップを負っていることに同情し、その原因に思いを馳せる感受性と知性の持ち主なのである。
『あの花の咲く…』をご存じない方のために、同映画の公式サイトからあらすじをご紹介する。

《親や学校、すべてにイライラして不満ばかりの高校生の百合(福原遥)。ある日、進路をめぐって母親の幸恵(中嶋朋子)とぶつかり家出をし、近所の防空壕跡に逃げ込むが、朝目が覚めるとそこは昭和20(1945)年の6月…。戦時中の日本だった。偶然通りかかった彰(水上恒司)に助けられ、軍の指定食堂に連れていかれる百合。そこで女将のツル(松坂慶子)や勤労学生の千代(出口夏希)、石丸(伊藤健太郎)、板倉(嶋﨑斗亜)、寺岡(上川周作)、加藤(小野塚勇人)たちと出会い、日々を過ごす中で、彰に何度も助けられ、その誠実さや優しさにどんどん惹かれていく百合。だが彰は特攻隊員で、程なく命がけで戦地に飛ぶ運命だった…》

 と、こんな具合で、「泣けるラブストーリー」という側面が強調されている。しかし、そんな紹介の仕方をしているのは、「特攻」という重いテーマの映画に若い人たちを惹きつけようとする高等なマーケティング戦略ではないのか?などとと、ひねくれ者の私には感じられた。

▲百合の花咲く場所で二人は想いを募らせていく


 私は、K氏に次のようなメールを送った。

「…たまたまPrime Videoで映画『あの花の咲く丘で…』を観ました。8月12日でした。主演の福原遥の「現代の女子高生の視点」と「1945年当時の特攻兵の視点」がぶつかり合い、すれ違う様子が予定調和的に描かれていました。
 映画全体のトーンが表層的で、深みに欠けるという印象も否めませんが、戦争や特攻の背景を知らない(勉強したことがない)若い人たちが「特攻」と「戦争」について考えるためのとても良いきっかけになると思いました。
 作品としては、面白かったですよ。早田ひな選手のあの発言が、『あの花が咲く丘…』の影響…と言われれば、手品の種明かしをされたようで、ほんの少し興醒めた気分になりはしますが、小難しい論説や評論で若い人たちの興味を惹きつけることは難しく、このような映画やアニメによる啓蒙はとても有効で良い手段だと改めて痛感した次第です。」

 海外の反日コミュニティーからは、予想どおりの聞くに堪えない反応があった。こんな具合だ。

「神風の操縦士は、日本の右翼活動家の醜さと残酷さを象徴し、第2次世界大戦時の日本軍の侵略を象徴する存在である」と報じ、「このニュースを聞いた中国卓球の孫穎莎、樊振東の両選手が、早田選手が開設したばかりの中国の短文投稿サイト『微博(ウェイボー)』アカウントのフォローを解除したと伝えた。」(中国共産党機関紙の人民日報系『環球時報』の英語版『グローバルタイムズ』)
 
 彼女たちがどういう心情でこんな行動に至ったのか知る由もないが、共産党一党支配の国で身の安寧を保つためだったかも知れない、などと想いを巡らせてみた。
 旭日旗アレルギーで有名な韓国・誠信女子大学のソ・ギョンドク教授は言う。
「祖先の犠牲精神を称える意図の発言に見えるが、問題はその資料館が第2次世界大戦時の日本軍自殺特攻隊『神風』を称えるために建てられたものであることだ」
 さらにソ教授は早田選手の発言について、「神風や旭日旗、日本軍『慰安婦』などについて、日本の若い世代が正しい歴史教育を受けていないことが原因で起こった」との見解を示し、こう続ける。
「このようなことが起こるたびに怒りや批判だけをするのではなく、早田選手に神風の正しい歴史を伝えることが重要だと思い、個人のSNSアカウントで即座に知らせた」
 じつに悪質なプロパガンダで、感想を書くことすら胸糞が悪い。

 
 日本人は、神風特攻をどう総括してきたのだろうか。静岡大学のM.G.シェフタル教授は、次のように述べている。

「GHQ統治下にあった7年間で連合軍がまず標的にしたものの一つが神風の評価であり、自殺的戦術は狂気だとした。1970年代、1980年代でさえも、日本人のほとんどが神風は、恥ずべきもので、国が自分たちの家族に対して犯した罪だと考えていた。しかし、90年代に入ると、神風パイロットを英雄と呼んで許されるかどうか、ナショナリストたちは試すようになったが、あまり抵抗を受けなかったので、ドンドン大胆になっていった。2000年代には、『俺は、君のためにこそ死にに行く』や『永遠の0』のような神風特攻隊を正に『英雄』として描いた映画や本が公開され、一定の支持を得るようになった」

 シェフタル教授は、終戦後7年間(1945~1952)と1970年代以降について記しているが、1960年代に関する考察が抜け落ちている。昭和27(1952)年生まれの自分が過ごした子供時代(昭和30年代中期~昭和40年代中期)を振り返ってみると、全く違った光景が蘇ってくる。パチンコ屋で大音量軍艦マーチが流れていたり、ちばてつやの漫画「紫電改のタカ」(『少年マガジン』に1963年7月から昭和40年1月まで連載)や辻なおきの「0戦はやと」(『少年キング』に昭和38年7月から昭和39年まで連載)の主人公たちの活躍に心躍らせていた記憶だ。どちらの漫画も、世界の平和を願い、祖国日本のために戦う飛行機乗りの物語である。

 

▲「紫電改のタカ」(『少年マガジン』)

▲『少年キング』に掲載された「0戦はやと」

 

 当時、これらの漫画は大人気で、非難する声は少なかったように思う。勿論、PTAなど批判的な人々は一部にいたであろうが、少なくとも声高に「軍国主義反対!」などと叫ぶ人は珍しかったのではないだろうか。後にアニメ化された『0戦はやと』の主題歌(作詞:倉本聰 作曲:渡辺岳夫)を以下に記す。小学生の私は、大声でこの歌を歌ったものだが、自虐史観が蔓延する現代、様々な世代の人々がこの歌詞にどのように反応するのかとても興味がある。

 

見よ あの空に

遠く光るもの

あれはゼロ戦

ぼくらのはやと

機体に輝く 金色の星

 

平和守って 今日も飛ぶ

ゼロ戦 ゼロ戦

今日も飛ぶ

 

見よ あの海に

遠く光る影

 

あれはゼロ戦

ぼくらのはやと

尾翼にに輝く 南の太陽

 

平和願って 今日も飛ぶ

ゼロ戦 ゼロ戦

今日も飛ぶ


 今回、神風特攻の是非を論じるつもりはないが、ロンドンの地下鉄で『永遠の0』を読みながら号泣してしまい、周りから奇異の目で見られたことをお話ししておきたい。

 ところで、GHQの方針とは別に、特攻の対象であった米国は神風特攻を戦術的・戦略的にどう・分析・評価したのだろうか。
 日本では神風が無意味であったという意見は根強いが、ジュネーブ条約違反の民間人に対する無差別都市爆撃を一時中止に追い込んだのが神風であり、多くの民間人の命を救ったという事実は認めるべきだろう。沖縄戦での特攻犠牲者は約3000人、連合軍約5000人であった。
 アメリカ軍による戦略爆撃(空爆、艦砲射撃)の効果を検証した米国戦略爆撃調査団報告書(1946年7月)は、神風特攻によって「米国はB29による攻撃目標を都市や工場から九州の神風特攻基地に変更することを余儀なくされた」と明確に記している。以下は同報告書の要約だ。

《日本軍にとって、1944年の夏までにその航空戦力を米空軍と互角に戦えるよう維持するには、「神風特攻隊」を組織する以外に方法はなかった。(神風攻撃による)損失は壊滅的だったが、得られた成果は微微たるものだった。日本軍の唯一の資産は、決死の覚悟を持つパイロット以外になかった。このような状況下、彼らは神風特攻の技術(戦法)を編み出したのである。爆弾を抱いた戦闘機で、敵の戦闘機と対空砲火のバリアをくぐり抜けて体当たりすることさえできれば、特別な技術は必要なかった。―(中略)―十分な数以上の神風特攻機が同時に攻撃をしかけた場合、一定の割合の戦闘機が体当たりするのを防ぐことは不可能である。(日本軍が)カミカゼ戦闘機とパイロットの100パーセントを失ったとしても、結果は取るに足らないどころか、我々が耐えうる以上の損害を被る可能性は十分ある。1944年10月から沖縄戦終結まで、神風特攻は、2550回に及び、その内475回(18.6%)が命中若しくは至近距離での損害を与えた。12隻の空母。15隻の戦艦、そして16隻の軽空母及び護衛空母などあらゆる種類の軍艦が損害を受けた。―(中略)―米国が実際に受けた損害は深刻で、重大な懸念を引き起こした。7万機のB29による2回の出撃は、日本の都市や製造拠点への直接攻撃から、九州の神風特攻飛行場への攻撃に変更せざるを得なくなったのである。もし、日本軍が我々のもっと強力で集中的な攻撃に耐えることができていたならば、我々は撤退、或いは、戦略計画を修正せざるを得なかったかも知れないのである。日本は、降伏時点で、本土に神風特攻に使える航空機を9000機以上保有しており、その内5000機以上が特攻用に改造されていた。》

【原文】
《 By the summer of 1944, it had become evident to the Japanese air commanders that there was no way in which they could equal the United States air arms at any point. Their losses were catastrophic, while the results which they were achieving were negligible. The one and only asset which they still possessed was the willingness of their pilots to meet certain death. Under these circumstances, they developed the Kamikaze technique. A pilot who was prepared to fly his plane directly into a ship would require but little skill to hit his target, provided he got through the intervening screen of enemy fighters and antiaircraft fire. If sufficient Japanese planes attacked simultaneously, it would be impossible to prevent a certain proportion from getting through. Even though losses would be 100 percent of the planes and pilots thus committed, results, instead of being negligible, might be sufficient to cause damage beyond that which we would be willing to endure. From October, 1944, to the end of the Okinawa campaign, the Japanese flew 2,550 Kamikaze missions, of which 475, or 18.6 percent were effective in securing hits or damaging near misses. Warships of all types were damaged, including 12 aircraft carriers, 15 battleships, and 16 light and escort carriers. However, no ship larger than an escort carrier was sunk. Approximately 45 vessels were sunk, the bulk of which were destroyers. The Japanese were misled by their own inflated claims of heavy ships sunk, and ignored the advice of their technicians that a heavier explosive head was required to sink large ships. To the United States the losses actually sustained were serious, and caused great concern. Two 70 thousand B-29 sorties were diverted from direct attacks on Japanese cities and industries to striking Kamikaze air fields in Kyushu. Had the Japanese been able to sustain an attack of greater power and concentration they might have been able to cause us to withdraw or to revise our strategic plans. At the time of surrender, the Japanese had more than 9,000 planes in the home islands available for Kamikaze attack, and more than 5,000 had already been specially fitted for suicide attack to resist our planned invasion.》


▲出撃前の神風特攻隊員

▲B29の搭乗員たち

▲空の要塞B29

▲三重県名張市の青蓮寺にあるB29搭乗員11名の追悼碑


 また、前述のように、GHQは軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対し強く批判してきた。が、興味深いことに一方では米国戦略爆撃調査団は神風特攻が、連合国海軍に多大な損害を与えたことから、「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」と評している。
 現在、アメリカ海軍大学校の教科書では「神風は人間が操縦する巡航ミサイルであり、精密攻撃の時代の海戦を予兆していた」とも指摘されている。

 ところで、最初の神風特攻隊が出撃したのは、1944年のフィリピンのマバラカット飛行場からである。フィリピン戦線では50万人の日本人兵士が戦死した。

 

▲旭日旗とフィリピン国旗を背に立つ神風特攻隊パイロットの像(Kamikaze East Airfield Memorial Park)

 

▲日本語で大きく「神風」と表記されたKamikaze East Airfieldの看板(Googleストリートビューより)


 1974年、かつてのマバラカット東飛行場の跡地にKamikaze East Airfield Memorial Park(神風東飛行場記念公園)が造営され、「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立った飛行場」という碑文が入った記念碑が建立された。この記念碑は、フィリピン人ダニエル・ディソン氏が私費で建てたもので、彼は、少年時代、日本軍将兵と交流があり、日本人が大好きになったのが碑を建立した理由だという。

 上の写真を見た時、説明しがたい複雑で不思議な感情に襲われた。 戦後のフィリピンには、反日だけではなく、フィリピン始めアジア諸国を開放した日本に対する尊敬の念も存在している。西欧列強に搾取されるばかりだったフィリピンやインドネシアなどと比べ、日本に統治された台湾と韓国が戦後大きな発展を遂げたことをうらやむ声すら聞こえてくる。それらの声を裏付けるように、旭日旗がフィリピン国旗と並んでいる光景には、感動すら覚えてしまう。

 

            

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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