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良くも悪しくもフランスらしい五輪開会式 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(62)

2024-08-03 05:32:16 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(62)

良くも悪しくもフランスらしい五輪開会式

パリ(フランス)

 

 

 今回は、ロンドンオリンピックについて書くつもりだったが、佳境に入っているパリオリンピックを無視する訳にはいかないだろうと思い、録画しておいた開会式のヴィデオを見ることにした。
 卓越した美意識、斬新なアイデアに感心すると共に、穢らわしく、厭わしい演出に目を背けたくなったりもした。私の独断と偏見に基づきそれらについて、思うところを記してみたい。

 冒頭のオステルリッツ橋の上に上がったフランス国旗のトリコロール、赤白青の煙にこれから始まるセレモニーへの期待が膨らんだ。その後、美しいパリの街を最大限に生かし、昼間から、かわたれ時、そして夜の闇へと移ろう光の微妙な効果さえ計算し尽くしたセレモニーのストーリー展開にも目を奪われた。
 夕闇が迫る中、突如現れた銀色に輝く鉄騎(metal horse)に跨がる鎧姿の女性がセーヌ川を駆け抜けて行く。鉄騎とオリンピック旗を背に纏った彼女は、下からの照明に浮かび上がり、暗闇を疾走しているように見える。

 これからいったい何が起こるのか、想像をかきたてられた。鉄騎と女性(騎士)の意味が気になり、後で調べてみたら、アポカリプス(Apocalypse=ヨハネ黙示録)第6章第2節に記される、第一の封印が解かれた時に現れる白い馬に乗った騎士がモチーフではないかと思い至った。
 この騎士は、「勝利の上の勝利」即ち「支配を得る役目」を担った騎士だと言われている。だとすれば、オリンピック旗を運ぶ役目に相応しいのではないだろうか。

 

▲アルブレヒト・デューラーの木版画『黙示録の四騎士』


 そして、聖火リレーの最終走者が火を付けた気球の上昇に合わせて、エッフェル塔下の特設ステージにセリーヌ・ディオンが登場した。100万人に1人という神経系の難病(スティップパーソン症候群)と闘い続けている彼女は、ヨギ(ヨガの行者)のように頬がこけ、目には哲学者のような光りを湛えている。
 彼女は、雨に濡れるピアノの伴奏に合わせ、フランス語でエディット・ピアフの愛の賛歌を熱唱した。暗闇に浮かぶディオールの白いドレスに身を包んだセリーヌ・ディオン、無数の雨粒が光るピアノの天板、そして遠くに浮かぶ熱気球、完璧に計算し尽くされた空間設計と心が震えるほどの圧倒的な歌唱に私は酔い痴れ、その余韻はなかなか覚めなかった。

▲聖火を宿した気球を背景に歌うセリーヌ・ディオン


 開会式で私が感心したのは、以上だ。その他のシーンには嫌悪感を抱くばかりだった。フランス的価値観の押しつけ、SDGsのゴリ押し、ポリコレ(political correctness)礼賛、多様性・LGBTQバンザイといった全体を貫く軸がどうにも不快であった。
 開会式の模様を伝える日本のアナウンサー、レポーター、ゲストたちは脳天気に、「流石フランス! オッシャレー、斬新、美しい、素晴らしい」と手放しの賛辞を呈するばかり。「この人たち、アタマ大丈夫か?」と心配せずにはいられなかった。
 私には、自己主張が強く自分勝手、そして傲岸不遜、他者への思いやりに欠けるフランス文化の悪しき部分全開の開会式だったように思えてならない。
 
 最初に気になったのは、図書館のシーンだ。ハート、スペード、クラブ、ダイヤの模様があしらわれた派手な衣装を纏った男女2名ずつが図書館の中を駆け巡って、書棚から何冊かの本を抜きとる。私は、ヴィデオを一時停止して、書名を書き写した。それらの本に託されたメッセージが必ずあると直感したからだ。ビンゴ! 私の読みは、的中した。いずれもフランス文学の傑作である。

 Le Diable au corps(肉体の悪魔 ):フランスの作家・レーモン・ラディゲの長編小説。原題は『魔に憑かれて』。ラディゲが16歳から18歳の時に執筆された作品とされ、第一次世界大戦を背景に、放縦と無為に陥った少年と、出征中の夫がいる人妻との恋愛悲劇が冷徹で聡明な洞察力で描かれている。

 Les Liaisons dangereuses(危険な関係):1782年にフランスの作家ピエール・ショデルロ・ド・ラクロによって書かれた、175通の手紙で構成される書簡体小説。18世紀後半のフランス貴族社会を舞台に、貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を往復書簡という形で活写した。

 Les amants magnifiques(豪勢な恋人たち):1670年に発表されたモリエールの戯曲。身分違いの恋愛を描く。

 Le triomphe de l'amour(愛の勝利):マリヴォー作。恋の成就のために男装し、次々に邪魔者を片づける王女の活躍を描く。
 
 これらに共通しているのは、不倫、同性愛、身分違いの愛、愛のためには何をしても許されるという自由奔放な愛の形を賛美し、肯定する思想だ。さて、小さな部屋に入った4人だが、女性2人が抱擁、接吻する。そして、男性2人が抱擁しかけたところで部屋の扉が閉められる。

 次に気になったのは、アフリカ、マリ共和国出身のアフロトラップ(ヒップホップと似ているが、リズムやメッセージよりサウンドの雰囲気やビートに重きを置く音楽のジャンル)シンガー、アヤ・ナカムラと軍楽隊との共演である。
 仏メディアが開会式での彼女の歌唱の可能性を伝えると、極右、保守層から強い反対の声が上がった。
 反対の理由は、「フランス語で歌っていない」「歌手としての素質に問題がある(歌がヘタ)」「フランスを代表するに相応しい歌手ではない(ルーツ云々と言うより黒人だからということだろう)」を問題にして「相応しくない」といったものだ。
 しかし、仏五輪組織委員会が彼女への支持を表明したことにより、軍楽隊との共演が実現したのである。この共演については各メディアとも素晴らしいと称賛している。女性向けニュースメディア「モデルプレス」の記事を引用しよう。

《創造的な情熱、大胆さ、自己超越への見事なオマージュであるアヤ・ナカムラのパフォーマンスは、パリ2024オリンピック開会式の重要な瞬間のひとつとなった。アヤ・ナカムラは、60人のフランス共和国親衛軍楽隊と36人のフランス陸軍合唱団と共に、象徴的な楽曲であるPookieとDjadjaからなるメドレーを披露し、ルーブル美術館とフランス学士院を結ぶポン デ ザール橋は、自由という名のもとに、時代、文化、伝統と現代が出会うユニークな橋として、これまで以上に象徴的な存在となった。》

 アヤ・ナカムラとそのダンサーズのパフォーマンスは確かに素晴らしいものだった。しかし、私には、各メディアが手放しで褒めそやすのとは全く別の風景が見えた。 黄金色のミニドレスを纏い、周囲を圧倒するような堂々たる体躯のアヤ・ナカムラは5人のダンサーを従えて圧巻の歌と踊りを披露しただけではなく、共演しているフランス共和国親衛軍楽隊60人と36人のフランス陸軍合唱団をも率いているかのようだった。少なくとも私にはそう映った。
 伝統と新しい文化の競演というのが、最も一般的な解釈だろうが、黒い軍服の兵士たちの表情には生気がなく、アヤ・ナカムラを囲んで彼女の歌とダンスに合わせて無表情に管楽器を左右に振り、身をくねらせる兵士たちの様子は滑稽で、私は哀れみさえ感じてしまった。まるで、女王様にひれ伏す家臣のようではないか…。

 アヤ・ナカムラは、恰も軍楽隊の総隊長のような雰囲気を漂わせ、彼女とダンサーたちは、パフォーマンスを敬礼のポーズで締め括った。宗主国と植民地の力関係が入れ替わったかのような雰囲気が漂った。これは、私のひねくれた妄想だろうか? 否、これはゲイを公表している演出家のトマ・ジョリーが、植民地支配の歴史を否定し、フランス人が持つべき贖罪意識を触発すべく巧みに造り込んだプロットではないかと私には思える。
 因みに、Nakamuraは芸名であり、日本人との血縁は全く無い。アメリカのテレビドラマシリーズ『ヒーローズ(Heroes)』の登場人物でもあるマシ・オカが演じるヒロ・ナカムラから命名されたらしい。

 

▲軍楽隊を率いるかのように、敬礼でパフォーマンスを締め括るアヤ・ナカムラとダンサーたち


 
 派手な女装のドラァグクイーン(誇張した女らしさや女装などでパフォーマンスする人物)やトランスジェンダーのモデルらがずらりと並び、レオナルド・ダビンチの絵画『最後の晩餐』のパロディーを繰り広げた。中にはモナリザ風の金色の長髪をなびかせ、顔の下半分がやはり金色の髭で覆われた異形の人物もいた。

 イエスの位置には、後光を意味する冠を被り、肩を露わにしたふくよかな女性が。彼女は、同性愛者であることを公言しているLGBT運動の活動家、バルパラ・プチだ。

 ダビンチの絵画そのままの配置で座る彼らの前には、ギリシア神話の酒の神ディオニソスに扮した、全身を青色に塗りたくった小太りの男が寝そべって、身振り手振りを交えて歌う。
 彼は、股間部分を花の飾り物で覆っただけのほぼ全裸だ。このパフォーマンスは、キリスト教を愚弄するものとして、世界中のキリスト教徒だけでなく、宗教を冒涜する行為としてイスラム教徒からさえも非難されている。あまりのおぞましさに私は目を背けたくなった。

 多様性を謳うパリオリンピックだが、開会式に出演している人たちは、白人、黒人、アラブ系ばかりで、アジア系は無視されているようだった。しかし、一人だけアジア系の出演者を見つけだすことができた。
 それは、最後の晩餐のユダの位置に座る子供だ。意図的なのかどうかは検証のしようがないが、フランス人(演出家)の意識の中に存在するアジア系はユダのような存在と認識されているようだと考えるのは、邪推だろうか。

 

▲『最後の晩餐』のパロディー

 

『最後の晩餐』と並んで物議を醸したのは、衝撃的なマリー・アントワネットの生首演出だが、これについてはネット上にも様々な意見が溢れているので多言を要しない。
 敢えて言うなら、気になったのは映像の気持ち悪さのような点ではなく、フランス人の意識の根底には、フランス革命で王妃や貴族たちをギロチンで処刑しまくったフランス革命が今も絶対的な正義として生き続けているのがまざまざと見えたことである。
 日本を始め、英国、デンマークのように今も君主制をとっている国の民にとっては、受け入れ難いのではないだろうか。

 

▲自分の生首を持って歌うマリー・アントワネット

▲窓に首を手にした「アントワネット人形」が並ぶ中、赤い煙があがる(ロイター)


 パリオリンピック開会式について、批判的なことを並べてたが、東京五輪を思い起こすと、偉そうなことは言えなくなってしまう。常識を越えた柔軟な発想、創造力、美的感性で「フランスには絶対勝てない」と改めて知ったからだ。
 悲しいことに、東京オリンピックの開会式セレモニーを思い起こすと、印象に残っている場面は、一つもない。唯一、記憶しているのは、開会式ではなく、リオデジャネイロの閉会式で世界中から喝采を浴びた故安倍首相扮するスーパーマリオ(安倍マリオ)の勇姿だけだ。


▲「安倍マリオ」は世界的に大好評を博した
 

 東京オリンピック直前に、開会式の音楽を担当することになっていた音楽家小山田敬吾氏が過去に同級生をいじめていたことが発覚し辞任に追い込まれた。更に、クリエイティブディレクターだった佐々木宏氏が「渡辺直美の豚耳」事件で辞任という不幸も重なった。
 これらの「事件」がなかったとしても、東京がパリほどインパクトのある開会式を実現できたとは残念ながらとても考えられない。しかし、視点を変えれば、日本も捨てたものではないとも言える。
 東京オリンピックはコロナのせいで1年延期された挙げ句、無観客での開催を余儀なくされた。興行収入、宿泊、飲食、ショッピングなどの関連収入の道も絶たれた。そんな中で、日本は、損を承知で地道に黙々と責任を果たした。その責任感の強さと律儀さは世界に誇ってよいだろう。
 日本以外の国が当事者だったとしたら、とても日本と同等のクオリティーでオリンピックを遂行できたとは考えづらい。国によっては、なりふり構わず、開催を放棄したかも知れないのである。さて次回は、2012年のロンドンオリンピックの思い出を綴ってみよう。

             

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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